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道は我らの前に立ち現れる (チャールズ・アイゼンスタイン)

訳者より:コロナによって監視社会・管理社会への流れが加速しました。コロナがもたらした社会の病理をいじめと捉え、通過儀礼を経て虐待を乗り越えていく様を社会全体に拡大して見たとき、どんな診断と処方箋が描けるのか。書籍『コロネーション』にも収録されたチャールズ・アイゼンスタインのエッセイを日本語訳でお届けします。訳者自身も小中学校時代に虐めの標的になった経験、配偶者との虐待的関係から離婚に至った経験があります。子供時代のトラウマが今も自分を支配しているということに気付かないわけにいかず、訳していて辛くなることもありました。訳し終えて、少しヒントをもらったと感じます。これを自分のものとして噛みしめたいと思います。


道は我らの前に立ち現れる

チャールズ・アイゼンスタイン著
2021年12月18日

非暴力行動の第一原則はあらゆる屈辱への非協力である。

モハンダス・K・ガンディー

20世紀初頭のアメリカの田舎でのいじめについて書かれた文章を以前に読みました。語り手はこう書きます。「もし被害者が反抗しなければ、虐めっ子がどこまでやるかは際限が無かった。」列車の音が迫る中、他の子を線路に縛りつける(列車が来るのは反対側の線路なのだが)という例が記されます。虐めっ子をなだめる方法はありませんでした。被害者がなんど屈服しても、さらに残酷な屈辱を与える欲求を刺激するだけでした。

虐めっ子の心理は良く分かっています。力の喪失を埋め合わせる、役割を反転させた上でトラウマを再演する、などです。でもその全てを超えて、「虐めっ子」の元型(アーキタイプ)は別の所にその源があります。ある無意識のレベルで虐めっ子が求めるのは、被害者が被害者であることをやめて自分に反抗してくることです。このため、服従によって虐めっ子がなだめられることはなく、さらなる責め苦を呼び寄せるだけなのです。

虐待者と被害者の関係には通過儀礼という可能性があります。その関係の中で、もしかするとそれを乗り越えた末に、被害者は服従によって世界をコントロールしようとするのです。もし私がじゅうぶんに服従し、じゅうぶん哀れに振る舞えば、ついに虐待者はその手を緩めるかもしれません。他の人たちが手を差し伸べるかもしれません(「救済者」の元型アーキタイプ)。服従や、即興劇の先駆者であるキース・ジョンストンが「低位劇」と呼んだものには、本来まちがっていることは何もありません。生き延びるためにそうしなければならない状況があるのは確かです。しかし、服従の姿勢が習慣になり被害者が自分の能力と強さの感覚を失うとき、この状況が通過儀礼となる可能性が現れます。被害者の状況があまりにも耐え難いので習慣と自制を捨て去ろうとする点を迎えるまで、虐めっ子や虐待者は暴行の度合いを強めていきます。被害者は自分の中に自分の知らなかった能力があるのを発見します。被害者はそれまでより新たで大きな人になります。これは通過儀礼というものをとても良く言い表しています。

それが起きるとき、被害者が立ち上がって反撃するとき、虐めっ子は被害者に何もしないことが非常に多いのです。魂のレベルでは、彼の仕事は成就じょうじゅしました。通過儀礼は完了です。もちろん、虐めっ子は服従的な被害者だけを求める臆病者だということかもしれません。あるいは抵抗が支配と服従という追い求めていた心理劇を台無しにするということかもしれません。抵抗が成功する保証はありませんが、失敗に終わったとしても、被害者であることはもう終わったと決心すると、力関係が変化します。虐めっ子が持っていた大きな力は自分の恐れの中にあっただけで、実際の身体的支配にあったわけではないことを、被害者は発見するかもしれません。

その変化が起きるまでは、たとえ救済者が手を差し伸べて介入したとしても、状況が変わる見込みはありません。介入が失敗するか、救済者が新たな虐待者になるかのどちらかです。被害者に立ち上がる覚悟ができたかどうか、世界は何度も何度も問いかけます。

これを、虐待的関係にいる人にただ「立ち上がれ」という上から目線の提案と受け取らないで下さい。これは口で言うほど簡単なことではありませんし、どんな勇気が必要となるかを知らなければ、言うのは全く簡単です。ある状況で、とくに子供が関係する場合は、自分自身や罪のない他人に対して恐ろしい危険を招くことなく抵抗することなどあり得ません。しかし最も絶望的な状況でさえ、被害者は自分が持っていたとは気付かなかったある種の強さを学び取ることが多いのです。服従はますますエスカレートする暴行につながることが多いので、いずれ被害者は限界点に達し、そこに勇気が生まれます。そのとき、虐待者から自由になることが命そのものより重要になります。

現在の政府機関と大衆の関係には、虐待者と被害者の力関係と似たような点が多くあります。虐めっ子に向き合うとき、抵抗しなければ虐めっ子が手加減してくれると望むのは無駄なことです。おとなしく従えば、さらなる屈辱を招きます。同じように、政府機関がパンデミックの間に奪った権利を簡単に返してくれると望むのは甘い考えです。じっさい、もし私たちの権利と自由が、気まぐれな政府機関の判断だけで許可されて存在するものならば、それは権利でも自由でもなく、特権にすぎません。その本質から、自由は懇願こんがんできるものではなく、懇願の姿勢がすでに服従の力関係を認めています。被害者が虐めっ子に手加減するよう懇願することはできますし、支配の関係が確認されたことに満足して、一時的にでも手加減するかもしれません。被害者はまだ虐めっ子から自由にはなっていません。

そんなわけで、「パンデミックが終わったら」とか「また旅行できるようになったら」とか「また祭りができるようになったら」と誰かがいうのを聞くと、私はいら立ちを覚えるのです。そんなことがひとりでに起きることなど無いでしょう。過去のパンデミックと比べ、コロナは命にかかわる実際の病気というよりも、社会政治的な現象という様相が強いのです。そうですね、たしかに人々は亡くなっていますが、公式発表の死者がみんなコロナを「併発して」ではなくコロナが「原因で」亡くなったのだと仮定しても、死者数は1918年インフルエンザの3分の1から9分の1で、人口あたりでは12分の1から36分の1でしかありません[1]。社会政治的現象としては、それが終わる保証はありません。いずれにせよ、自然の力でパンデミックが終わることはないので、「終わった」と人々が合意するしかありません[2]。このことはオミクロン株で極めて明白になります。政治指導者や、公衆衛生当局者、メディアは恐怖をかき立て、(執筆時点で)世界中に死者が1人しか出ていない病気の対策として、数年前なら考えられなかったような政策を再開しようとしています。ですから、私たち人民がパンデミックは終わったのだと宣言しないかぎり、それが終息に向かっているなどと言うことは決してできません。

もちろん、私は間違っているのかもしれません。もしかするとオミクロン株は、世界医師会のフランク・ウルリッヒ・モントゴメリー議長が警告したように、エボラウイルスと同じくらい危険なのです。それでも疑問は残ります。私たちは流行病の可能性に対して自分自身を永遠に人質として差し出すのでしょうか? その可能性が消え去ることはあり得ないのです。

もうひとつ最近たびたび聞くようになったのは、「コロナ独裁政治は間もなく終わる運命にあり、その理由は人々がもう耐えられなくなっているからだ」というものです。より正確には「コロナ独裁政治は人々が耐えられなくなるまで続くだろう」ということでしょう。それが突き付ける問いは、「私は耐えられるか?」です。あるいは、私がやらなくてもいいように、他の人々が私に代わってコロナ独裁を終わらせてくれるのを待っているのでしょうか? 言い換えれば、私が虐めっ子に向かって立ち上がる危険を冒さなくてもいいように、救済者が来るのを待っているのでしょうか?

もしあなたの代わりに他の人が抵抗するのを待って我慢するなら、あなたは「他人がやってくれるのを待つ」という一般原則を採用することになります。その原則を認めてしまうと、他人が抵抗するというはかない望みはむなしく響きます。私が乗り気でないことを他人がやってくれるなどと、なぜ信じなければいけないのでしょうか? そんなわけで、通常に戻るのが当然だと表明することは、希望に満ちたものに見えはしますが、妄想と絶望のオーラを帯びています。

じつは、虐待者が何をしてくるかに限界がないのと同じように、人々が何を我慢させられるかにも限りがありません。

もしコロナのいじめが終わるのは必然でないなら、いったい何でしょうか? それは選択です。それはまさしく通過儀礼の瞬間で、そのとき被害者である大衆は自分の力を発見するのです。パンデミックがまさに始まろうとしていたとき、私はそれをコロネーション(戴冠式)と呼びました。それは主権を与えられる通過儀礼です。コロナは私たちがこれまで長い間突っ走ってきた先の未来を見せてくれました。その未来にあるのは、テクノロジーが仲介する人間関係、いたる所にある監視カメラ、巨大テック企業による情報管理、安全への強迫観念、縮小する市民的自由、拡大する貧富の格差、医療に取りこまれる生活。これら全ての傾向はコロナ以前からありました。いま私たちが向かってきた先がくっきりと見えます。これは私たちが求めるものでしょうか? 惰性で自動的に進んできた傾向が、意識的な選択肢として現れました。でも他のものを選び取るためには、現在のシステムを管理する制度機関から支配権を奪い取る必要があります。そのためには本当の民主主義を回復することが必要ですが、それはつまり国民主権であり、そこで私たちは既成権威のいうことを避けられないものとして消極的に受け入れることはもうなく、自由に見せかけた特権をい願うこともありません。

見かけとは裏腹に、コロナが民主主義の終わりを告げたのではありません。単に私たちがもう民主主義社会にいないことを暴き出しただけです。権力が本当はどこにあり、うわべだけの自由がいかに簡単に奪われるかを見せつけたのです。私たちの「自由」がエリート組織の気まぐれで与えられていただけだったのを見せつけたのです。私たちが黙って従ったことで、私たち自身のある部分が暴き出されました。

私たちはもう自由を奪われていたのです。私たちはもう服従が習慣になっていたのです。

オーウェルの『1984年』で、ウィンストンの取調官オブライエンはこういいます。「党は強力になればなるほど、どんどん非寛容ひかんようになる。反対勢力はそれだけ弱体化し、独裁的な圧政が強化されるのだ。」コロナ時代は侮辱、屈辱、虐待が際限なく大衆に浴びせられ、度重なるごとに悪質さの度合いを増してゆきます。それはあたかも人々がどこまで受け入れるか確かめるため心理学の実験をしているようです。マスクには効果がないと言っておいて、後で撤回してマスク着用を義務づけよう。握手してはいけないと言おう。お互いに近付いてはいけないと言おう。教会も、合唱団も、会社も、祭りも、みんな閉鎖して禁止しよう。連休に家族で集まるのを禁止しよう。身体に毒を注射するよう義務づけよう。二回目を義務づけよう。子供にも注射を義務づけよう。自分の体験を話すことは「ニセ情報」だから検閲しよう。馬鹿げた作り話を聞かせて信じるかどうか試してみよう。約束をしておいて破ってしまおう。また同じ約束をして、それも破ろう。どこへ行くにも許可が必要なことにしよう。おー、人々はまだ我慢しているではないか? どこまで我慢するか、もっとやってみよう。

上の文章で、私はいじめをする権力者がまるで被害者に屈辱を与えるのを高笑いして喜ぶサディストの集団であるかのように書きましたが、それは正確ではありません。政府機関に勤務している人々の多くは正常で立派な人間です。その一方、このようなお役所は杓子定規な人、仕切りたがり屋、サディストが居着いつきやすい環境なのも確かで、お役所が人々を杓子定規な人、仕切りたがり屋、サディストに変えてしまうことも多いのです。このような人たちは、現在の人々に対する虐待全般の原因というよりは症状なのです。彼らは下僕であり、制度全体が虐待化したドラマが求める役を演じているのです。相手を苦しめることが彼らの根本的動機なのではなく、主導権を握ることです。権力の追求が、全ては大義のためという考えに正当化の根拠を求めるのは疑いありません。彼らはこう考えます。そのとおり、邪悪な人々が監視、検閲、規制制度を担当するのは悪いことだろうが、幸いにもその舵取りをする担当者は私たち、理性と知性があり、将来を見据え、科学に基づいた善良な人々なのだ。

自分たち自身は善人だという、権力を持つ人々の絶対的な確信によって、権力は手段から目的に変わります。もしかすると最初からそうだったのかもしれません。オーウェルは権力の偽りの正当化を却下して、オブライエンにこう語らせます。

党が権力を求めるのはひたすら権力のために他ならない。他人など、知ったことではない。われわれはただ権力のみに関心がある。富や贅沢ぜいたくや長寿などは歯牙しがにもかけない。ただ権力、純粋な権力が関心の焦点なのだ。純粋な権力が何を意味するのかはすぐに分かるだろう。われわれが過去の全ての寡頭かとう体制と異なるのは、自分たちの行っていることに自覚的だという点だ。われわれ以外の寡頭制は、たとえわれわれと似たものであっても、すべてが臆病おくびょうものと偽善者の集まりだった。ナチス・ドイツとロシア共産党は方法論の上ではわれわれに極めて近かったが、自分たちの動機を認めるだけの勇気をついに持ち得なかった。彼らは自らをいつわってこう述べ立てた——いや、あるいは本当に信じ込んでいたのかもしれない——自分たちはむをえず、そして暫定的ざんていてきに権力を握ったのであり、その少し先には人間が自由で平等に暮らせる楽園が待っているのだ、と。われわれはそんな真似はしない。権力を放棄するつもりで権力を握るものなど一人としていないことをわれわれは知っている。権力は手段ではない、目的なのだ。誰も革命を保証するために独裁制を敷いたりはしない。独裁制を打ち立てるためにこそ、革命を起こすのだ。迫害はくがいの目的は迫害、拷問ごうもんの目的は拷問、権力の目的は権力。それ以外に何がある。そろそろわたしのいうことが分かってきたかね?

次のページで話はもとのテーマに戻ります。

彼はことばを切った。そしてしばし、有望な生徒に質問する教師のたたずまいに戻った——「他人を支配する権力はどのように行使されるかね、ウィンストン?」
ウィンストンは考えた。「相手を苦しめることによって、です」と答えた。
「その通りだ。苦しめることによって初めて行使される。服従だけでは十分でない。相手が苦しんでいなければ、はたして本当に自分の意志ではなくこちらの意志に従っているのかどうか、はっきりと分からないだろう。権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。権力とは人間の精神をずたずたにし、その後で改めて、こちらの思うがままの形に作り直すことなのだ。そろそろ分かってきただろう、われわれの創り出そうとしている世界がどのようなものか?」

つまり、自分たちが支配した人々に剥奪、屈辱、苦痛を与えることは、支配者にとって快いということになります。与えた苦痛それ自体が彼らを喜ばせるのではありません。彼らは苦痛を残念だが必要なものとさえ考えるかもしれません。それは服従のあかしとして彼らを喜ばせるのです。

コロナ時代の政策は単に公衆衛生のレンズを通して理解することができません。以前の連続エッセイで私は供犠の暴力、群衆倫理、非人間化、そしてファシズム勢力によるこれらの利用という観点から研究しました。同じように重要なのは権力の観点です。コロナを合理的な公衆衛生というレンズを通して見るなら、もちろん私たちは「パンデミックの終わり」がもうすぐ来ると期待するはずです。権力というレンズを通して見ると、それほど楽観的にはなれません。いじめを受けた子供が、ともかく虐めっ子の言うことを全部やったのだから、虐めをめてくれるだろうと望むのと同じようなものです。

虐めっ子は被害者にXやYやZそれ自体をして欲しいのではありません。虐めっ子は自分が求めさえすれば被害者がXやYやZとかAやBやCをするという原則を確立したいのです。だからこそ、気まぐれで、理不尽で、絶えず移り変わる要求は、虐待的関係の特徴なのです。要求は理不尽なほど良いのです。支配者は皆が律儀にマスクを着けているのを見て満足を覚えます。オブライエンと同じように、彼らを動機づけるのは権力であって、実際の安全ではありません。だからこそ、マスクやロックダウンやソーシャルディスタンスに科学が疑問を投げかけても、彼らは完全に無視するのです。有効性は最初からこのような政策の根本的な動機ではなかったのです。

このことも私は学校で学びました。無意味で屈辱的で忙しい課題と勝手気ままな規則の中で、私は隠されたカリキュラムに気付きました。服従のカリキュラムです[3]。校長先生は「良好な学習環境の維持」という名目で些細ささいな規則を次から次へと発令しました。帽子をかぶったりガムを噛んだりすると学習の妨げになるなんて、生徒も職員も本当に信じてはいませんでしたが、そんなことは問題ではありませんでした。じつは違反それ自体が懲罰の対象ではなく、本当の違反は不服従の方でした。支配と服従の関係においては、それこそが最も重大な犯罪なのです。したがって、ドイツの警察がソーシャルディスタンスを強要するために1メートル物差しを持って広場を巡回するとき、この取締りで本当に誰かが病気になるのを防げるなんて誰も信じる必要はありません。警官が取り締まっている違反行為は不服従なのです。不服従は虐待する側にとって、またそれに服従する役割を完全に受け入れている人たちにとって、本当に不快なものです。お隣さんに許可された人数を上回るお客が来ていることを「カレンさん」が通報するとき、彼を駆り立てるのはウイルスの拡散を遅らせるための公共心から出た欲求でしょうか? それとも誰かが規則を破っていることに腹を立てているのでしょうか?

虐めっ子に屈服した人にとって、他の人が刃向かっていくのを見るのは不快なものです。これが被害者の無力さと役割の考えを混乱させますが、そこは理不尽なまでに居心地の良い場所になっていたかもしれません。それは無意識の選択を意識的なものにすることで通過儀礼の瞬間を呼び覚まします。「私もやれるかもしれない。」虐待者への抵抗は、他の人々にお前も抵抗するかと問いかけます。その誘いを受け取ってくれるとは限りませんが、それでも勇気の例を示すことはどんな励ましの言葉よりも力を持ちます。

現在、コロナ政策への抵抗の波が世界中で盛り上がっています。そのことを主流メディアではほとんど見かけないでしょうが、何千人、何万人もの人々がヨーロッパ、タイ、日本、オーストラリア、北米の至る所で、ロックダウンとワクチン接種が義務化された地域はほぼどこでも反対の声を上げています。人々は逮捕を覚悟でロックダウンと外出禁止に逆らいます。仕事を辞め、免許を取り上げられ、自分の店の休業を強制されても我慢し、ときにはワクチン接種義務に従うのを拒んだために子供の養育権を剥奪されています。声を上げたためにソーシャルメディアから追放されています。コンサートや、スポーツ、スキー、旅行、大学、仕事、生業なりわいを犠牲にしています。オーストリアではワクチン接種義務化法が施行されたので、違反者は拘留される危険さえあります。

声を上げたりワクチンを拒否したり市民的不服従を行うことで、失うものが多い人も少ない人もいます。私は失うものが比較的少ないですから、他の人々に勇気を出すよう求めるのは私の仕事ではありません。誰の仕事でもありません。でも私たちは現状の実態を書き記すことならできます。それが勇気を育むことになるのは、服従を生むのが外から来る恐れや力や脅しだけではないからです。虐待的な関係で、被害者は虐待者の言い分を一部は受け入れることが多いのです。私は弱い。私は軽蔑されるべき人間だ。私は無力だ。あなたは正しい。私は間違っている。私にはあなたが必要だ。私がこうなるのは当然の報いだ。私は頭がおかしい。これが普通だ。これでいいのだ。

被害者が虐待者を内面化するとき、盗賊が城壁を突き破って入ってきたのだと私は言います。秘めた自分の正気を守るため、探し回る侵入者を避けながら、自分の城の中で逃亡者になるのがどんなものか、私には良く分かります。

いじめ被害者についての私の理解は直接体験から来たものです。私は学年で一番遅生まれの方で思春期に達するのもとても遅かったのです。12歳の私は身長147センチ、体重41キロの痩せこけた弱虫で、もとの友だちグループの図体の大きい青年たちに囲まれていました。彼らの残酷なジョークと拷問のほとんどは、身体的な痛みを与えるためではなく、優越と屈辱を確認するものでした。反撃を選ぶ余地はほとんどありませんでした。リーダーは私より文字通り2倍の体重がありました。私が反撃しようとすると、不良グループは楽しそうに顔を見合わせてこう言いました。「おやおや、チャー坊が怒ってるぞ。お前の父ちゃんが仕返ししてやれって言ったんだろう、チャー坊?」次に覚えているのは、床に組み伏せられた私のまわりで、あざけりの笑い声が大合唱のように響き渡っていたことです。それが、私が抵抗したとき起きたことです。でも服従も役には立たず、彼らがおとなしくなったのは1日か、数分か、ときには全く効果無しでした。そうするとますます暴力を呼び寄せるだけでした。この難しい状況で、彼らが私に抱いていた哀れで軽蔑されるべき人間という考えを受け入れることで、私は虐待者を内面化しました[4]。

この場合、文字通りの意味で仕返しするのは無駄なことでした。私の通過儀礼の旅路は新しい友だちを探して未知の領域に踏み込むという形を取りました。中学校のカフェテリアの喧噪けんそうの中で、その先へ踏み出すのはゾッとするほど恐ろしいことでした。被害者の役を抜け出ることは、身体的な喧嘩けんかや法廷闘争の形を取るとは限りませんが、そうなることもあるでしょう。共通するのは、暴行や屈辱に従うのを拒むことです。実生活では、電話を着信拒否したり、接近禁止命令を出してもらったり、ただ逃げることかもしれません。単なるポーズではあり得ません。古い役割の誘惑を振り切るまで、決意をもって継続しなければなりません。

注目すべき点は、私を虐待していた者たちはみんな特に悪い人間ではなかったということです。笑いの輪に加わった者たち、しぶしぶ黙って見ていた者たちも同じです。彼らは成長して真面目な社会人になり、立派な父親や夫になりました。私たちの生い立ちが一点に交わったところに、そのとき彼らを虐待者や幇助ほうじょ者、傍観者の役割へと誘導した何かがあったのです。虐待者と被害者のドラマが発する「出演者募集」は強力なものです。虐待的な配偶者は再婚すると同じ役割を演じないかもしれません。役割が自分の中にある何かを発見するよう促し、そしておそらく自分のものとして取り込み乗り越えていくよう促すのです。社会全体にも同じことが当てはまります。この虐待的、屈辱的、抑圧的なシステムの構成員たちは、ドラマが終わったら何になるのでしょう? すでに多くの人々が自分の役割にうんざりし始めています。ドラマを長引かせたところで、被害者が虐待者の救いになることはありません。

以前にも私はそのことをたびたび書きましたが、服従の苦痛が耐えがたくなるとき勇気が動きだす点を迎えるのです。以前の被害者は限界点に達し、自制をかなぐり捨てます。虐待者はそれでも外向きには権力を振りかざすかもしれませんが、その権力が頼りにしていた相棒はもう被害者の中にはなく、被害者を支配することはもうできません。いま多くの人々がその限界点を迎えています。前に書いた抵抗の波の原動力になっているのは、公式の現実のすぐ目の前で発生した怒りの大嵐です。それを感じ取りたいなら、Telegram(テレグラム)の「They Say Its Rare(希なことだってさ)」をチャンネル登録しましょう。そこにコメント無しで紹介されているのは、ワクチン被害を受けた人や友人、家族のツイートです。痛々しく、激怒し、憤慨した、何千何万ものツイートです。この人たちのほとんどは、どんな圧力をかけられようと再びワクチン接種勧告に従うことはないでしょうし、友人たちの多くもそうするでしょう。おそらくこのことが、追加接種率の低い理由を部分的には説明しています。(そのことに加え、最初2回の接種で言われていたような免疫や自由という見返りが得られることはなかったという事実があります。)

ドラマは続きます。虐めっ子は抵抗のきざしを目にしても手を緩めません。魂のレベルでは、本物の持続する勇気を起こせないと虐めっ子は目的を果たしたことになりません。抵抗が勢いを増せば、抑圧も勢いを増します。私たちは転換点の非常に近くまで来ています。天秤は釣り合っています。ぴったり釣り合っているので、もしかすると一人の重みでひっくり返るかもしれません。その人はあなたでしょうか? あなたが服従し、沈黙し、ひれ伏す理由が何であれ、それが本当にとても良い理由だったとしても、あなたがしなければ他の誰かがリスクを取ってくれるだろうという狡猾ないつわりの希望を受け入れないでください。

一人の人間にできることは何でしょう? 他のみんながやらないなら、私が抵抗したところで意味はあるでしょうか? 人口の5パーセントが拘束され、閉じ込められ、社会から締め出される可能性があります。40パーセントはその可能性がありません。あなたは抵抗して5パーセントになるリスクを取りますか? 見ている方が安全でしょう。最低限必要な人数になるまで待ってから勝ち組に参加する方が安全でしょう。

支配権力のあらゆる嘘の中で、最も重要な嘘は被害者が無力だというものです。その嘘は魔術の形をしていて、信じたら信じた分だけ本当になります。現代人はみんな、その嘘の受動的で抽象的なバージョンの中に生きています。ニュートンの言う決定論的な力で出来た宇宙の中では、一人のすることは本当にわずかな意味しか持ちません。個別ばらばらの自己が勇気を出したり、群衆に逆ったり、権力に抵抗したりするのは、完全に不合理なことです。たしかに、もし大勢の人々が行動すれば物事は変化しますが、あなたは大勢の人々ではなく、ただの一人に過ぎません。ならば他の人にやらせれば良いじゃないですか? あなたの選択は彼らにほとんど影響しないでしょう。

その論理ロジックをくつがえすには自己と因果をデカルト二元論の牢獄から救い出す抽象的な説明が必要になるでしょう。ですから私は論理ロジックを使いません。そのかわり、私はロゴスに訴えます。それは炎のように燃える心の原理です。あなたの中の何かが、あなた一人の個人的な苦闘と選択には意味があると知っています。さらに、選択の時が、勇気を出す時が来たことを、あなたの中の何かが知っています。あなたは転換点が近付いたのを感じられます。その感じは、「もうたくさんだ、うんざりだ!」というものです。穏やかに澄みわたる感じかもしれません。暗闇でジャンプする感じかもしれません。おそらくあなたには私の言っている瞬間が分かるでしょう。私たちの多くがこのような人生の通過儀礼を乗り越え、恐怖のまゆを破って飛び出てきたのです。その瞬間に、重要なことが起きたのがあなたには分かります。世界は以前とは違うように見えます。なぜなら、以前とは違うからです。

人であれシステムであれ、虐待者は新たな段階の主権へと卒業するチャンスを与えてくれます。私たちは規範によって人間とは何者かを主張します。リスクを冒して行うこのような主張は、祈りの形で発せられます。合理的理解を超えた知性がその祈りにこたえて、その周囲にある世界を再構成します。私たちはこれをシンクロニシティーとして体験するかもしれません。それは暗闇でジャンプするような瞬間に、不思議なほど頻繁に起きるように見えます。真夜中にどこへ行く当てもなく、虐待的な夫を置いて家を出る。でも彼女は無鉄砲なのではありません。彼女には「その時が来た」と分かっているからです。彼女は虚空へと踏み出しますが、ほら!何かを足に感じます。出発点からは見えなかった道が、一歩ごとにその姿を現します。

そうなるはずなのです。「その時が来た」という認識を信じ、何百万人が行っている勇気ある選択の周りで、世界は自らを再構成します。あなたが私たちに合流するなら、あなたは最も驚くべきパラドックスを見ることになります。「もっと美しい世界」へのトランジションは、主権への集団的な目覚めであり、どんなヒーローやリーダーや個人がすることをも遥かに超えたものです。でもあなたには分かります。あなたが、あなたの選択がそうさせたことを。それが時代の転換点のかなめだったことを。

(おわり)

注:
1. スペイン風邪の死者数の推計は1700万人から5000万人までの開きがあります。世界人口は20億人にいくらか満たない程度でした。失われた生存年数という点で、対照はさらに際立っています。1918〜1919年の米国では、犠牲者の99%が65歳未満で、半数が20〜40歳でした。コロナ死者年齢の中央値は約80歳です。

2. 現在では多くの専門家はコロナが根絶されることはく、当面の間は流行が続くと合意しています。

3. 学校とロックダウン社会は不気味なほど似ています。学校では、個人の移動は常に許可を必要とします。重要な行事にはホールパス(許可証)が与えられます。また校長よりも高い権威を持つのが、医師の診断書です。

4. 読者の中にはコロナ正統論に反対する私の態度は若いときのトラウマが処理されていないことが原因だと疑う人がいるかもしれません。もしかすると私は自分の心理劇を時事問題に投影して演じてきたのです。虐待を無害な公衆衛生システムや献身的な医師や科学者に投影しているのです。もしそういう観点から私の分析を疑いたいのであれば、私自身この可能性に気付いていないわけではないことにも留意してください。


原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/a-path-will-rise-to-meet-us

オーウェル作『1984年』引用部分の訳は、髙橋和久訳『一九八四年[新訳版]』(早川書房)を参考にした。

【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
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