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自己の生物学的起源

訳者コメント:
自他の分断、人間と自然との分断を乗り越えていこうという話をするとき、この区別は免疫系や細胞膜として生物の仕組みに備わったものだということに思い当たります。連綿と続く分断は人間が間違いで選択したものではなく、宇宙的な進化的な目的に沿ったものだという話が展開されます。分断の物語を単純な善悪に落とし込むことはできないのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


第2章:分断の起源

2.1 自己の生物学的起源

テクノロジーは、私たちが自然から分断され自然を物扱いしたことの原因であり結果でもあります。現代の人工的環境や、機械力への依存、加工食品をその典型として、テクノロジーは私たちを自然から遠ざけますが、一方で、自然を操作とコントロールの対象としてテクノロジーの適用を促すものは、私たちが自然から概念的に距離を置いたことに他なりません。この「鶏が先か卵が先か」というシナリオはどのように始まったのでしょう? テクノロジーが一つの側面をなす自然からの分断の、きっかけは何だったのでしょう?

ジャレド・ダイアモンドが説得力のある文章を書いたのは、農耕を約1万年前に受け入れたことに続く膨大な変化の連鎖についてです。文字、数と計算、暦、分業、征服戦争、私有財産とその蓄積、貨幣、疫病、奴隷、飢饉などへと連なる農耕は、彼の言葉では「人類史上最悪の間違い」だったのです[1]。彼をはじめ大勢の権威が指摘するのは、初期の農民は「自分たちが取って代わった狩猟採集民よりも、体格が小さく栄養状態が悪く、深刻な病気に苦しみ、平均的には若くして死亡した」ことです[2]。農民の暮らしは楽でもありませんでした。先に書いたように、狩猟採集民は農耕民よりずっと多い余暇時間も享受します。これは古人類学における最も厄介な問いの一つにつながります。農耕はどのように始まったのか? それは本当に「間違い」や下手な選択だったのか、それとも必然的な変化の展開だったのか? そして私たちはテクノロジー全般について同じ問いを発するかもしれません。テクノロジーを持つ生物種としての「人類の上昇」全体が、人類学の他に進化生物学の文脈でも、運命づけられていたのか? それは私たちの在り方に組み込まれているのか? それともテクノロジーは、最も初期には農耕以前に始まって、農耕や産業、情報テクノロジーまでこのかた、何度も何度も繰り返してきた間違いなのか?

もちろん農耕が最初のテクノロジーだったわけではありません。その前から私たちには石などの材料でできた道具がありましたし、火を使い、言葉を持っていました。テクノロジー以前の人間、テクノロジー以前のホモ・サピエンスなどというものは存在しません。じっさい最も初期のホモ属の代表であるホモ・ハビリスの化石は240万年前に遡りますが、すでに石器を作っていましたし、その後継者のホモ・エレクトゥスは約150万年前までに火の使用にも熟達していました[3]。それ以来、私たちの手は道具を使うよう進化し、顎は火を通した軟らかい食物を食べるよう進化し、消化器系は同じように火を通した食物の消化に必要な酵素を発達させ、身体は衣服なしで生存するのに必要な体毛をほとんど失い、脳は言語を扱うよう進化しました。荒野に裸で放り込まれた男や女が生き残るのは(適切な訓練を受けていれば)確かに可能ですが、彼や彼女がそうするために取る方法は、まず道具を作り火をおこすことです。このような道具作りの技能は教わる必要があり、遺伝的に伝わるものではないので、皆がもっているテクノロジーの定義に当てはまるのは確かです。人間はまさにその本質からテクノロジーの動物なのです。

テクノロジーは物理環境を操作するための(遺伝的にコードされたのではない)習得した技能からなると定義する限り、人間はテクノロジーを使う唯一の動物ですらありません。ほとんどの哺乳類と鳥類は生存のための行動を親から学び、道具を使うものさえあります。チンパンジーは道具として棒を使うだけでなく、棒を選んで手を加え、何かに登ったり、白蟻を捕まえたり、根を掘ったり、蜂蜜を抜き取ったり、梃子てことして使ったりします[4]。エジプトハゲワシはくちばしで石をはさんでダチョウの卵を割る道具にします[5]。ガラパゴスフィンチはサボテンのとげを使って割れ目から虫を引っぱり出し、ニューカレドニアのカラスの一種はもう一歩進んで、木の葉を切って刃物の形にすることで、実際に道具を作ります[6]。もし道具が環境を操作するという目的のための身体の延長だと考えられるなら、顕微鏡サイズの円石藻類が環境中のカルシウムから作る方解石の殻を道具と考える必要があるかもしれません。どこまでが身体で、どこからが「身体の延長」なのでしょう? ここでもまた私たちが行き当たるのは、おそらく恣意的な、あるいは不明瞭な自己と非自己の区別です。私たちが習慣的に行っている自己と非自己の区別は、私たちの世界観が生物学に投影されたものの代表格ですが、詳しく調べれば解体してしまいます。

同じ考え方が文化にも当てはまります。鳥類と哺乳類が重要な行動を母親から学ぶのは、意識的な模倣ではないかもしれませんが、その後には遊びを通して学びます。少なくとも母親が(時には父親が)神経発達の引き金となる刺激を与えます。(情報を使うこの能力が「遺伝的にプログラムされている」ことはあるかもしれませんが、)遺伝子以外の情報がこうして伝達されます。結局のところ、私たちの遺伝子も言葉を学ぶための身体構造を与えているのです。文化はテクノロジーと同じように、人間以前から生物学的に始まっていたのです。

円石藻類の殻が道具を使うことの例だと考える人はほとんどいないでしょうし、鳥類による道具の使用さえ「本能」として片付けられるのが普通です。同じように、野生のチンパンジーや、ボノボ、クモザルの道具の使用を、その道具のことを本当は「理解」していないし、そういった行動は何か自動的なもので、盲目的な模倣を通して学習されるのだと主張して片付ける専門家もいます。私は自分のコンピューターがどうやって働くのか本当に「理解」しているわけでもありませんが、この主張には反論しないでおきます。ここでの要点は、環境を操作し改変するために身体以外の物体の使用を学習することは、人類が地球上に登場する遙か以前に始まったということです。テクノロジーが不運な選択のせいだということはできません。ホモ・サピエンスがこれまでやってきたのは、何十億年も続く営みを単に加速したことだけです。

人間と動物のテクノロジーの区別を、道具を使ってより多くの道具を作る動物は人間だけだということに見出す哲学者もいます。この区別は動物と人間の認識上の質的な違いを表しているのでしょうか? それはちょっと恣意的な気がします。しかし、この区別はテクノロジーの重要な特徴を捉えています。それは蓄積する性質、つまり一度始まると自然の成り行きで自分自身に積み重ね、しだいに使用者を何もない始めの状態から引き離していくという事実です。

動物のテクノロジーはひいき目に見ても初歩的なものですが、自然からの個別化の度合いや、個別の存在としての自意識も動物では同じように未発達です。私たちの個別化、つまり自然からの分断は、選択や間違いなどではなく、私たちが人間になる前から動き始めた必然だったという可能性を考えてみて下さい。するとその頂点は、個別化をニュートン・デカルト・ダーウィン的な世界観に内在する絶対限界にまで高めることです。

多くの動物が道具を使い、道具を作るものもあると見なせることから、テクノロジーに内在する自然からの個人の分離は、動物にもある程度は当てはまると予想していいかもしれません。そしてもし動物がそうなら、植物は? 菌類は? バクテリアは? 細胞以前の生命は?(そんなものが存在したらの話ですが。) 私たちは普通、原始人を「〈自然〉と一体」とまでは行かなくても「〈自然〉と調和している」と見なしますが、人間以外の生物種はなおさらです。確かに私たちよりもそのような状態に近いでしょうが、最も単純な生命体にさえ分離の兆しがあって、その後に起きたことを示唆しています。今日の分断の時代は何十億年も前に始まっていて、生物進化の原動力そのものによって将来の筋書きが作られていたと考えて欲しいのです。それは大失敗から生じたのではなく、どこかで原人の一団が自然の大交響曲に持ち込んだ、目立つ不協和音などではありませんでした。むしろ分断は、宇宙的変化の必然的な展開だったのです。

最も基本的なレベルでは、内部の環境を化学的・熱的な平衡へいこう状態から引き離し一定に維持することによって、あらゆる生き物は自分自身と外の世界の区別を作り出します。現代のあらゆる生命の定義が引き合いに出すこの概念は、恒常性こうじょうせい(ホメオスタシス)と呼ばれます[7]。恒常性はエントロピー増大の局所的な停止や逆転を必然的に伴うので、たとえば太陽のようなエネルギー源を必要とし、それによって実質的にエントロピーは外部環境へと運び出されます。すると定義上、生命は内側と外側という二元性を作り出し、さらには環境から不可逆的に何かを取ることを必要とします。熱力学の観点からいうなら、生命は(エントロピー的な)コストを環境に負わせなければ存在できません[8]。

したがって生命は、分断を必要とするだけでなく、じつは一時的に自己保持する宇宙の一部が分離したものなのです。けれど、私たちの持っている根本的な文化的前提に反して、この分離は永続的でも絶対的でもなく、程度の問題です。実際には、分断は容赦なく自分自身を積み重ね、地球上で何億年にもわたり続いてきましたが、まず生物学的な段階を経て、次にはテクノロジーの段階に至りました。

自己と環境の区別は、最も初期の生命であるバクテリアでは最小限で、遺伝物質を流動的に共有することで自他の区別はぼやけています。しかし高等動物や植物でさえ、相互に依存しながら互いの存在に欠かすことのできない内部と外部の環境を共同で創り出します。どんな植物や動物も完全に個別化し切り離された存在ではありません。第6章で見ていくように、自己や生命体の明確で絶対主義的な定義というものは存在せず、そうではないと信じる私たちの信念は、自分の自己についての誤った見方を単に投影したものに過ぎません。それでも、バクテリアから高等生物へと至る生命の進化が、その後に続く個別化の劇的な加速の土台を作ったのは間違いありません。

この時点で、バクテリアの繁殖について時代遅れの神話の誤りを暴いておく必要があります。無性生殖では染色体の入れ替えがないので、バクテリアなど無性生殖の生命体で進化は非常にゆっくり起きるはずだと長いあいだ考えられていました。しかし分かったのは、バクテリアは実際には他の生命体に比べると遺伝子的には貞節どころか非常に見境のないもので、種と個体という概念そのものがほとんど通用しないほどです。バクテリアは遺伝物質を様々な手段を通して定期的に交換します。バクテリオファージを通して、またプラスミドなどのDNA断片を環境に放出し他のバクテリアに取り込ませることで、そして接合して遺伝物質を直接交換しますが、これは無性生殖のバクテリアが行うある種の「セックス」です[9]。

個別化の進展における次の大きな前進は、有核細胞と有性生殖の登場でした。細胞核は遺伝物質を環境から隔離し、より個別化し強固な境界を持った自己を可能にします。セックスがバクテリア界の至るところで行われる遺伝子の乱交に取って代わり、範囲を厳しく制限した遺伝子混合という領域になりました。遺伝子が生命体を定義する(これははなはだしく誇張されたものですが)のと同じくらい、遺伝子混合をセックスという行為に限定することで生命体はさらに個別化しました。先に述べたように原核バクテリアが遺伝物質を流動的に共有することを考えれば、有性生殖は生命体どうしの絆をいっそう強めるイノベーションではなく、それまでの解放的なあり方の範囲を制限し、もっとはっきりした境界線を引くものだと見ることができます。つまり有性生殖の遺伝子混合は、以前はいつでも起きていた交換を別のカテゴリーに振り向けたのです。

半分真面目な推測にふけるのを許して頂けるなら、バクテリアの生活は絶え間ない至福の状態で、永遠に続く宇宙との性的合一の状態にも似たものです。私たち人間が性交を行うとき、わずかの間だけ取り戻す存在状態は、一体性が大きく分断が小かったかつての時代には最低限の基本だったのです。私たちが「愛の営みメイク・ラブ」をするとき、多くのレベルで境界を取り払うので、この婉曲表現は適切なもので、愛は他の存在との間を隔てている境界の解放に他なりません。バクテリアは細胞核を持つ生命体に比べこのような境界の維持に関心が低く、したがってより多く世界との愛の中にいるということができるでしょう。バクテリア細胞膜がもつ恒常性の境界さえ忘れ、何の境界も認めない状態こそ、なお一層の至福でしょう。それは宇宙意識、神との一体感、あるいは宇宙的愛と呼ばれるものです。自己が全体から分離し他の自己と生存をめぐって競争することになった進化は、そのような至福の状態からだんだん距離を置くようになった変化だと見ることができないでしょうか? この場合、ジョン・ザーザンのような「未来の原始人」たる急進主義者に、私たちはこんな応援を送ることができます。テクノロジー以前の狩猟採集民がもっていた自然との一体状態へと単に戻るのではなく、テクノロジーのみならず進化を取り消そうではないか、真核生物の独裁を打倒しようではないか! 我々が道を誤ったのは農業でも表現言語でもなく、細胞核だったのだ! もちろんこれは冗談ですが、またしても昔から続く分断の上昇に組み込まれた宇宙的な目的の必然性と可能性をほのめかしています。

遺伝物質を細胞核に隔離したことで、生命体の自己の生存欲求とDNAのものとが実質的に一致しました。あなたと私が共通の祖先を持つバクテリアになったと空想しましょう。DNAの観点からは、生殖は無性的にしか起きず作られるのは正確なクローンなので、私の生存はあなたの生存以上に重要ではなく、少なくとも同じ種の中では、進化の上で利他主義を妨げるものはありません。じっさい、同じ種のバクテリア全体を広く分布した単一の個体と見なすことができると提案した人もいます。バクテリアの中での遺伝子水平伝達の頻度がさらに示すのは、遺伝子複製という観点から見ると個体としてのバクテリアには比較的に低い重要度しかないことです。

これと対照的なのは有性生殖する分類群で、各個体が固有の遺伝子を持ちます。あなたと私は(もうバクテリアではありませんが)共通ではない遺伝子を多く持っているので、また私たちは互いに遺伝物質を伝達することができないので、他者を犠牲にしてでも個人の生存と生殖を最大化する行動を実行するよう私たちの遺伝子がプログラムするのは当然ということになります。動物は、(いくつか例外はありますが)有性生殖に限られるので、遺伝子的にはこの種の利己的な振る舞いから最も大きい利益を得ます。また、より高度に他の種から差別化するほど、利己性の遺伝子的な動機も大きくなります。ある個体と同じ種の他者との分断や、他の自然との分断は、系図を一段下るごとに遺伝子的な基礎が大きくなります。

急いで付け加えておきますが、この分析はやや誤解を招くもので、その元になっている時代遅れの科学的根拠の誤りを本書で暴いていきたいと思います。実際には、競争は行動と進化にとって一般的に思い込まれているほど重要な決定要因ではなく、「血みどろ」の自然観のほとんどは私たち自身の文化的偏見の投影です。私たちは自分が探すものを見つけるのです。第二に、遺伝子が行動を「プログラム」し、人相の設計図となるという考えも、同様に誤りで、私たちの機械論的世界観の産物です。現れつつある証拠は、DNAが個体を超えた目的を達するため、環境が引き金となりDNAを改変することさえあるのを示しています。第三に、高等生物の遺伝子の完全性は一般的に考えられているほど絶対的なものではありません。植物、菌類、動物でさえ、以前なら気付かなかったような方法で、バクテリアのもつ遺伝子の流動性を共有しています。生物学的自己の遺伝子の完全性と思われているもののほとんどが文化的投影だということを示す第四の兆候は、核を持たないバクテリアから真核細胞への飛躍が、他の大進化の飛躍と同じように、単純な生命体の共生的融合により起きたということです。競争ではなく協力が、生命の主な基盤であり進化の主な動力源です。この新たな生命の理解がどのように人類文明の新たな段階のモデルを与えることにもなるのかを、私は後半の章で探ります。今のところは、現在の単細胞真核生物とそこから派生した多細胞の植物、動物、菌類など高等生物の個体は、単純な個体の融合によって作られたのを見ることで十分としましょう。アルフレッド・ジーグラーが著書『Archetypal Medicine(原型の医学)』でいうように、生命はキメラ*なのです。[*同一個体内に異なった遺伝的背景を持つ細胞が混じっていること]

DNAを別にすれば、私たちはいつも外界と物質を交換しているので、私たち皆の身体が環境へと染み出ているのはもちろんです。私たちは、自分を作る特定の物質的実体とは独立した存在を伴った流れの半永久的なパターンで、海の波が一時的にだけ特定の水分子の集まりでできているのと同じです。波が新しい姿に向けて前進するのに伴って、分子は単に浮き沈みするだけです。同じように、宇宙の物質が様々な速さと特有の方法で私たち一人一人を通って循環するにもかかわらず、私たちはこの物質を互いに共有し、変異を続ける互いのパターンの流れを、関係性の中で共に創り出すのです。物質も、そのパターンも、自律的で独立した個体を作るものではありません。自己にあるのは条件付きの現実に過ぎないのです。

生物学でのパラダイムシフトの詳細と重要性は第6章で探りますが、ここでその要点は、遺伝子を基にした競争が生命体の行動を決定するのと同じくらい、環境からの自己の分断は、単にテクノロジーではなく進化に基礎を持っているのです。原初の道具を使ってであれどうであれ、生物、とくに動物は、利己的な目的のための環境操作を通して原始的な二元性を発現させます。それが合わさって統一された全体を作るにしても、生命は少なくとも条件付きの分断を具現化させ、それが世界の全体像を私のものとあなたのものに割ってしまいます。分断は人間が地球を歩く遥か前に始まったのです。


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注:
[1] ジャレド・ダイアモンド [Diamond, Jared.] “The Worst Mistake in the History of the Human Race.” Discover Magazine, May 1987. P. 64-66. しかし、ダイアモンドの後の著作は農業が「間違い」という言葉の暗示する悪い選択ではなく、不可避だったという意見に傾いたことに注意されたい。
[2] ジャレド・ダイアモンド [Diamond, Jared.] 『銃・病原菌・鉄(Guns, Germs, and Steel)』. W.W. Norton & Co. New York, 1997. P. 105
[3] ジェフリー・K・マッキー [McKee, Jeffrey K.] The Riddled Chain: Chance, Coincidence, and Chaos in Human Evolution. Rutgers University Press, New Brunswick, 2000. P. 107. 火の使用の起源について様々な権威が広く異なる時期を示していることに注意。
[4] ローレン・コセフ [Kosseff, Lauren.] “Primate Use of Tools.” http://www.pigeon.psy.tufts.edu/psych26/primates.htm#monkeys
[5] ジェーン・グッドールとH・ヴァン=ローウィック [Goodall, Jane and H van Lawick.] “Use of Tools by the Egyptian Vulture (Neophron porenoptemus).” Nature. 212: 1468-1469. 1966.
[6] ヘンリー・ジー [Gee, Henry,] 1999. “The Maker’s Mark.” Nature Science Update, http://www.nature.com/nsu/990506/990506-9.html.
[7] 非細胞生命がかつて存在したという証拠がないという事実を別にすれば、細胞以前の生命はこの恒常性の原理の例外かもしれない。原始スープの、いわゆる「裸の」自己複製リボソームが存在するのは理論上だけで、この理論は生物発生の有りうる説明というよりは、私たちの文化の自己の概念の投影で、この主張については第6章で説明する。
[8] 熱力学的エントロピーではなく組み合わせ論的エントロピーのことを話すと、この形の分断でさえ錯覚だと見なされる可能性がある。それは最初の低エントロピー宇宙がどうして生まれたかという深い問いになる。ある時点で利用可能エネルギーが無から生じる必要があり、ビッグバン宇宙論で一度に生じるか、定常宇宙論で継続的に生じるかのどちらかだ。言い換えれば、ここでの深い問いは「私たちが生きているのは、欠乏の宇宙か豊かさの宇宙か、どちらだ?」というものだ。
[9] バクテリアにおける遺伝子の水平伝達の明快な説明は、これを参照。W.J. Powell, Molecular Mechanisms of Antimicrobial Resistance, February 2000.


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2/


2008 Charles Eisenstein


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