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麻痺 (チャールズ・アイゼンスタイン)

訳者より:コロナ禍は子供たちの生活にも爪痕を残しています。もともと学校は社会の規則を守らせるという色合いの強い場所だったのに、コロナ禍でその傾向が倍加しました。マスク、リモート、そして極めつけが「黙食」です。子供たちは安全と引き換えに「楽しさ」を犠牲にしなければならないことを学びました。これが子供たちの心に回復できない傷となって残ることがないように、私たち大人たちはいったい何ができるでしょう。チャールズ・アイゼンスタインの書籍『コロネーション』収録のエッセイの日本語訳です。

麻痺

チャールズ・アイゼンスタイン著
2020年7月

このエッセイの題は十代の少女リヴ・マクニールの作った胸を締め付けられるような3分の動画『Numb(麻痺)』から取ったものです。簡潔かつ正確に作られたこの動画は、少女の生活がコロナのロックダウン期間に萎縮していく様を描写しています。友だちとの楽しい思い出の写真をカメラはゆっくりと写します。続いて彼女のコンピューター画面には宿題の山が、スクロールして、スクロールして…、いま彼女は箱の中に暮らしています。そしてベッドに座る自分を撮った何十枚もの静止画が、くる日もくる日も、陽気でいようと励みながらも彼女の忍耐はしだいに麻痺へと変わっていきます。

私がこの動画をシェアした親しい友だちは、彼女の十代の娘(ここではサラと呼びましょう)にも同じような話があると聞かせてくれました。サラは快活で元気で社交的な少女で、屋外にいることが多く画面を見て過ごすことはほとんどありませんでしたが、「根元から切り取られた花のようにしおれてしまい」、悲しく無気力になりました。さいわい、どちらかといえば裕福な私の友人が、馬の世話の仕事をサラに見つけてくれたので、彼女には活気が戻りました。

サラのことは良かったと思いますが、寝室でいつ終わるともしれない時間を、じっと画面を見つめ、二次元の世界だけで付き合い、友だち仲間と会うことに飢えながら過ごしている、それほど幸運に恵まれなかった子たちはどうでしょうか? もうお泊まりは無し、合唱団は無し、映画館は無し、スポーツは無し、パーティーは無し、外出は無し、ダンスは無し、サマーキャンプは無し、バンドの練習は無し…。

先へ書き進む前に、多くの読者が考えているであろうことを言葉にしてみましょう。「恵まれた立場から不平を言うのをやめなさい!命を救うことに比べたら、遊びや付き合いを犠牲にすることが何だというのですか?」

人々の健康を守ることが大切だということには同意しますが、その価値は他の様々な価値と対等でなければなりません。それが相対的な価値であって絶対的価値ではないことを見るために、社会全体を1年間ロックダウンすれば1人の命を救えるという極端な場合を仮想してください。それに多くの人が賛同するとは思いません。逆の極端で、私たちが致死率90%の疫病に直面していると想像してください。その場合、最も厳しいロックダウン措置でも抵抗する人はほとんどいないでしょう。新型コロナウイルスがこの両極端の間のどこかにいるのは明らかです。

現代社会では、命を救うことが最高位の価値です。(実はこの言い方には誤りがあって、命を救うなどということがあり得ないのは、私たちは死ぬ運命にあって、いつか必ず死ぬ日が来るからです。したがって、より正確な言葉で「死の先延ばし」と言うことにしましょう。)一般的な議論の大部分は、医療から外交政策まで、安全、安心、リスクを中心にしたものです。新型コロナ政策も、できるだけ多くの死を防ぐ方法と、人々の安全を保つ方法が中心です。子供の遊びや、いっしょに歌ったり踊ったり、体を触れあわせ人々が共にいることのメリットのように計ることのできない価値は、計算に入ることがありません。なぜでしょう?

一つの理由は、このような計ることのできないものは単に計算に乗らず、したがって数値をもとに科学的・定量的であることを誇る政策決定プロセスに上手く当てはまらないことです。でももっと深い理由があると私は思うのですが、それは私たちが何者で、なぜここにいるのかという現代文明の理解に基づくものです。生きる目的とは何でしょうか? ただ生きているのとはどう違うのでしょうか?

安全への熱狂、死の否定、若さの賛美、全てにわたるコントロールの計画が私たちの社会を飲み込んできたことについては、以前のエッセイに書きました。ここで私は簡潔な真実を述べておきます。生きるとは、ただ生きているよりも大きなことです。私たちがここにいるのは人生を生きるためであり、ただ生存するためではありません。死の確実なことが私たちの心理に組み込まれていれば、それは明らかなことでしょうけれど、悲しいことに現代社会はそうではありません。私たちは死を隠します。私たちは永久不死のふりをして生きます。不可能を求め、死を無限に先延ばししながら、私たちは完全な人生を送ることができません。

私たちは近代精神が言うような個別ばらばらの自己ではありません。私たちは相互に結ばれています。私たちは相互存在です。私たちは関係性です。完全な人生を送るとは完全な関係を結ぶことです。コミュニティーから、自然から、場所からの分断という傾向を、新型コロナはもう一歩進めたのです。分断が一歩進むごとに、ばらばらの自己として生きてはいるでしょうが、私たちはだんだん生気を失っていきます。若者と老人はこの分断にとりわけ敏感です。日照りの果物のようにしおれていくのが分かります。精神科医の友人が最近私に書き送ってきたように、「高齢者の間で、この副次的な影響は本当に悲惨なものでした。部屋に隔離され家族から遮断されると、膨大な量の目に見えない苦痛と衰えを引き起こし、ときには死につながります。愛する人を死に追いやっているのはコロナではなく行動制限だと語る、苦悩に満ちた家族がいったい何人いたでしょう。」

死の先延ばしを公共政策で最重要の決定要因から引き下ろし、社会の付き合いこそ新たな絶対目標にするべきだ、などと私は主張しているわけではありません。会話の中でひときわ目立つ話題になってほしいと思うだけです。それを神聖な価値として祭りたいのです。完全な社会生活というのは、計ることのできる物理的なニーズを満たすことへの何か特権的な付け足しではなく、基本的人権であり人間が基本的に必要とするものです。これは単に「白人の」問題でもなく、それどころか、孤立が裕福な人よりも貧しい人をさらにいっそう苦しめるのは、貧しい人はテクノロジーが作る対面コミュニティーの代用品に手が届きにくいからです。本物に比べたら面白みに欠けるものではあるでしょうけれど。さらに言えば、孤独による苦しみの程度が飢餓や病気の苦しみより低いなどと言う権利が私たちにあるでしょうか? そのために人々が食べることをやめ、来る日も来る日も無気力にダラダラ過ごし、自殺しようとさえ駆り立てられるのなら、それはもう本当に深刻な苦しみです。

決定的な皮肉は結局のところ、死の最少化を基本にした政策がそれを達成することはないということです。生命は孤立すれば萎縮します。これが生物学的レベルで真実なのは、私たちが身体のバランスを維持するためには、微生物界やウイルス界(!)との継続的な交流が必要だからです。それは社会的レベルでも真実です。ある有名なメタ分析[複数の研究の結果を統合し、より高い見地から分析すること]の結論は、社会的孤立、孤独、独居が平均で各々29%、26%、32%の死亡率増加を引き起こすというものでした。それは1日にタバコ15本の喫煙や習慣的に過剰な飲酒をするのとだいたい同じリスク水準です。でも政治家や医学の専門家がこのようなことを疫学に基づく政策決定の考慮に入れるのを見たことはありません。

しかしそれは私がここで異議を唱えていることとは違います。この皮肉な失敗が本当でないとしても、全員を別々のカプセルに隔離することで死を永遠に先延ばしできるとしても、そんなことをする値打ちはないということです。『麻痺』の動画を見れば私にはそれが分かります。劣化した社会状況の中で自分の子供が精一杯に頑張って対処しているのを見るとき、年長の息子たちが孤独や無気力や憂鬱について語るとき、15歳になる息子が画面越しに友だちに会ったり、ごくたまにですがマスク越しに2メートル離れて会ったりするとき、一番下の息子が「遊ぶ約束」をしてと絶えずおねだりするとき、私には分かります。私たちは子供たちにいったい何をしているのでしょう? 鬼ごっこの価値を求めて立ち上がる人はいないのでしょうか? 子供の群れが折り重なって遊ぶ姿は? このようなことの価値に、何人かの死を先延ばしすることと比較して数値を付けるなど、私にはできません。私に分かるのは、それらは社会が付けた価値よりもずっと大切なものだということです。

こう言う人もいるかもしれません。これは一時的なものに過ぎず、ワクチンさえできれば生活は普通に戻る。そうでしょうか? ビル・ゲイツのように熱烈なワクチン支持者でさえ、このようなワクチンは一時的な保護にしかならないと言っています。さらに、新たな変異株や、新たなインフルエンザの流行、もっと別の病気が襲うかもしれません。私たちが死の先延ばしを最優先にするかぎり、子供たちをロックダウンする理由は常に存在します。いま私たちはその前例を作っていて、何が普通で容認できるかという基準を作っているのです。

ほとんどの人には馬牧場の見習いというチャンスがあるとは限りませんが、基本原則は誰にでも実行できます。その原則とは「つながり直す」ということです。子供の生活が画面や屋内に移行するのはコロナに始まったことではありませんし、子供の鬱や不安などの不調の増加も同じです。とくに障害児や多様な精神構造を持つ子供は、いま集団として子供たち(と私たち)が体験しているような孤立を抱えて、これまで生きてきました。いま私たちに聞こえているのは、子育てと公共政策の両面でこの傾向を反転し、遊びや屋外活動、場所とのつながり、自然との対話、コミュニティーの集いを再評価せよという、目覚ましのベルなのです。

多くの人々が新型コロナで亡くなったり後遺症に苦しんだりしています。私はそのような方々とご家族に心からのお悔やみを申し上げます。そして私は若者たちが失った遊びや友情や集いの日々にもお悔やみを送りたいと思います。こんなふうであってはなりませんし、長引くのはもっての外です。これはあなた達が活き活きと生きられる条件ではありません。もしあなたが閉塞感や無気力や憂鬱を感じても、あなたのせいではありません。あなたのことが気の毒でなりません。でも私たちが同情するだけでは足りません。リヴ・マクニールが目に見える形にして、公の場に引き出し、何かしなければと呼びかけたような苦しみに、目を見開くかどうかは私たち大人にかかっているのです。子育てには、子供の安全を確保するという以上の何かがあるのです。


原文リンク:https://charleseisenstein.org/essays/numb/

【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
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