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チャールズ・アイゼンスタイン 書籍『コロネーション』の概要

訳者より:書籍全体の概要を一読できるようにまとめてみました。各章のタイトルから本文へリンクしています。


コロネーション 〜コロナ禍の随想〜

チャールズ・アイゼンスタイン著 酒井泰幸 訳

ジカウイルスと、コントロールの心理構造

(コロナ前に書かれたもの)
 ウイルスなどの病原体が私たちの文化の基本的な危機対応のひな形にぴったりとはまる。▶病気の封じ込めや征服の過程では、社会をコントロールする計略も同時に強化、他の目的にも転用可能。▶コントロールのイデオロギーが依存しているのは還元主義(問題を単一の原因に落とし込む)。複数要因の非線形で創発的な問題に、還元主義的な戦略は効かない。

コロネーション

 人類が共通の目的のために団結すれば、驚異的な速さで変化を起こせる(民間航空機での旅行を停止)。▶いま奪い去られつつあるもの(人権、集会の自由、自分の身体への支配権、対面での集会、ハグ、握手、公の生活)の中で、私たちが意図的に政治的・個人的意思を行使して回復しなければならないのは何か?▶全体主義的統制という意図にぴったりと当てはまる。恐れを抱いた大衆が人権の剥奪を認めてしまう。▶感染症の脅威はけっして消え去ることはなく、統制措置は簡単に恒久化できてしまう。
《反射的なコントロール》
 世界の飢餓や、依存症、自己免疫、自殺、生態系の崩壊には、どうしたら良いかを単に知らない(戦うべき相手が外部にいない)。支配とコントロールの危機対応は、ほとんど無力。▶対処可能な困難は歓迎され熱心に利用される。大衆は簡単に受け入れる。▶文明が得意なことが一つあるとすれば、敵と戦うこと。
《陰謀説の物語》
 文明にとって進歩は世界へのコントロール拡大。文明の運営者はコントロール強化のチャンスを歓迎。▶陰謀説は「病原体を探せ」という考え方と大差ない戦争メンタリティー。社会が陰謀の温床となる条件を無視する危険。▶何が起きているのか本当のことは知り得ない。
《死に対する戦争》
 1ヶ月のロックダウンが百万人の命を救うためなら妥当な犠牲(相対的)。▶正しく生きるとは?正しく死ぬとは? 死をどのように考え、遊びや触れあい、一体感にどれほど価値を置くか、市民的自由、個人の自由にどれほど価値を置くか。▶安全、安心、リスク低減への傾倒。生き長らえることを最優先とする価値体系。恐怖を具現化するシステム。▶医師の最終的失敗は死。できるのは死の先延ばし。社会は死の否認(死体の隠蔽、若さへの極端なこだわり、老いた人々を介護施設に収容する)。生存・繁殖可能性の最大化。▶ペルーのケロ族「シャーマンを呼んで健康に死ぬのを助けてもらう。」リサ・ランキン医師「死は終わりではなく、死は故郷に帰ること。」▶全体主義(完全なるコントロール)は個別ばらばらの自己という神話の必然的な帰結。
《私たちはどんな世界に生きるべきなのか》
 死亡者数の減少が進歩となるような未来を選ぶのか?
《生命はコミュニティーだ》
 多様な腸内細菌叢は免疫システムに欠かせず、その多様性は他の人々や生物界との接触によって維持される。社会的にも生物学的にも健康はコミュニティーによってもたらされる。生命が孤立して繁栄することはできない。▶細菌に対する戦争という考え方は、終わりのない戦争を作り出し、素地の条件から関心をそらす。▶近代世界の人々は不安定な健康状態にあり、普通なら些細なことがきっかけとなり発症する。原因は私たち自身。「金魚が病気だ。特異病原体説=金魚を隔離せよ。感染の素地説=水槽を掃除せよ。」
《コロネーション(戴冠式)》
 「弱い立場に置かれている人々全てを、どうすれば気づかい世話することができるだろうか?」という問い。痛々しいほど思いやりを欠いた「普通」には、もう戻りたくない。▶災害はしばしば連帯感の発露を解き放つ。(「災害ユートピア」)▶私たちに降りかかっているウイルスは恐れ。分断とトラウマという素地の上で増殖。この素地を変えるには、個人のレベルでトラウマを癒し、より思いやりのある社会に向けて社会全体が変わり、基本をなす分断の物語を書き替える。▶ウイルスは、人間だけでなく全ての真核生物の進化に不可欠(遺伝子の水平伝達)。▶通過儀礼としてのコロナ禍。「普通」からの分離、それに続くジレンマ、破綻あるいは試練、(もし完遂するなら)それに続くのは再統合と祝福。▶何に向けての通過儀礼?「新型コロナウイルス・パンデミック」=「みんなの新たな戴冠式」。無意識が意識へと出現すること、カオスが秩序へと結晶化すること、他者からの強制を脱却して自らの選択に立脚すること。

陰謀という神話

 陰謀論者とは? 権威を疑問視したり、主流のパラダイムに異議を唱えたり、隠された利害が指導的組織に影響を与えていると考え、権力を持った機関が時には結託し、陰謀を企て、隠蔽し、腐敗すると信じている。▶別のレベルの陰謀論:世界がどのように動いているかを説明する中心的な原理が陰謀。権力に飢えた邪悪なインサイダーの秘密結社がパンデミックを故意に作り出した。全体主義の世界政府、ニュー・ワールド・オーダー(新世界秩序)を受け入れさせるためパンデミックを冷酷に利用。▶「私はそれを神話だと思います。」神話は真実を伝える手段、その真実は文字通りのものであるとは限らず、ものごとの影に光を当て抑圧されてきたものを解放。▶権威を持つ制度から大衆が衝撃的なまでに疎外されているということの証。科学とジャーナリズムへの広く合意された信頼はズタズタ。権力から見れば、反科学の不合理な考えの台頭(問題の解決は無知と戦うこと)。▶指導者が大衆に向ける態度と本当の動機や計画との間に深い断絶があることへの気付き。▶非人間的な力が世界を支配(直感)。「非人間的な力」は首謀者ではなくシステムやイデオロギー(私たち自身も一員)。権力の座にある人々は、本当の権力の操り人形。▶陰謀論は社会悪と同じ神話の神殿から発す。その神殿は「分断」、主要なモチーフが「他者」との戦争。分断の神話こそコントロールへと向かう「文明の偏向」を生み出す張本人。▶コントロール強化を画策する権力それ自身が時代精神(ザイトガイスト)でありイデオロギー、神話。
《首謀者のいない陰謀》
 陰謀は重要な心理社会的診断。公式の神話からは見えにくいものを明らかに。▶おかしな表現「右翼の陰謀論者」:権力乱用の癖を最も警戒しているのが従来なら左翼。公式見解を信頼せよと訴える役割をなぜ突然に左翼が?▶行動が無意識に調整される様子は陰謀と非常によく似て見え、両者の境界線はあいまい。時代精神に逆らうのは難しい。首謀者は文化とシステムと物語。▶陰謀の秘密結社は症状であり、戦争メンタリティーと、恐怖、分断、コントロールに毒された、病んだ社会を利用している。分断の神話という深いイデオロギーは、誰か一人の力で発明できるようなものではない。私たちが神話を作るのではなく、神話が私たちを作る。
《あなたはどちら側の味方か?》
 陰謀論は、神話としては真実(検証可能な事実に一致しているかどうかは関係ない)。▶戦争メンタリティーが充満する二極化した社会で、自分たちを我らと彼らに分け、無益な綱引きで99%のエネルギーを消耗。神話に疑いの目を向けよう。
《謙虚さの呼びかけ》
 私たちの物語に沿うように現実がそれ自身を組織化。これこそが陰謀で、人間が行うものではない。出来事の背後には、それを組織している知性が存在する。▶コロナ反対論に「陰謀論」の汚名を着せる声高な攻撃は、彼らが守ろうとする正統パラダイムの弱みを示している可能性が高い。▶正統論・陰謀論の間にある、不確かさ、知らないこと、謙虚さという聖地にこそ、本当に新しい情報がやって来る。▶信用できる人とは、自分の誤りに気付くことのできる謙虚さを持つ人。敵意を持ったスパイではなく、敬意ある客人の態度。自分の持っていた物語と食い違う実例に出会い、納得のいく物語の一部となる。どちらの側が正しくても意味を持つ行動を、私たちは探し求める。もっと幅広い社会的合意を作り、二極化を癒す仕事を始める。

麻痺

 3分の動画『Numb(麻痺)』。少女の生活がコロナのロックダウン期間に萎縮していく様を描写。▶子供の遊びや、いっしょに歌ったり踊ったり、体を触れあわせ人々が共にいることのメリットのように計ることのできない価値は、計算に入らない。したがって政策決定プロセスに上手く当てはまらない。▶生きるとは、ただ生きているよりも大きなこと。私たちがここにいるのは人生を生きるためであり、ただ生存するためではない。▶私たちが死の先延ばしを最優先にするかぎり、子供たちをロックダウンする理由は常に存在。前例を作り何が普通で容認できるかという基準を作っている。▶基本原則は「繋がり直す」こと。遊びや屋外活動、場所とのつながり、自然との対話、コミュニティーの集いを再評価せよ。苦しみに目を見開くかどうかは私たち大人にかかっている。

白人至上主義の宴

 イマニュエル医師はカメルーン出身で、ナイジェリアで医学の教育を受けた。亜鉛とジスロマック、マラリア治療薬として熟知しているHCQ(ヒドロキシクロロキン)を組み合わせたコロナ治療での臨床的効果を報告。記者会見はユーチューブ、フェイスブック、ツイッターから削除され、メディアはイマニュエル医師に激しい報復を浴びせた。「婦人科の問題が実際には夢の中で悪魔や魔女と性交したのが原因」▶そこに体現されているのは文化的優越性のコンプレックス。健康や病についての他の文化の考えを即座に否定する態度に、その嘲りが染み出る。
《奇怪な他者》
 イマニュエル医師が行うような悪魔払いは、土着の汎神論世界観にキリスト教を融合したものの典型。「奇怪」と映るのは、文化に縛られた西洋の考え方だけ。▶西洋メディアでの中国伝統医学(中医学)の扱い。何千年も洗練を重ね何十万人もの医師が実践している医学の伝統を過小評価。文化を尊重する態度がなく、中医学の基本哲学を文化的に誤解。文化的覇権の一部。
《存在論的帝国主義》
 多数の現実や多数の神話の中で活動する能力は、非近代心理の中心的特徴。▶存在論的帝国主義の2つのレベル。①「我々が正しくて、お前たちは間違っている。」②「矛盾する2つの見方で正しいのはどちらか一方だけ。」▶「悪魔との性交で〈実際に〉婦人科の病気になるなんて本当は信じてないんでしょう?」という言い方の示す、存在論的な優越性。▶私は好奇心をもって尊重するという態度を取る。
《包摂か消去か?》
 マトリックスを変えられないことが当たり前なら、人種平等は比率の問題。▶黒人が白人と一緒に世界を破壊し人間を搾取するマシーンの舵取りをするのなら、人類にとっての勝利とはならない。「包摂」が消去を意味することがあまりに多く、白人文化が最終的に全世界で勝利をおさめることを黙認。▶現代医学、自由市場、集団教育、新自由主義的民主主義だけがメニューの宴席に、全員が座れる席を用意することが「正義、公平、進歩」だと当然視。
《ホットドッグとチーズフライ》
 白人の宴は、ホットドッグとチーズフライに炭酸飲料がメインディッシュの大食い大会。最高の料理が全部メニューから消し去られ、本物の栄養が何もない。最も上座に座る人々の間にも、鬱や自殺、精神病、依存症、離婚の率が絶え間なく上昇。▶近代病が一般化するのは、近代の食品と生活様式を採り入れたときだけ。白人の食生活と生活パターンの影響に対処するため、白人の医療も必要になった。▶中医学やアフリカの伝統医学を受け入れようにも、完全に従来のままの生活にそれだけを付け足したところで上手く働かない。
《何が現実なのか?》
 非西洋の、非科学的な、非白人の神話の中に浸ると、ほどなくしてそれが現実だという証拠に出会う。▶主流の神話の現実:ウイルスと呼ぶ悪霊を追い払う一連の儀式を執り行う。▶現在の歴史的瞬間は神話の移行期、自己と世界を知るための基本的な物語の移行期。まず自分の料理が最高だという考えを捨てる必要。▶科学の基本的・哲学的な前提(誰が観察しても同じ結果が得られ、変数の影響は別々に調べられるという前提)さえも揺らぐ(量子力学)。▶科学と医学に当てはまることは、人間生活の他の部分にも及ぶ。優越性のコンプレックスを手放し、学び直しに必要な謙虚さを私たちは受け入れる。▶西洋文明が世界を支配したという見た目は一時的なもの。私たちの文化が疲弊するのを待っている。このような記憶の文化がもたらしてくれるのは、人類の全体が本物の饗膳を調理するための素材とレシピ。

祭の命 (「祭の死」から改題 )

 私たちは、非科学的だった昔の人たちよりは合理的で効果的な対応をしていると思いたいが、昔からある社会的なドラマや迷信を現代の神話の衣をまとって演じているだけ。▶いま人類が直面している問題は、技術的に解決が難しいものではないが、人間どうしの合意が必要。現代の包括的な危機は市民社会の分極化と断片化。▶哲学者の故ルネ・ジラール:先史時代から社会にとって最大の脅威は「結束力の崩壊」▶不和によってコミュニティが崩壊しそうになると、グループ内の目立つ人物や少数派に対して、自然発生的かつ非合理的な集団暴力が発生。スケープゴートとして一人の人間が生贄になることで、こらえていた報復行為が解消される。▶前触れとなる相互暴力と無秩序の蓄積(「供犠の危機」)から、満場一致の暴力へと移行、社会秩序を回復。▶「理性の時代」になって贖いの暴力という深いパターンを根絶することはなかった。
《祭の死》
 ジラールは、祭が秩序の崩壊とそれに続く暴力的な一致団結による回復を再現する儀式として生まれたと主張。真の祭は飼いならされたものではない。通常のルール、道徳観、構造、社会的区別を一時的に無効化。▶現代「先進国」社会の休日は完全に飼い慣らされたもの。良い兆候ではない。▶祭は、人間が世界を秩序づけることの人工性と脆弱性を思い起こさせ、その中で発狂してしまわないようにするために必要。社会秩序の慣習から逃れ、その中での自分の役割から逃れることがなければ、私たちも正気を失う。▶閉じ込められ、ロックダウンされ、締め出されて、人々はインターネットという高度にコントロールされた環境の中に監禁されて気が狂いそうになっている。人間が正気を保つためには、慣習とは異なる現実と定期的につながる必要。▶本物の祭がなければ、鬱積した欲求は、ジラールのパターンに従う自然発生的な擬似祭典として噴出(暴動)。暴動では、本物の祭と同様に、一般的な行動規範が覆される。社会的緊張のカタルシスによる解放は、深い状況を変えないので、状況維持に加担。▶規制された社会であればあるほど寛容さは失われ、最後に残る唯一のミクロ祭がジョーク。社会慣習としての現実による完全な囲い込みからの遮断。全体主義的な運動はユーモアを非常に嫌う。ユーモアの欠如は供犠の危機が迫っているという兆候。▶非現実的な世界に閉じ込められた結果として生じる正気の喪失は、供犠の危機そのもの、仲間どうしの暴力。

ファシズムと反祭

 儀式的な本能の源は社会的混乱にあり、復讐合戦の暴走が転化し、スケープゴートの生贄への満場一致の暴力。同じような出来事を繰り返さないように儀式、宗教、祭、政治制度が進化。儀式のパターンのひとつが「反祭」、あらゆる禁止事項の遵守がいっそう厳格に求められる極端な禁欲。ファシズムは反祭の拡大、現実であれ想像上であれ迫り来る社会崩壊に呼応して発生。▶「ロックダウン」と呼ばれる一連の反祭。全体主義的な傾向と疑似ファシズム的な敵意。公衆衛生対策の多くは明らかに儀式的な色合いを帯び、共通するのは「穢れ」への執着。▶新型コロナは宗教的ヒステリーでもある。新型コロナに対する私たちの社会的反応は、儀式的な慣習や考え方(マスク、秘薬、タブーとされる人物、神聖化など)と驚くほど類似。▶全体主義社会、反祝祭、ロックダウンに共通するのは、支配という反射。完全に支配された楽園は蜃気楼。極端な秩序はその逆を生み出す。▶権力が行使されれば、私たちは何かが為されたことで安心する。

群衆倫理とワクチン未接種者

 死刑(あるいは収監、つまり社会からの排除)という形で人間の生贄は存在。▶死刑が果たす同じ機能は、満場一致の暴力によって相互の暴力を未然に防ぐこと。復讐の独占により報復的な暴力のサイクルを最初の1回で切り捨てる。死刑執行や投獄の対象が実際に罪を犯していているかどうかは無関係。
《何かが為されなければならない》
 必要なのは、団結をもたらす暴力の標的を見つけること、それも実質的に報復能力を持たない標的。生贄は「社会の中にいるが、その構成員ではない」ことが必要(ユダヤ人)。
《穢れの代表者》
 新たなスケープゴート、現代の異端児「反ワクチン主義者」。非人間化された階級が盲目的な憤りと怒りを呼び、団結をもたらす暴力の発作。取り除けば社会が浄化。▶下層階級に穢れという象徴を付与する。あらゆる邪悪なるものの巣窟として誰かを排除する下準備のため、想像できる限りの誹謗中傷を浴びせる。▶あたかも何かが伝染するというような言い方、悪評の伝染。「ばい菌」。▶のけ者集団に入れられることの危険。のけ者を擁護したり、攻撃する熱意が足りなかったりすれば、疑われる。自己検閲と自粛、満場一致という幻想。
《倫理規範の乗っ取り》
 強化の循環が暴徒を生み出す。少数の声高な人々が標的を宣言し暴徒を扇動。熱狂的支持は群衆の一部。残りの人たちは沈黙し同調。全体主義国家は国民の大多数の支持を必要とない。支持されているように見えるだけで十分。▶同調しないことに対する私たちの恐れは、本能となるまで深く刻み込まれた古代の経験から生まれ、道徳と区別するのは困難。
《大衆を動かす》
 コントロールに向かう社会の趨勢は、新型コロナとワクチン接種計画が、地球上のすべての人間を監視し、追跡し、注射し、コントロールするための全体主義的な陰謀であるという説とも矛盾しない。▶それは隠された「分断」の神話とイデオロギーを実現するために共時性が集まってできた自然発生的な現象か、人間の陰謀家による計画的な陰謀か。この両方とも正しいと確信するようになった。後者は前者に付随するものであり、その化身、症状、表現。▶小さなエリート集団が人類の大部分を動かすため、深い精神社会的パターンを悪化させ利用する(ファシスト)。アフリカ人を奴隷にするため劣った存在と考えることが必要だった。▶ファシズムの「我々」は「彼ら」を必要とする。ファシズムは、より深い本能を活用し、悪用し、制度化。人間性を剥奪した集団を作り殺害するという行為は、有史以前からある。▶このために呼び起こされたエネルギーは、強制的な政策、特に穢れを取り除くという物語に合致する政策を一般の人々に受け入れさせるために利用できる。どんな薄っぺらな口実でも十分。

生贄としての王

 多くの社会では原初の生贄が王だった。カーニバルの王は愚者や道化師、つまり人間の過ちや弱点、欠点を誇張して表す者の形を取る。ドナルド・トランプのプロレスラーのような風貌から予兆される人柄はカーニバルの王にぴったり。▶人間の精神には支配者を引きずり下ろそうという原始的な衝動が潜んでいる。秩序そのものに対する反逆、混沌への転落に続いて起きる再生への渇望。▶現在のエリート階級は、システムの設計者というよりは、システムによって創り出された者たち。システムとパラダイムによって割り振られた役割を演じる。悪の王の役割。エリート階級は腐敗に容赦なく引き込まれる。権力と腐敗は密接に関係している。指導者は対立王、凝縮した穢れの象徴、国家から切除されうるもの。▶エリート階級を打倒するとき、正義よりも野性的で原始的なものが実行される。実際には、生贄の儀式こそがシステムを温存する。エリート階級の一掃で新たな役者が同じ役を演じる準備が整うだけ。

この地球という寺院

 群衆力学はワクチン問題を遥かに超え、ワクチン反対者の内にも作用。我々は善玉、奴らは悪玉。我々の信条から逸脱するなら、お前も愚弄してやるぞ。ならば私に同意しろ!▶戦争の根本にある嘘:ある人々を完全な人間とは認められない=非人間化という群集心理と社会習慣。プロパガンダが私たちに命じるとおりに他者を見ることを受け入れ、自分で実際に耳を傾けて判断する努力をしない。
《私たちの中にいる敵》
 非人間化=真実の中にいない=嘘に弱くなる。内部分裂と疑心暗鬼にも弱くなる。自分の仲間内でもすぐに悪者を見つけ、分裂へと陥りやすい。▶人類にとって現時点で唯一の救いとなる問い:「私があなただったらどんなだろう?」▶弾圧者の本性を理解し彼らの行為を「悪」のせいにするのをやめれば、どんな種類の弾圧にもより効果的に立ち向かうことができる。彼らも私たちを再び人間として見るようになり、勝敗とは別の何かが未来を決める可能性が開ける。
《西洋からの超越》
 解放を見出せるとすれば、それは宗教において。▶キリストの物語は一見すると生贄という型にはまっているように見えるが、じつはそれを破っている。キリストの無罪は、罪が群衆の欲求とは無関係なことを明白に示す。▶赦しはキリスト教を特徴づける教義。赦しは理解の閃きから。「もし私があなたと完全に同じ状況に置かれたなら、私もあなたと同じことをしたかもしれない。」共通する人間性という実感。この理解が審判を防ぐ。審判の背後にある嘘は、「私なら違うことをしたはずだ。」
《東洋からの超越》
 東洋宗教の伝統:強固な二分法の解消、特に自己と他者の二分法。▶相互共存:内と外は互いを反映し包含。例)世界に暴力を振るう国は家庭内暴力に苦しめられる。▶党派主義者は忠誠の対象を勝利から愛へ切り替えてほしい。そうしないと世界に満ちる嫌悪のレベルを引き上げ、社会は人心操作と暴力にますます弱くなる。
《力の指輪》
 トールキンの『指輪物語』:指輪(=非人間化)は完全な悪なので、誰であれ指輪を使う者が新たな冥王となる。▶指輪をそれが作られた火の中へ投げ返そう。私的公的な議論の中で、日常の何十億回のやり取りを通して。▶非人間化にまさる道具は愛。攻撃されてはいないと感じさせ、自己防衛の必要を感じなくなる。この道具を使うには、私たちは自分が変わることを進んで受け入れる必要。

工業的医療を超えて

 ラウンドアップ(グリホサート)そのものと、その相対的な害とメリットに議論を限定することで、ラウンドアップがその一部となっている農業システム全体を、暗黙の内に当然の前提として認める。小規模、有機、再生型、生態系配慮、多様、地域に根ざした農業というシステムがあったら、グリホサートが大きな問題となることなど無かった。▶「メンタルヘルス」にも同じパターン。鬱や不安のような様々な精神的症状=狂った世界への反乱。そのような症状を病気と呼んで向精神薬により治療することで反乱を鎮圧し、現状の社会に適応するようにその人を調整。もし現状の社会を正しくて良いものだと認めるなら、適応できない人は病気の人とされるのは当然。▶この誤りの根源は何か?システムと現実を生みだしたイデオロギーが、文明そのものから分かちがたい程にまで深く文明に織り込まれていること。個別ばらばらの自己という概念は生き物のように進化し、私たちの時代にその絶頂へと達した。▶工業的医療は多くの面で工業的農業というシステムに酷似。ワクチンは私たちが知る形の社会が通常どおり機能し続けるようにするための手段。精神病の治療薬に似る。▶「普通の生活」:有無をいわさず接種する必要を生み出す状況、自己免疫、依存症、糖尿病、肥満などの慢性症状が疫病ともいえる水準にある社会。新型コロナによる死者の多くは慢性疾患をもつ人々。歴史的に常軌を逸した状況。▶標準化された臨床試験には変動要因の管理が求められる。工業的医療(標準化、管理、数値化、規模拡大)の一部。▶別の未来:地球や生命、人間をイメージどおりに作り替えるという工業の夢とは決別し、健康を身体の内外における良い関係性の問題と見る。自分自身の健康に責任を持ち、そのための支援を受けることも普通に。医療を人々の手に戻す。商品やサービスへと作り替えられた力を取り戻す。ハイテクではない。当局やシステムが私たちに与えてくれるのではなく、私たちが要求しなければならない。私たちは岐路に立っている。

リハーサルは終わりだ

 コロナ禍のもたらした社会の病を乗り越えて、もっと美しい世界に向かって歩み出そう。そう宣言する詩的な文章。

道は我らの前に立ち現れる

 「虐めっ子がどこまでやるかは際限が無かった。」「虐めっ子」の元型は別の所にその源がある。無意識のレベルで虐めっ子が求めるのは、被害者が被害者であることをやめて自分に反抗してくること。服従によって虐めっ子が宥められることはなく、さらなる責め苦を呼び寄せるだけ。▶服従の姿勢が習慣になり被害者が自分の能力と強さの感覚を失うとき、この状況が通過儀礼となる可能性が現れる。被害者の状況があまりにも耐え難いので習慣と自制を捨て去ろうとする点を迎えるまで、虐めっ子や虐待者は暴行の度合いを強める。被害者は自分の中に自分の知らなかった能力があるのを発見。被害者はそれまでより新たで大きな人になる。被害者であることはもう終わったと決心すると、力関係が変化。虐待者から自由になることが命そのものより重要になる。▶現在の政府機関と大衆の関係には、虐待者と被害者の力関係と似たような点が多い。▶政府機関がパンデミックの間に奪った権利を簡単に返してくれると望むのは甘い考え。政府機関の判断だけで許可されて存在するなら権利でも自由でもなく特権。▶コロナは命にかかわる実際の病気というよりも、社会政治的な現象。自然の力でパンデミックが終わることはないので、「終わった」と人々が合意するしかない。▶コロナの虐めが終わるのは選択。通過儀礼の瞬間で、被害者である大衆は自分の力を発見する。▶全ての傾向はコロナ以前からあった。他のものを選び取るためには、現在のシステムを管理する制度機関から支配権を奪い取る必要。本当の民主主義の回復。単に私たちがもう民主主義社会にいないことを暴き出しただけ。▶政府機関に勤務している人々の多くは正常で立派な人間だが、お役所が人々をサディストに変えてしまうことも多い。原因というよりは症状。自分たちが支配した人々に剥奪、屈辱、苦痛を与えることは、支配者にとって快い。与えた苦痛は服従の証として彼らを喜ばせる。▶権力というレンズを通して見ると楽観的にはなれない。虐めを受けた子供が、ともかく虐めっ子の言うことを全部やったのだから、虐めを止めてくれるだろうと望むようなもの。気まぐれで、理不尽で、絶えず移り変わる要求は、虐待的関係の特徴。要求は理不尽なほど良い。▶違反それ自体が懲罰の対象ではなく、本当の違反は不服従。不服従は虐待する側にとって、またそれに服従する役割を完全に受け入れている人たちにとって、本当に不快。▶虐待者への抵抗は、他の人々にお前も抵抗するかと問いかける。勇気の例を示すことはどんな励ましの言葉よりも力を持つ。▶被害者は虐待者の言い分を一部は受け入れることが多い。私は弱い。私は軽蔑されるべき人間だ。私は無力だ。あなたは正しい。私は間違っている。虐待者を内面化するとき、盗賊が城壁を突き破って入ってくる。▶暴行や屈辱に従うのを拒むこと。古い役割の誘惑を振り切るまで、決意をもって継続しなければならない。▶支配権力のあらゆる嘘の中で、最も重要な嘘は被害者が無力だというもの。その嘘は魔術の形をしていて、信じたら信じた分だけ本当になる。▶「その時が来た」という認識を信じ、何百万人が行っている勇気ある選択の周りで、世界は自らを再構成する。



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