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この地球という寺院 〜贖いの暴力を超えて〜

チャールズ・アイゼンスタイン著
2021年9月21日 (この文章はルネ・ジラール論考シリーズの最終回です。ここまでは、第1部第2部第3部第3.5部を参照。)

この論考シリーズの目的は、ルネ・ジラールが供犠の暴力と呼んだ古代からのパターンの超越に向かう道を明らかにすることです。そのパターンにおいて、社会はその憤怒、不安、敵対関係を非人間化された生贄の集団に向けて放出します。この潜在的な力は、経済危機、飢饉、疫病、政変のように社会がストレスを受けると膨張します。そのときエリート権力者はファシズムを目的にこの潜在力を乗っ取る可能性があります。

シリーズ第3部では、ワクチン未接種者に汚名を着せて排斥することを、いま作用している群衆力学の顕著な例として取り上げました。しかし群衆力学はワクチン問題を遥かに超えていて、じっさいワクチン反対者の内にも作用します。しばしば彼らの思考パターンは正統派の映し鏡となります。我々は善玉で、奴らは悪玉だ。我々は合理的で、奴らは不合理だ。我々は目覚めていて、奴らは眠っている。我々は倫理的で、奴らは腐敗している。これに限らずあらゆる反対運動は、今や国民全体に蔓延している無礼さという毒から逃げられません。

独りがりや愚弄、中傷、軽蔑が、ジラールのいうスケープゴート作りに先立って行われるのは必然です。それらはまた、陣営の内部での連帯を作り出すために、言葉の上でも心理的にも強力な道具です。それらが意味するのは、我々の信条から逸脱しようものなら、お前も愚弄してやるぞ、ということです。集団による愚弄と儀式的な屈辱の後にやってくる危険のことを、人間はまるで本能のように知っています。それは古代から続くパターンです。まず始めに群衆は獲物を冷やかし馬鹿にするが、次にくそを塗りつけて汚します。軽蔑に値する、ムカつく存在という烙印が押されます。そして石が飛んできます。

このような戦術を使えば、集団の規律に従わせ、傍観者を無理やり協力させることができるかもしれません。私がこの戦術を意識するようになる前に、読んで優越感に浸っていた文章は、間違っている側(つまり著者が賛成できない人たち)を軽蔑するようなものだったのを思い出します。優越感の下にあったのは、仲間に入れてもらっているという感覚と安心感でした。じっさい私は優越感と仲間の感覚と安心感を得るためなら喜んで同意していたでしょう。結局この戦術が意味するのは、「お前は軽蔑に値する人ではなく善人になりたいか? ならば私に同意しろ!」ということです。

断固反対の意見を持つ人に対処するとき、この戦術は逆効果です。軽蔑すると、攻撃であることを見透かされ、がっちりと防戦態勢を整えて同じ武器で反撃するよう追い込んでしまいます。態度を決めかねている人の多くも嫌悪感を抱くようになります。対話を通して真実を探し求める純粋な欲求や理性といったもの以外の何かが働いているのが見えてしまうからです。それは戦いです。より広い意味では戦争です。戦争でどちらの側も目指すのは、勝利であって真実ではありませんが、その反対であるように装います。

ことわざに言うように、「真実は戦争において最初に犠牲になる」のです。そして戦争の根本にある嘘は集団暴力や大虐殺、魔女狩りと同じで、ある人々を完全な人間とは認められないというものです。私たちがその嘘を続ける限り、人間は悲劇的な歴史のパターンを繰り返します。私たちの個人的・集団的な理解も混乱したままになります。

この最後の点は明白ではないかもしれません。そこで、ネット検閲者を挑発する危険を覚悟で、ワクチン論争を例に使って非人間化が真実を見えなくする様を説明しましょう。ワクチン懐疑論者の側では、ウイルス学者などの研究者は無知で腐敗し妄想的で無能だという考えを持つと、懐疑論者が主流科学知識の内容に立ち入ることはできなくなります。そして不確かな推測に基づく説や簡単に虚偽と証明できるような説を軽率に信じて事実と認めてしまい、もっと強固な主張との区別ができなくなります。これが集団の中に混乱を引き起こします。

ひとつ例を挙げましょう。ワクチン懐疑論者のある一角に広く流布されているデマがあって、「新型コロナのウイルスがコッホの原則によって分離され存在が証明されたことはない」というものです。厳密には正しいといえるものの、これが意味するのは不可能な要求です。コッホの原則は細菌バクテリアのために作られたものです。細菌は死んだ培地の上で培養でき、したがって「精製」できる(ことが多い)のです。ウイルスは生きた細胞中でのみ増殖できるので、ウイルス粒子を含むサンプルには細胞の残骸も含まれ、ウイルス由来ではないDNAとRNAを含んでいます。そのためウイルスのゲノムを確定するには組合せ手法が用いられます。何十万人ものウイルス学者が過去50年を費やして研究したものが幻覚だったと信じるには、学者たちは明らかな事実を見ることさえできない堕落した愚か者だと考えるしかありません[1]。彼らをそのように見るなら、コミュニケーションや学びが不可能になり、互いに真理を追究することもできなくなります。ウイルス学とワクチン科学の従来のパラダイムに対する、もっと正当で微妙な異議申し立てからも、注意をそらせてしまいます[2]。正統派の科学者は、無知な異議申立にうんざりしているので、もっと正当なパラダイムがあったとしても、自分のパラダイムに固く閉じこもってしまいます。

懐疑論の最も理不尽なメンバーが差し出す極太の刷毛で反対運動全体に泥を塗ってしまうと、ワクチン推進派は懐疑論者が公衆衛生を犠牲にしてでも自分の「自由」だけを求める気違いじみた狂信者の集まりだと思ってしまうことが多いのです。そのとき推進派は、内部告発者や異議を唱える科学者、公式データに表れない恐ろしいワクチン被害の話にどれだけ耳を傾けるでしょうか?

現在この聞く耳を持たない状態の生々しい実例を私が目にしたのは、ワクチンで障害を負ったと主張する人たちの作ったインスタグラムとティックトックのチャンネルを閲覧していたときでした。その人たちが報告するのは、接種の直後から始まり何週間も続く震え、腰から下の麻痺、脳卒中、失語症などのような悲惨な身体衰弱です。それは偶然でワクチンとはまったく関係ないと、診察した医師に告げられたという報告も多いのです。私にはこの人たちは正直だと見えるが、多くの人々にとっては明らかにその逆です。コメント欄にはヘイトがあふれています。「フェイク」、「猿芝居」、「嘘つき」などのコメントは穏やかな方です。「頭の狂った変人。」児童保護サービスが子供を連行するよう通報してやるという脅し。女性蔑視の中傷(投稿者の大部分は女性)。たしかに、この人たちが事実を捏造しているというのは考えられることですが、コメントを書いた人々はどうしてそこまで確信できるのでしょう? インスタグラムが投稿を削除する時どうして「有害なデマ情報」だと確信できるのでしょう?[3] さらに、このような隠蔽は制度化されているので、ワクチンの害が本当は大規模に広がっているかどうか、どうすれば私たちは集団として知ることができるでしょう? コミュニケーションの不全が私たちを暗闇に閉じ込めています。

検閲、デマ情報、プロパガンダには、それがなければ効果を発揮できない不可欠な仲間がいます。その仲間とは、非人間化という群集心理と社会習慣です。このような戦術が働くのは、プロパガンダが私たちに命じるとおりに他者を見ることを受け入れ、自分で実際に耳を傾けて判断する努力をしないときだけです。

私たちの中にいる敵

他者を非人間化する傾向の結果、私たちはプロパガンダに弱くなるというのは驚くことではありません。非人間化するとき、私たちは真実の中にいません。(なぜなら真実は、全ての人間はひとりひとり神聖な魂であり、生命そのものであり、感覚し思考する主体であって、世界を唯一無二のしかたで体験しているのですから。)私たちが真実の中にいないとき、私たちは嘘に弱くなります。

私たちは内部分裂と疑心暗鬼にも弱くなります。あらゆるところで悪党と詐欺師に注意を向けている人は、自分の仲間内でもすぐに悪者を見つけます。すると、反対運動を潰すには、特定のメンバーを潜入者、売国奴、「操られた反対派」だとして非難を始めるだけです。このような非難は既存の敵対関係を利用します。「わかったぞ! お前が私に同意しないのは××だからだな」という具合です。どんな運動も二極対立のレンズで世界を見るなら、それ自身の分裂へと陥りやすいのです。

これは潜入者や密告者の存在を否定しているわけではありません。諜報機関が長年にわたって工作員を潜入させ、(公民権、環境保護、反グローバル化運動のような)反対運動の転覆を試みてきた歴史は、記録に残っています。疑いもなく、現在はコロナウイルス政策に反対する者に対して同じことが行われています。ここで私が伝えたいのは、誰でも無意識に信頼すべきではないということです。信頼は新たな根拠から出てきます。私が信頼するのは、自分が善玉で正義の味方だというアイデンティティーを手放そうとする意思を示す人です。

腐敗、無自覚、無知、不合理のようなものがあることも否定しないでおきましょう。しかし、人間をそのような特質のいずれかに落とし込むとき、かならず人間性を破壊して真実に対する暴力を振るうことが伴います。最終的に、真実に対する暴力は他の形の暴力を引き起こします。ある人を屈辱的な呼び名に落とし込むと、人類にとって現時点で唯一の救いとなる問いを回避することになります。それは「私があなただったらどんなだろう?」という問いです。

人類が現在直面する最大の危機はワクチンや反対派ではなく、感染症ではなく、慢性疾患ではなく、人口過剰ではなく、核兵器でもありません。それは気候変動ですらありません。現在最大の危機は言葉の危機です。それは合意の危機です。それはバベルの塔のようなコミュニケーションの危機です。私たちが結束すれば、他の問題の解決は難しくありません。今のままでは、人間の創造性という驚異的な力は互いに打ち消し合ってしまいます。私たちが共同作業で創り出した結晶構造は粉々に砕け散ってしまいました。なぜでしょう? コミュニケーション技術が足りないからではありません。その原因は認知の癖です。お互いを本当の人間以下のものとして見る見方です。

先へ進む前に、はっきりさせておきましょう。慈悲心は屈服と同じでは有りません。コミュニケーションは妥協と同じではありません。平和主義は消極性と同じではありません。他人の神聖さを見ることは好き放題を許すのと同じではありません。他の見方に耳を傾けるのは自分の意見に口を閉ざすことと同じではありません。

党派主義者の恐れとは反対に、競争相手を人間として扱うと、癒しと公正さと平和によって、最終的に私たち全員を一致団結させるという目的への努力が、妨げられるどころか、より上手くできるようになります。戦いの場面が来たときでさえ、敵について誤った思い込みがなければ、より上手に戦うことができます。

思い付くまま例を挙げてみましょう。地球上の全人類を監視し、注射し、追跡し、支配するとともに、生体認証データ、位置データ、リアルタイムの生理状態データを集中管理データベースに送り、それに基づいて許可や制限を発して人々を安全に保つという、ビル・ゲイツが指揮する技術官僚主義の計画を止めたいと、私が思っているとしましょう。これを阻止するには、なぜそれが起きているのかを理解する方が良いのです。この理由が、ビル・ゲイツとその取り巻きは他人を苦しめるのに夢中になっている残忍な狂人たちだからだと、もし自分に言い聞かせたなら、私には見えないものが多くなります。そもそもこのような人々がなぜそこまでテクノロジーに夢中になっているのか、その理由が私には見えなくなります。進歩と管理を同一視する暗黙の神話に、私が注目することはなくなります。支配という文化のパターンに私が注目することもなくなります。その間も、私は敵そのものではなく戯画と戦うことになります。

おそらく、ビル・ゲイツは自分が人類の利益のために働いているのだと熱烈に信じているでしょう。彼は慈善家、つまり人類を愛する者という表向きのアイデンティティーを確信しています。彼の心は正義の確信でいっぱいです。彼がしたことの中で誤りだったと分かっている物事に対してさえ、彼は正当化の理由を用意しています。中には、もしかすると考えないようにしている物事もあるかもしれません。要するに、彼はもしかすると私やあなたと大して違わないかもしれないのです。彼の未来観を私は完全に拒否するので、私は彼が危険な人物だと考えます。でも悪い人でしょうか? 私にそれを知ることは不可能です。なぜそう断言できるのでしょうか?「悪人」というハリウッドの神話に条件付けられると、私は彼をそのように見る誘惑に駆られるかもしれません。でももし彼の本当の心理に気付いたなら、あるいは少なくともそれを知ろうとするなら、もっと上手く彼に立ち向かうことができるのではないでしょうか? しかしそのためには、私は彼のことを完全な人間として見ることを進んで受け入れる必要があります。これは弱腰でビル・ゲイツのやりたい放題を許すという意味ではありません。まったく逆です。私たちが弾圧者の本性を理解し彼らの行為を「悪」のせいにするのをやめれば、私たちはどんな種類の弾圧にもより効果的に立ち向かうことができます。そうすることで、彼らも私たちを再び人間として見るようになり、一方の側の勝利とは別の何かが未来を決めるという可能性を、私たちは切り開きます。

もし一部の人たちが悪人だったとしても、これは当てはまります。確かにエリートの中には本物の性格異常者サイコパスがいますが、普通の人でさえ、イデオロギーと権力に酔った状態なら、凶悪な政策を実行できます。反対に、多くの科学者や為政者は善良な人々だからという理由だけで、彼らが群集心理に染まることはないのを当然と思うことはできません。群集心理はその命令に従って信念と行為を組み立て、合理化と正当化、口実を限りなく生み出し続けます。自分の正義を強く確信しながら、善人は悪事を行うことができます。このような人々に話しかけるには、彼らの品位を否定せずに正義感の対象が何なのか問うことを学ぶ必要があります。

今は躊躇ちゅうちょし頭を低くして黙っている時ではありません。今こそ立ち上がって声を上げる時です。彼らについての先入観の下に隠れている本当の人間に向かって話しかけるなら、私たちの言葉はもっと力強くなります。

西洋からの超越

ジラールは、暴力の応酬という弓が暴力の満場一致によって緩められたことで、人間の儀式と文化、宗教が発生したのだと主張します。でも、私たちがこのパターンからの解放、革命のエネルギーを次から次へと繰り返すスケープゴート作りに移転することからの解放を見出せるとすれば、それは宗教においてです。

東洋と西洋からその例を示します。まず西洋から。キリストの物語は一見すると生贄という型にはまっているように見えますが、じつはそれを破っています。スケープゴート作りは生贄をある種の穢れと結び付けることに依存し、それによって穢れを取り除くことができます。キリスト教の教義はイエスの無罪性、純粋さと神聖さを主張します。粗暴な群衆に向き合い社会的緊張によって乱れた地を支配していたポンテオ・ピラトは、何をなすべきか知っていました。それは群衆に生贄を差し出すことでした。その後に訪れる平和が、虐殺の正義を証明します。だがイエスの物語は通例のように展開しません。多くの神話(バットマンはジョーカーを制圧してゴッサム・シティを救い、スーパーマンはレックス・ルーサーを殺して世界を救い、アベンジャーズはサノスを殺して宇宙を救い、政治家はテロリストや無教養な者たちから私たちを救うなど)とは異なり、この物語では生贄が無罪の極致なのです。彼の無罪は、罪が群衆の欲求とは無関係なことを明白に示します。したがって、イエスの無罪は万人の無罪を意味し、罪によって生贄にされた者でさえ無罪であることを意味します。なぜならハイムが述べるように、「どんな人間ももっともらしい理由でスケープゴートにされ得るのであって、どんな人間もコミュニティー全体が敵に回ったなら勝つことはできない」からです。

ゆるしはキリスト教を特徴づける教義です。赦しは、正しく理解すると、あなたは悪いけれどともかく赦そうという、迎合のようなものとは違います。赦しは理解のひらめきから生まれます。「もし私があなたと完全に同じ状況に置かれたなら、私もあなたと同じことをしたかもしれない。」言い換えれば、それは私たちに共通する人間性という実感としての認識から来るのです。この同じ理解こそ審判を防ぐものです。福音書にある最も力強いイメージは、赦しと審判に関わるものです。十字架のイエスは自分を苦しめる者たちにこう言いました。「父よ彼らを許したまえ、彼らは自分が何を為しているかを知らないから。」イエスはこんなことは言いませんでした。「父よ彼らを許したまえ、あなたは良い神様で悪人は更生できると信じていらっしゃるから、どうか彼らにお情けを。」

人類が置かれている恐ろしい状況を、地上に放たれた性格異常者のせいにすることはできません。完璧な善意を何百万も積み重ねたとしても悲劇を招きます。なぜでしょう? それは、彼らは自分が何を為しているかを知らないからです。十字架上での死のシーンで、彼らが知らないのは罪のない男を十字架に掛けているということです。私たちが誰かを生贄にするとき、必ずこれと同じことになります。生贄が本当に有罪であっても、供犠のプロセスで彼らに貼られた非人間化のレッテル全てについて有罪ではないのが普通です。

組織宗教の性質に組み込まれているのは、中心的な奥義の原理とは正反対のことをその組織制度が実行する傾向のあることです[4]。したがって、審判を下し、非難し、非人間化しスケープゴート作りをすることについて、キリスト教に並ぶものはないのです。その歴史は一目瞭然です。宗教裁判、魔女狩り、アフリカ人の奴隷化、原住民の大虐殺、女性の服従は、全て教会の公認の下に行われました。それでもなお、原初の教義は私たちがこのような物事を超越するように呼びかけています。マーク・ハイムは次のようにいいます[5]。

あがないの暴力は、多数の利益のためになり、神聖であり、人の命そのものの神秘的な基礎だとされる暴力だが、これは罪を克服する(穢れを取り除き、共同体に災難をもたらした罪人を処罰する)手段だと必ず主張する。特徴的にその克服を主張する罪はスケープゴートの犯罪であって、生贄が犯した罪だ。だが受難側の説明ではその罪は迫害者のものだ。多数を危険にさらす者の罪ではなく、一人を敵にした多数の罪だ。受難の物語では、贖いの暴力はそれ自身が克服されるべき罪であることを明白に表している。

贖いの暴力に向けた準備が整ってしまうと、もう単なる自制では押し留められません。私たちはもっと早くからその基礎の除去を始める必要があります。軽蔑という癖、毒々しい噂話、激しい非難、精神病者とみなすこと、中傷、その他の形の非人間化を、私たちは遮断しなければなりません。また世界を戦いという観点で見ることを、私たちは止めなければなりません。戦い、戦争というレンズは、見えるものが少なく見えないものが多いのです。それは現実を慣れ親しんだ論調に、白と黒、我々と奴ら、善と悪という論調に当てはめます。その図式はなじみ深く、常習的でさえあります。でも私たちの多くにとって、それはもう心地良いものではなく真実だとも感じられません。一部は無益感が、一部は疲労感が、この論争、運動、十字軍から手を引くよう私たちを仕向けています。その疲労感と燃え尽きと諦めから、新たな可能性が生まれるのです。

諦めは相手側への降伏を意味しません。それは、あちら側とこちら側という視点で物事を見るのを辞め、誰が勝つかで問題を組み立てるのを辞めることです。それは勝利ではなく真実に奉仕することです。審判の背後にある嘘は、「もし私があなたと完全に同じ状況に置かれたなら、私は違うことをしたはずだ」というものです。あなたは本当にそうだと分かるのですか? それとも、その審判はあなたが知っていることに反する嘘を基にしているのですか?

東洋からの超越

東洋宗教の伝統では同じ果実を別の木から得ます。その木とは強固な二分法の解消のことであり、特に自己と他者の二分法です。たとえば老子道徳経は、その始めに絶対的真理が表現不可能なことを表明し、第二節には対立概念の相互依存性と同時発生について述べます。でもここで私は相互共存インタービーイングという仏教の原理を提起しましょう。

相互共存インタービーイングは、存在は関係性だと説きます。それは私たちがお互いを頼り、熱帯雨林や太陽、水、土に頼って生きているというだけではありません。それらが私たちの存在そのものの一部だということなのです。したがって、もし熱帯雨林が伐採されたり、あなたの家の近くにある小さな雑木林が伐られたりすれば、あなたの中の何かも死にます。それ故に、いま地球で起きている様々な事件が、これほど大きな痛みを引き起こすのです。その事件は私たち一人一人に起きているのです。

相互共存インタービーイングは、内と外は互いを反映し包含すると説きます。世界に暴力を振るう国は家庭内暴力に苦しめられます。何百万人もの市民を監禁する国家は自由ではあり得ません。病んだ世界では誰も完全に健康ではあり得ません。そして私たちが最も強く他者を非難する物事は、何らかの形で私たち自身の中に息づいています。人々から畏敬されるティク・ナット・ハン師は、この原理を『本当の名で私を呼んで(Call Me by My True Names)』という詩で雄弁に伝えます。ここにいくつかの節を引用します。

私はウガンダに生きる子供、骨と皮だけに痩せ細って、
私の脚は竹竿のように細い、
そして私は武器商人、ウガンダに恐ろしい武器を売っている。

私は12歳の少女、小舟に乗った難民、
海賊に強姦され海に身を投げる、
そして私は海賊、私の心はまだ見ることも愛することもできない。

私は政治局員、巨大な権力を握っている、
そして私は「血の負債」を国民に返済する男、
強制収容所でひっそりと死んでいく。

私の喜びは泉のよう、暖かさで地上の至る所に花を咲かせる。
私の痛みは涙の川のよう、あふれて四つの大海を満たす。

どうか私を本当の名で呼んでください、
私の泣き笑う声がすべて一度に聞こえるように、
私の喜びと痛みは一体なのが見えるように。

どうか私を本当の名で呼んでください、
私が目覚めることのできるように、
そして私の心の扉が、慈悲心の扉が、
開かれたままになりますように。

もし私たちの知る人類の状況を超越しようとするなら、私たちはティク・ナット・ハンのような偉大な師の嘆願に実際に従うことから始める必要があります。彼が呼んで欲しいと願う「本当の名」には、私の名もあなたの名も含まれます。他者の中に悪を見いだすなら、悪を滅ぼすことを願って彼らを滅ぼすことで、私たち自身の一部が敵に投影されたものを無意識へと追いやってしまいます。無意識の中でその影は増殖し、生命の内部から侵入し、やがて暴力の支配を奪い取る時がやって来ます。

「慈悲心の扉」とは分断の障壁を解消することです。「私は少女。私は海賊。私は武器商人」には真実が含まれています。「わたしはその誰でもない」というのも真実ですが、後者の真実が近代のイデオロギーやシステム、経済によって絶えず強化される一方、非分断という真実は失われてしまいます。それを取り戻すときが来ました。海賊や武器商人が仕事に精を出すのを許すということでしょうか? もちろん違います。でも私たちは、想像できる限りの様々な悪を全て彼らに押し付けて、世界から海賊を一掃することで悪の無い世界を望むようなことはしません。

現代の問題のあらゆる側にいる党派主義者に私がお願いしたいのは、忠誠の対象を切り替えることです。相手側に鞍替えしろというのではなくて、勝利から愛への切り替えです。あなたの信念、たとえばワクチン賛成の信念やワクチン反対の信念は、紛れもなく愛を実行に移したものだと、あなたは信じているかもしれません。もしかするとそうかもしれません。しかし、仮にあなたの側が信念に役立てるためヘイトを行っているのに気付いたとしたら、最上位の忠誠は勝つことに向けられていると分かるでしょう。


悪党に対する嫌悪を煽り悪魔の役を割り当てることで、一方の側は本当に戦いに勝つかもしれませんが、世界に満ちる嫌悪のレベルを引き上げて、社会は人心操作と暴力にますます弱くなっているでしょう。

あなたは癒しを勝利より重視するでしょうか? 社会は癒されるが、悪人が罰せられることはなく、あなたの無実が証明されることはないという解決策を、あなたは受け入れる気があるでしょうか? あなたが最初から正しかったと証明される満足をけっして得ることはないとしたら? あなたに反対する人々があなたにしたことを誰も謝ることはないとしたら? あなたが大切にしている物事で自分の間違いを認める必要が出るとしたら?

パワーの指輪

私は先日、J・R・R・トールキンの『指輪物語』の素晴らしい朗読を息子のケーリーと聞いていました。その本で、ボロミアは冥王サウロンに「一つの指輪」の力を使うことを提案します。だめだ、とガンダルフは忠告します。もし我々がそうして勝ったなら、指輪は完全な悪なので、誰であれ指輪を使う者が新たな冥王となります。ならば指輪を隠したらと誰かが言いますが、ガンダルフはだめだと言います。指輪は再び見つけられ、我らの時代のみならず未来永劫にわたり、我らは悪に勝つ道を探し続けるだろうと言います。

私がこのたとえにふけるのを許してください。一つの指輪は非人間化のことです。それは闇の力がこの地球を支配する方法です。それは私たちがお互いを非人間化するように仕向けます。それは本当に強力な武器で、私たちは支配者に対して使い政権を転覆させることもあります。でも新たな支配者がどんなものになるか簡単に想像がつきます。彼らは正しさを強く確信し、敵対者の悪を強く確信し、敵対者の下品な戯画を愚弄、侮辱、嘲笑することには熟達しています。

一つの指輪を使う者はこう言います。「我と共に悪人どもに屈辱を与えよ。」彼女は群衆の力を呼び起こし敵対者に向けて解き放ちます。全ては善き大義のため、自由の大義、正義の大義のため、ついに善が勝つその時まで使うだけです。残念ながら、彼女は倒そうとする怪物に餌を与えてしまったのです。彼女は常にそれを恐れます。彼女は群衆を解散させずに導こうとします。そうしないと彼女自身が次の生贄にされてしまいます。指輪は着ける者を破滅させます。

そうではなく、一つの指輪をそれが作られた火の中へ投げ返しましょう。どうやって? 私的公的な議論の中で、日常の何十億回のやり取りを通してです。私たちには非人間化にまさるもう一つの道具があります。それを愛と呼んでもいいでしょう。様々な形を取って、愛は互いの神聖な人間性(キリスト)と私たちの根本的な不可分性(相互共存インタービーイング)という真実を利用します。愛の形には、礼儀やユーモア、理性があります。愛は、憎むことなく怒りを、非難することなく責任を、独り善がりなく真実を表現できます。愛が他者の聞く心を開かせるのは、攻撃されてはいないと感じさせ、自己防衛の必要を感じなくなるからです。説得より繋がりを優先することで、愛は心を変える不思議な力を持ちますが、これは証拠と理屈の正面攻撃よりずっと効果的です。この道具を使うには、私たちは自分が変わることを進んで受け入れる必要があります。その意思そのものが力強いいざないなのです。それがなければ、他人の心が変わるなどと期待する理由があるでしょうか? このような謙虚さは他者を完全な人間として見ることから生まれます。それを通して、私たちは言葉の力、合意の力、一致団結の力を取り戻すことができます。お互いを神聖なものと認めるなら、私たちはこの地球という寺院を作ることができるのです。


注:
[1] トム・コワン、アンディー・カウフマン、ステファン・ランカのウイルス病原菌説の批判のことは良く知っています。彼らはいくつかの重要な答のない問いを提起していると思いますが、私が見る限り、彼らの主張の中心はウイルス遺伝子解析の方法についての誤解に基づいています。ここで私は彼らの批判を見落としていないことを読者に念押ししておきたいだけです。

[2] 実際、私の見解では病原菌説の標準的パラダイムに深刻な問題があり、それは感染症の第一の原因として病原菌に注目します。そのレンズはいくらかの洞察を与えてくれますが、陰に追いやられる重要な問題には、病原菌と宿主の共進化、共生関係、有益な遺伝子導入、免疫負荷の利益などがあります。特に無視されがちなのは土壌理論(terrain theory)で、病原菌が繁殖する身体の条件に注目し、標準的な考えでは人が病気に対する免疫や強い免疫系を持っているかどうかという単純な問題に還元されてしまいます。

[3] 医者が認めない有害事象のよく似た話が書かれているコメント欄もろとも削除されます。インスタグラムのチャンネルには、その後削除されましたが、何百何千もの似たような話が含まれるものがありました。それを「ヒステリックなワクチン反対主義者」の仕業だと都合良く無視することもできますが、ここでもまた、本当にそうだと誰が分かるのでしょう?

[4] 科学という宗教の中心原理は謙虚さで、その制度的表現が傲慢です。

[5] この記事のネット上のリンクを見つけられません。S・マーク・ハイム著「スケープゴート作りの終わり」(ベイラー大学・宗教と学びの研究所、2016年)


(原文リンク)https://charleseisenstein.substack.com/p/a-temple-of-this-earth

【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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