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火と石器

訳者コメント:
焚き火と調理に始まり、陶磁器や金属からエンジンやエレクトロニクスに至るまで、人間を特徴づけている火のテクノロジーについてです。あまりに強力な火のテクノロジーが、見えなくしているものは何なのでしょう。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


2.2 火と石器

人類以前の生物の初期の分離と、比較的最近の農耕の発明の間を埋めるのが、石と火、言語、計数、宗教、時間、再現描写の美術という初期のテクノロジーです。自然を物扱いし、野生を人間化することで、また世界を管理とコントロールの対象にすることで、そして見る者と現実の間に再現描写のしくみを差し挟むことで、何百万年とはいわないまでも数十万年前に、これらのテクノロジーが分断の流れを始動させました。

注目すべき一連のエッセイで、ジョン・ザーザンは農耕以前の分断の起源について説得力のある主張をします。彼は直線的な時間計測、言語、数、美術などの制度をある種の原罪と見なし、それを種子として芽生えたあらゆる有毒な雑草が、生態系を破壊し、大量虐殺し、自らを殺す現代世界だったのだと見ます。エッセイが向けられた主な読者はマルクス主義者と無政府主義者で、彼らは資本主義の打倒にこそ世界の問題の解決策があると見ます。ザーザンの著書『Elements of Refusal(拒絶の要素)』は、革命がそれよりずっと深いものでなければならないことを立証しますが、その理由は、文明が行った破壊の根源が、世界からの概念的な分断を可能にするあらゆる装置と同じくらい深いからだとします[10]。ダニエル・クインとデリック・ジェンセンによる関連した意見とあわせて、ザーザンの批判は文明哲学者が真剣に取り組む必要のあるものです。

私はザーザンが述べる現象を人類以前の時代の奥深くへと遡る分断という命令の自然の成り行きとして語り直します。分断は犯罪や大失敗ではなく、必然だったのです。いま私たちが絶頂を体験しつつある分断の時代は、すでに見たように生物学の法則に、さらには物理の法則にまで、最初から書き込まれていたのであり、農耕とともに拡大した分断がそれ以前の人類のあり方から自然に発生したのと同じです。

まず問いたいのは、最初のテクノロジー、つまり2百万年以上前にさかのぼる石器を使うことが、どういう意味で自然から距離を置くことになるのかということです。石は結局のところ自然物で、それは石油も同じです。道具を作るホモ・ハビリスを、それより前の道具作りをしないアウストラロピテクスから隔てるものは何なのでしょう? アウストラロピテクスを他の動物から隔てるものは何なのでしょう? さらに言えば、私たち人間を他の動物から隔てるものは何なのでしょう?

人間と動物のテクノロジーを区別する最も重要な因子はイノベーション(革新)で、単に道具を使うことではなく、道具の累積的な改良です。これでさえ量的な区別であって、質的なものではありません。動物が新しい「テクノロジー」を学び伝えるのは確かです。人類とともに新たなテクノロジーの蓄積が大きく加速しましたが、それは何も新しいことではありません。

人間であれ動物であれ、新たな改良された道具の一つ一つが、その生物種の生態的地位を変え、環境との関係を変化させます。初期の人類にとって、掘り棒のような発明は新たな食料源の利用を可能にし、土地の実質的な収容力を向上させました。改善や発明を一つするごとに以前の「自然な」状態から一歩遠ざかり、現在のテクノロジー依存の前触れとなり、人口がいったん新たな収容力いっぱいまで増加すると、その一歩は後戻りできないものとなりました。

テクノロジーの蓄積とともに、遺伝的プログラムではなく学習する必要のある技術に、人類はますます依存するようになりました。これは、人間と他の哺乳類や鳥類との質的な違いを作るものではありません。この全ては遺伝子以外の経路を通して伝えられる知識に依存します。道具を使う古代人は、分断を新たなレベルへと進める初期の一歩を踏み出したに過ぎません。

道具の革新は、最初は緩慢なものでした。著しい改善のないまま何十万年が経つこともありました。でも文化によって伝えられた知識が蓄積すると、その合計は人間の切り離された領域を作るまでになりました。文化の影響を受けた人間と野生の人間の違いは拡大しました。自然からの概念的な引き離しは、その新たな段階が進みつつありました。

人間の切り離された領域の出現は、間もなく私たちの生理機能にも現れました。テクノロジーの革新が一つあるたび環境に手を加えることを意味し、それが新たな淘汰圧を及ぼします。したがって、テクノロジーの進化は生物の進化にも反映されるのです。道具を手にしたホモ・ハビリスは、もはや以前と同じ生物種ではなく、自分の環境を変えることで自分自身を変えたのです。手、目、姿勢は、全て道具の使用を促進するよう変化しました。原生人の進化の大躍進はみな、テクノロジーの躍進によって起きたか、それを伴うものでした。ホモ・エレクトゥスは、ホモ・ハビリスに対してテクノロジーの著しい改善が起きたとき発生しました。おそらくこのような改善は、種の形成という変化の確かに重要な部分だったのでしょう。もしそうなら、テクノロジー発達の初期の段階を、一つの生物種による発明の連続としてではなく、かつて無い広がりをもって無機物の領域にまで及ぶ表現型の、生物・テクノロジーの複合的進化として、見ても良いのかもしれません。テクノロジー発達のペースが加速すると、分断も加速すると思って良いのかもしれません。新たな種の分化が起きそうなのか、あるいはもしかすると既に起きているのかどうか、じっくり考えてみても良いのかもしれません。

人間の領域が拡大し自然から切り離されると、テクノロジーは世界の操作とコントロールを意味し、自然を人間の意図と目的に従わせることを意味するようになりました。自己が自己の外にあるものを操作するのです。テクノロジーに内在するのは、世界を自己と他者に分割し、私と環境に分割することです。

おそらく、この分割の良い例となるテクノロジーは火の他になく、これが分断に向かう次の大きな一歩となりました。他の歩みと同じように、火を使いこなすことも徐々にできるようになったのであって、自然が与えてくれるものを信頼する代わりにテクノロジーを選ぶという、人間の明確で妄信的な決断によるものではありませんでした。ホモ・エレクトゥスはおそらく何十万年もの間、火のおこし方を知らないまま火を使っていました。やがて火は、人間を動物の中でも特異な存在として定義するようになりました。調理に利用することで、人間の消化器系は永久に変わりました。保温と保護のために使うことで、まったく新しい生態系に生きることを可能にしました。もちろん最終的には、火は陶磁器や金属、エンジンや工場、化学やエレクトロニクス、そして人工的な近代世界全体の構築へとつながりました。でもそれは、人間の能力を追い越して先走りつつあります。

その最初から、火は切り離された人間の領域という概念を強化しました。焚き火の輪によって世界は二分され、飼い慣らされた安全な部分と野生の部分になりました。ここには囲炉裏があり、家庭の輪の中心でした。ここには暖かさがあり、冷たい世界を遠くに追いやってくれました。ここには安全があり、捕食者を寄せ付けない場所でした。ここには光があり、人間の領域を区切りながら、その向こうの夜をより深く、より異質なものにしていました。火の光の輪の外にあるのは、他者、野生、未知の世界でした。

現在、火を使った技術は地球を覆いつくし、文明の光がこの惑星に残されたわずかな暗闇の場所へと入り込むにつれ、私たちは世界征服がほぼ完了したと、つい想像してしまいます。野生をすべて家畜化し、世界を人間の支配下に置いたのだと。同じように、科学の光が宇宙に残されたわずかな謎を照らし、未知なるものを既知なるものに変え、神秘的なものを人間の理解と測定の構造に従わせることを、私たちは想像します。しかし考えてほしいのは、焚き火が光の輪の外側の影を深くするように、もしかすると私たちの科学は、私たちが現実のすべてだと錯覚している視界の中だけを照らすことしか出来ていなくて、その外にある広大な世界をますます近寄りがたいものにしているのかもしれないということです。私たちが思い込んでいるのは、焚き火の輪の外にある世界は存在しないとか、あっても重要ではない、あるいは火をもっと高く焚き上げ、利用できる薪をすべて燃やし尽くせば、闇は光に屈するだろうということです。

火によって、切り離された人間の領域は新たな性格を帯び始めました。それは直線性です。直線性は現在のシステムが持続不可能であることの根源にあるもので、投入物が無限にあり、廃棄物の捨て場が無限にあることを前提とします。火がそのようなシステムの比喩としてふさわしいのは、それが物質をある形から別の形に一方的に変換し、その過程で熱と光というエネルギーを解放するからです。私たちの経済が、蓄積されたあらゆる形の文化的・自然的な富を焼き尽くし、貨幣という形でエネルギーを解放するのと同じように、私たちの産業も、蓄積された化石燃料を燃やし、私たちのテクノロジーを動かすエネルギーを解放します。どちらもしばらくの間は熱を発生させますが、同時に冷たく、死に絶え、有毒な灰や汚染物質を大量に発生させます。無駄に命を落とした人間の灰の山がそうでしょうし、露天掘り鉱山の採掘場も、有毒産業廃棄物の処理場もそうでしょう。

火が不自然だということではありません。火は、これと生物学的に対応する酸化と同じように、自然の循環の一段階です。私たちの妄想的な愚行は、あたかもその循環の段階が永続的かつ独立して存在できるかのように振る舞うことです。現実の全体像を見ることができない人間だけが、こんなふうに言うことでしょう。「もちろん、私たちは永遠に火を燃やし続けることができる。燃えが悪くなったら燃料を追加すればいい。」もっともっと大きな火を永遠に燃やし続けられると信じるのは、明らかに不条理で、無知で、妄想的なことです。燃料が豊富なうちは、妄想が続くかもしれません。しかし今、私たちが灰の中で窒息している間にも、社会資本と天然「資源」の両方の燃料が尽きかけていることは、ますます明白になっています。

火という原初のテクノロジーは木材を使うことがほとんどで、それによって樹木を通常の生物学的循環から外し、物質とエネルギーの自然な流れを横取りしました。するともう、何世代もの昆虫、菌類、土壌を養うことはありません。このように木材の酸化エネルギーを人間の目的に横取りすることで、テクノロジーが体現する支配的な関係が非常に早い段階で定義されたのです。いま、同じ論理で世界中のあらゆる物質を「資源」と見なし、人間にとっての有用性に応じて分類しています。

火が象徴する自然の支配は、火を使ったテクノロジーの中でも最も古い2つの技術、金属と陶磁器に現れています。どちらも土から取った物質の変化を伴います。火は、自然の物質である粘土や鉱石を人間の物質である陶磁器や金属に変えることで、切り離された人間の領域の発展を助けました。人間のテクノロジーを決定付ける火は、物事を自然の領域から人間の領域へと移し替えます。

もし火が酸化に頼る生命の基盤を消費するのなら、現代の火のテクノロジー自体が、生態系の破壊という文字通りの意味でも、文化的、社会的、精神的な富の枯渇という比喩的な意味でも、生命を消費するものであることに不思議はありません。現代社会は主として火のテクノロジーに基づいているからです。自動車や飛行機を生物には不可能な速度で動かすのも火であり、金属を精錬しシリコンに回路を刻むのも火であり、私たちの電力網と通信システムを動かしているのも火であり、自然界に純粋な形で存在しない化学物質を蒸留したり合成したりできるのも火のおかげであり、石灰岩を採掘し道路や高層ビルを建設するために岩を砕く力を発生するのも火なのです。自転車のように「環境に優しい」ものでさえ、火のテクノロジーを利用しています。私たちは他の動物とは違って、「調理」という方法で食べ物にも火を使います。

火を使ったテクノロジーは、自然をコントロールし、改良するという〈テクノロジーの計画〉の典型であり、蓄積されたエネルギーを酸化して奪い取り、私たちが優先する目的のために利用します。これらの目的自体が、自然の循環のさらなる破壊に関与しているのも偶然ではありません。自然を大規模に破壊し、物理的な景観を作り変えることは、火に基づくテクノロジーなしには不可能です。高速道路やダムの建設から森林の皆伐に至るまで、大規模な自然支配のほぼ全てが、内燃機関や石炭・石油火力タービンのような火のテクノロジーに依存しています。しかし、アメリカ北東部全体で起きた最初の皆伐は、手斧とノコギリだけで行われたことを忘れてはなりません(金属製だという点で、火を使うことに違いありませんが)。石器時代の文化がこれを成し遂げられるとは思えません。しかし、火に基づくテクノロジーが台頭するや否や、森林皆伐のような企ては技術的に可能であるだけでなく、道徳的にも望ましいものになったことは、ギルガメシュ叙事詩が証言するように、古代シュメールの時代までさかのぼります。

読者は次のように抗議するかもしれません。火のテクノロジーのほとんどは化石燃料に基づいていて、その燃焼は(他の方法では生命を減少させることはあっても)、厳密に言えば他の生命活動の糧となる蓄積エネルギーを「奪う」ものではないのだと。このようなエネルギーが地下深くに蓄積されていることのガイア的な意義については、最終章でいくつかの推測を述べることにします。今のところ重要なのは、燃やすのが木材であろうと石油であろうと、燃焼の精神構造メンタリティは同じだということです。蓄積されたエネルギーをコントロールという人間の目的のために横取りし、同時に持続不可能な永遠の直線的成長を装いながら、循環の他の段階を劣化させるのです。

私たちの時代があまりにも強く火のテクノロジーによって定義されているため、他の領域のテクノロジーが存在する可能性を忘れてしまうことがあります。他の時代の他の人類は、植物に基づく、地球に基づく、身体に基づく、心に基づくテクノロジーにおいて、実は我々よりも高度に発達していました。私たちが魔法や迷信として退けている習慣の多くは、実際には、今の私たちがその可能性と力が存在するかもしれないと思うことさえできないような心と体の発達の在り方を表していたのです。それらに手が届かないのは、歴史的な偶然によるものでも、故意の無知によるものでも、支配的な火を使うテクノロジーの競争相手を撲滅するための意図的な策謀によるものでもなく[11]、むしろ自己と他者という二元論的な宇宙論における私たちの根本的な自己定義とは相容れないからです。現在、宇宙から自分自身を切り離すことがますます不可能になるにつれ、自己に対する新たな理解が生まれ始めていて、それが、忘れ去られようとしている、あるいはまだ発見されていないテクノロジーの領域を自然に育みます。私たちは、切り離された自己という現在の二元論的存在論からでは、それらを理解することも活用することもできないのです。


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注:
[10] ジョン・ザーザン [Zerzan, John.] Elements of Refusal. CAL Press, 1999.
[11] ヨーロッパの魔女狩りでは、植物の知識の第一人者である女性の薬草使いが軽蔑され、悪者にされ、さらには皆殺しにされた。女性や先住民文化に対するこうした犯罪やその他の犯罪は、支配的な火を使う技術に対する競争相手を排除する効果があったことは確かだが、私はその代わりに、こうしたキャンペーンの根底にあり、一致団結させている、より深い命令について言及しているのだ。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2-02/


2008 Charles Eisenstein

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