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生贄としての王


チャールズ・アイゼンスタイン著
2021年9月13日(ルネ・ジラール論考の第3.5部)


〈読者の皆さんへ:この文章は第1部第2部第3部とはやや整合性の薄いものになりましたが、ここに含まれる考えは第4部に向けて関連があり、スケープゴート作りのパターンの超越についてです。〉

供犠の生贄は無秩序とけがれと悪の代理人です。平時においては周辺に様々いる無力な少数者から出されます。革命の時になると、供犠の対象となる集団は逆転し、上に立つことによって距離を置いていた者の側となります。フランス、ロシア、中国、カンボジアなどの流血革命では、旧体制エリート階級の粛清が実際的な権力掌握より優先されましたが、これは古代の前例をそのまま繰り返したもので、その儀式的な動機に私たちが盲目であり続けるなら再び繰り返されることになるでしょう。

文献や人類学の証拠によれば、多くの社会では原初の生贄が王だったことが示されています。国家の健全性に責任を持つ者として、もし仮に災難が降りかかったなら、秩序が混沌へと変わった責任を代表するのは、王こそが自然な選択でしょう。あるところでは、王には自らの内に毒を集中させるため、あらゆる種類の禁じられた行為を行うことが求められました。もしも不幸が王国に降りかかったなら、王を生贄にすることで毒を取り除き、神をなだめ、王国に調和を取り戻します。あるいは、適切な時に王を生贄にすることで、洪水、飢饉、疫病のような災厄が起きるのを未然に防ぐことができるとされました。

儀式的な国王殺しに王自身が積極的とは限らなかったのは想像に難くありません。「私を生贄にするのはやめて、ここにいる罪人を生贄にしよう」と王は提案したかもしれません。やがて、囚人、子ども、動物(たとえば、文字通り贖罪の山羊スケープゴート)や、様々な彫像のような代用品が見いだされました。あるいは特別な臨時の王が祭の期間中だけ即位し、やりたい放題の放蕩を行うが、祭の終わりにこの王は生贄にされ(したがって、この王の犯した罪は社会から象徴的に取り除かれ)ます。カーニバルの王は愚者や道化師、つまり人間の過ちや弱点、欠点を誇張して表す者の形を取ることが多いのです。ドナルド・トランプを権力の座に押し上げ、続いてまた引きずり下ろした心理社会的な潜在力のことを、不思議に思わない訳にはいきません。プロレスラーのような風貌から予兆されるトランプの人柄は、この役割、つまりカーニバルの王様にぴったり合致しました。これ見よがしの不品行は彼の職務明細書の一部です。

儀式的な国王殺しという繰り返される衝動は、近年は「バーニングマン」でも表面化し、その王は(ある種の彫像ですが)イベントを締めくくる生贄の奉納によって死にます。この慣習のかすかな痕跡は、ホームカミング[高校や大学が主催する年に一度の同窓会のようなもの]とプロム[高校の学年末に正装して行われるダンスパーティー]で選ばれるキングとクイーンにも見られますが、現代アメリカの文化では儀式的に殺されることはありません。いや、殺されるでしょうか? じっさい、キングとクイーンはゴシップの格好の標的です。人間の精神には支配者を引きずり下ろそうという原始的な衝動が潜んでいて、このため私たちは有名人のスキャンダルに強く惹きつけられるのです。ここでは行き場のない無産階級の怒りや被抑圧者の革命の本能よりも深い何かが作用しています。それは秩序そのものに対する反逆であり、混沌への転落に続いて起きる再生への渇望です。

これは現在のエリート階級にとって好ましいことではありません。技術官僚、億万長者、政治指導者は、その過ちが何であるとしても、システムの設計者というよりは、システムによって創り出された者たちです。彼らはシステムとパラダイムによって割り振られた役割を演じます。彼らは現在これとは別の、もっと古代からある要求にも従っています。それは生贄にふさわしい悪の王という役割です。ハイムを再び引用すれば、「彼らは集団が想像しうる最悪の罪で告発される。その罪の巨大さこそ、コミュニティが現在経験しているひどい苦境の原因だったかもしれないのだ。」人々が自然にこのような犯罪をエリート階級へと転嫁するだけでなく、エリート階級は腐敗に容赦なく引き込まれるように見えます。権力と腐敗は密接に関係しているように見え、スキャンダルが噴出しても、私たちが驚くことは滅多にありません。悪の王という原形を現代に演じたものが、悪魔的カルトが権力エリート層に浸透しているという言説の中に見られます。世界をもっと奴隷化する計画を立てながら、彼らは言葉にするのもはばかられるような行為を秘かに行うといいます。この神話化の背後にどんな客観的真実があるとしても、私たちの指導者たちは、少なくとも認識の上では、対立王に必要とされる特質を帯び始めています。それは凝縮した穢れの象徴という役割を果たすことであり、それはつまり国家から切除されうるものなのです。

「悪霊を⺠衆に放ったのは祭司たち自身だと公言する者もいた。[1]」本稿執筆時点で、崩壊しつつある否認の壁の中から姿を現してきたのは、事態を注視していた多くの人々にとって初めからその可能性があると見えていたことです。それは新型コロナウイルス(SARS-Cov2)が遺伝子操作されたウイルスだということです。この1年間、私たちは「虚偽の陰謀論」、「まったくのデタラメ」だという断言ばかり聞かされ、ソーシャルメディアでこの考えを持ち出すことへの検閲を我慢してきました。ジュディ・ミコヴィッツのような反抗的科学者が機能獲得の研究について主張したことで嘲笑されるのを私たちは目にしましたが、この主張を主流メディアがついに受け入れるようになってきました。いま私たちが目にするのは、背信が生み出す憤怒への胎動と、「集団が想像しうる最悪の罪」への非難です。大衆の4分の1がこのウイルスは意図的に放たれたものだと信じています[2]。ワクチンは秘密の優生学技術だと考え、悪魔的な人身売買カルトが世界を支配しているという前述の説を信じる人も数百万人います。これらの神話の正しさを証明したり虚偽だと証明したりするのは困難です。ジラール的な観点からすると、その客観的な事実性は問題ではなく、ある社会で生贄の王が役目としてタブー行為を行ったかどうか、あるいは別の社会で王がそのような行いの象徴的な代替行為をしたかどうかに関係ないのも同じです。重要なのはその王が神話的な役割を果たしたことです。

彼らが犯したとされる凶悪行為の全てまたは一部について有罪であるか、あるいは全く無罪であるかにかかわらず、私たちが正義の名の下にエリート階級を打倒するとき、正義よりも野性的で原始的なものが実行されていることに注意しましょう。何人かを生贄にすれば群衆の渇望を満たすかもしれませんが、それがシステム全体の変化につながることはありません。実際には、生贄の儀式こそがシステムを温存するのです。

次に何かが起きるとき、このことを思い出しましょう。デモ参加者による像の打ち壊しが前もって示すのは実際の出来事、つまりエリート階級が私たちを裏切ったらしいことに対する大衆暴力の爆発です。特に米国では、私たちの統治機構は煮えたぎる怒りの溶岩の上に浮いていて、ほんの小さなきっかけでも噴火します。これまで数十年間、その不満のほとんどは内面や仲間内に向けられてきましたが、これを示すように鬱病や慢性疾患、依存症、離婚、自殺、内乱が増加しています。統治機構による情報統制によって今のところ怒りの火山には蓋がされていますが、社会秩序は不安定です。いくつかの災害や暴露があれば情報統制の格納容器は破壊されるでしょう。でももし起きることの全てがエリート階級への復讐なら、ほとんど何も変わることはありません。

革命前フランスの独裁政治の後にはナポレオンの独裁が続きました。帝政ロシアの独裁政治の後にはスターリンの独裁が続きました。エリート階級の一掃で新たな役者が同じ役を演じる準備が整っただけでした。私たちならもっと上手くやれます。別の種類の革命の時が来たのです。

「何かが為されなければならない」とは暴力を振るうこととだと見なす人にとって、復讐しないことは不作為と見えます。確かに、データを改ざんし、異論を検閲し、費用のかからない治療法を隠蔽し、人心を操作した人々は、信頼される立場から排除されるべきですが、私たちは供犠の暴力という昔からのパターンを繰り返さねばならないのでしょうか? 供犠の暴力がそのような行いの文脈に注目することはなく、むしろその毒をシステムから末端職員へと象徴的に転嫁するだけです。

そんなことはしなくても良いのです。人間を復讐と処罰、暴力へと向かわせる、前述した「深い本能」を、私たちは乗り越えることができます。それが本能だというのは結局のところ本当でしょうか? 慈悲と赦しと和解という、別の本能を中心とした社会を作ることが、私たちにできるのでしょうか?


[1]『ファシズムと反祭』の寓話から。

[2] トランプ政権内の悪漢ネオコンが一番の敵である中国とイランに対して生物兵器として使ったというのは、全くあり得ない話ではありません。イランでは聖都ゴムにいた政治エリートが直後に感染しています。


(原文リンク)https://charleseisenstein.substack.com/p/the-sacrificial-king

【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

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