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男女で能力における『性差』は本当に存在するのか?

こんにちは、taigaです。
今日はちょっと難しいテーマを語ってみたい。本記事の題名の通りだ。
もちろん最近は男女の枠にとらわれない性別も認知され広がってきているが、今回は男女ということで読んでもらえれば幸いである。

さて。どの国においても基本的に『男性は〇〇に向いている』『女性は〇〇に向いている』という感じで、一般化・ステレオタイプ・偏見など、様々な手法で性別のカテゴライズしているし、したがる傾向にある。

これはドイツもそうだし、日本もそうだし、世界中でまだまだそれに溢れている。最たる例は『男は外で稼いで一人前』『女は家で家事・育児』だろう。

しかし、それ以外にもたくさんあるのではないだろうか。
僕はまず、今までの人生で経験したことや学んだことを思い出してみた。

1. 『男だから、女だから』ばかりの世界

男は仕事、女は育児というのはあまりにも典型的すぎる例である。
しかし、我々日本人は親(保護者)や先生に、または学生時代の教育で、はたまたは毎日見る本・漫画・ニュースなどのメディアでこのような傾向を目にしていなかっただろうか。

・理系の女は『冷たい・感じが悪い』
・理系の男は『知的・カッコいい』
・女は『愛嬌が良ければOK』
・男は『仕事で結果を出せ』
・高収入の女は『高飛車、生意気』
・高収入の男は『憧れ、デキる男』

もちろん上記の記述は正直に言うとどちらの性別にも当てはまるだろう。
理系の男でも『冷たくて感じが悪い』人もいるし、高収入な女でも『おっとり朗らか』な人もいる。
だが今回、それぞれの『あるある度』が『どっちの性別でよりそう思われがちか』をということに着目すると、このようになりがちなのではないだろうか。

そして更に気付いてもらいたいのが、このリストの配列だ。
『試しに』女の方を前に持ってきて書いてみたのだが、気付いただろうか?
読みながらもし何らかの違和感を感じた人は「そう、まさにその考えが既に」の可能性があるかもしれない。

2. 性別における『能力の差』について

これはなかなか難しい話だ。詳しいデータや脳科学に関しては僕の専門でもないので、自分が今知っていることだけを前提に書いてみる。

性差とはすごく単純に言うと『性別における違い』である。
例えば一般的に、男は力が強い・女は子供を産める、ということだ。
この2つに関しては、何かしらの病だとか、そう言うのを一切省くと、2つの性別において「まあそうだよね」となる自然原則だが、その他全ての能力に関しても『男は〇〇が得意』『女は〇〇が得意』と言い切れるのだろうか。

一番わかりやすいのが『男性は理系が得意で、女性は文系が得意』という考え方だ。
これに関してはたくさんの研究が出ているし、『実は理系は女子の方が成績が良い』とか『やはり男の方が理系の能力が高い傾向にあるのだ』とか、いろんな意見があると思う。

それらの統計は、確かに綿密な実験結果を分析しているだろうし、その分野の研究者の方々の膨大な努力は一切否定しない。
ただ、どれだけの研究結果やデータが出ても、僕はこう思うのだ。

『男だから、女だからという言葉や態度、教育を、親兄弟・友人・教師・学校の環境、テレビや雑誌などのメディアで日常的に受け続けて、その影響をどっぷりと受けた被験者の結果に結局は左右されているのではないか?』

特に最近は、そう感じずにはいられない。
では、男女平等と言われている社会でも、能力における明確な性差はあったのだろうか。

3. 男女平等を国家の主軸に掲げた旧東ドイツ

歴史を勉強した者であれば何となく覚えていると思うが、第二次対戦後、ドイツは東西に分裂させられ、冷戦の煽りをもろに食らった。

旧東ドイツ(独:DDR)は旧ソ連の傘下にいた為、社会主義国家だった。
社会主義とは諸説あるわけだが、共産主義の一歩手前、つまり共産主義を目指す国家というイメージだ。
つまりこの思想は『人類の平等』がテーマであり、もちろん『男女平等』の概念も存在する。

旧東ドイツがはじまった頃、1949年施行のDDR憲法はかなり画期的で、他の資本主義の西欧諸国を驚かせた。
というのが、旧西ドイツでさえ相当に苦労した『男女平等』の条文を、旧東ドイツはこれでもかというほど明白に、そして迅速に成し遂げたからである。

4. 男女平等の国家でも実際は『男らしい学問、女らしい仕事』ばかりだった

旧東ドイツは戦後〜ベルリンの壁の崩壊までの約45年間、つまりは半世紀ほど続いたわけで、その時代の人々は国家の思想としての『男女平等』の精神が根付いていた。

というわけで、大学や職業訓練も職種も、どちらの性別にも、理論上はオープンされていた。しかし実際は、理系に進む男子学生の方が圧倒的に高く、文系に進む女子の方が圧倒的に高かった。

当時の旧東ドイツについて研究された論文を読んでみると、当時の子供たちは確かに男女平等の環境で育ち、授業は性別に分け隔てなく行われた。
例えば家庭科という授業も、当時より男女平等に取り入れられた(例えば日本では『家庭科』が男女必修になったのは1990年代に入ってからと記憶している)。

そんなわけで学校時代、理系が得意な女子生徒も旧東ドイツにはかなり沢山いたそうだ。しかしそれが時が経つにつれ、残酷な現実を知って諦めていくことが多かったらしい。その現実とは、

・理系の高等学問や職種は男性が優遇されて、女性が排除される(つまり募集要項に女性がなく、そもそもお呼びでなかった)という目に見える障壁

・理系が得意な女子は、大きくなるにつれて『やっぱり理系は男』『女はやっぱ文系の方が向いている』というステレオタイプや偏見を日々受け続けて、徐々に実力を落としたり、または道を男に譲ってしまったという現実

・運よく理系の仕事につけたとしても、それは『ライバルの男性らよりもよっぽど良い成績だったから』という、数年前の東京医科大学のスキャンダルとまさに同じような感じで、女子生徒のみにハードルを上げていた


というわけで、一応『男女平等』を謳っていた社会でも、結局こういうことは日常のように起きて、それが男性と女性の進路・職業に大きく影響したことは間違いないのだろう。

それが続くと、いかに男女平等の社会であっても、結果的に『男らしい』『女らしい』学問や職種がものの見事にできあがる。

・男らしい学問や職種:理系、エンジニア、機械工学、建築関連、医師や弁護士などの高収入な職業、など
・女らしい学問や職種:語学、文学、教育学、看護師、介護士、事務員、販売員、郵便職員、など


旧東ドイツの当時の統計などをみても、学問や職業における性差は明らかで、それが収入面にもしっかりと反映されていた。
男性は賃金が高い業種につき、女性は圧倒的に賃金が低い業種だった。

5. 『男は理系に強い、女は文系が多い』とは本当に真実なのか

仕事における大原則にして、『習得に時間がかかる職種ほど給与が高い』というものがある。理系は確かに習得難易度が高いから給与も自然と高くなる。

それは当たり前だし、高等教育を受けてきた人々が悪いわけでもなんでもない。昔は僕自身も日本人的な、巷に蔓延する典型的な考えで『男は計算が早く、論理的で、女は地図を読むのが苦手で、語学力に長けている』とか色々思っていた。
だが僕はドイツで研究をしたり、このような過去の論文を読んでいて、こう感じるようになったのだ。

『男は理系に強い、女は文系が多い』という括りは本当に真実なのだろうか?

世界には脳科学や心理学、様々な学問で『男性脳』や『女性脳』など、それにまつわる研究結果は確かに沢山出ている。
しかしそのうちどのくらいの実験結果が『被験者は生まれてこの方、男性としての優位性や女性差別にまつわる経験・教育を一切受けていない、疑う余地がないほどに真にフラットな状態で育った人たちでのみ行われた実験』なのだろうか。

僕は「究極のところ、そんなものは存在しないのではないだろうか」と思う。
被験者はランダム、或いは一定の条件下で集められたにせよ、その人たちが生まれてこの方一切の性別バイアスを受けずに育った保証などどこにもないのだ。

もちろんこの分野の専門家ではない僕には真実は分からない。
だが、素人の感覚としてもそのような選りすぐりの被験者を集めるのが非常に難しいことは分かるし、それが証明されない限り、どれだけの実験を重ねても真に解明することはなかなかできないのではないか、と感じたりするのだ。

なぜなら、そこまで究極の結果を出すためには『生まれてから成人するまで、男女の性別バイアスを一切与えずに教育を施した上で実験した後の結果』でぐらいしか判明できず、その実験自体、人権的に非常に問題があると思うからである。

なので、その分野で『能力による性差はある』と結論付けている専門家の方々の考えが単純に気になる。
きっとたくさんの論文を読み、実験をしてデータ分析をしてその立ち位置にいるんだと思う。
だがこれについて、彼らの・彼女らの中で、『1+1=2』のような学問としての確固たる答えはもう出ているのだろうか。それともまだこれは今の世の中で、まだ解明途中で道半ばなのだろうか。それがふと気になった。

6. まとめ:男女の違いは大きく分けるとたった『2つ』

というわけで、僕の考えはこうだ。
現時点の世界において、男女においてどうしても埋められない差はどうしても存在する。ただ個人的に、それは大きく分けるとたった『2つ』だと思っている。

・男性の方が身体能力が高い
・女性は子供を産むことができる


確かに、女性でも鍛えていて、男性よりも力持ちの人も多い。
あるいは遠い未来で、性転換手術など何もしていない男性でも子供を産めるようになる世の中が訪れるかもしれない。
しかし今の世界では、子供は女性にしか産めないし、全く同じ食生活とトレーニング量をこなした男女での筋力差・身体能力の差は、やはり男性に軍配が上がると思う。

だが、僕はこれ以外の能力については『実は性差はないかもしれない』と考えている。
なぜなら今までの世界は何百年、何千年と『性差がある』と認識して、世界のどの社会もそれを基準に回ってきたからだ。
もし仮に、本当に能力に性差があるのなら、男性はいつまでも高所得で女性はいつまでも低所得ということになる。

それは、我々はあまりにも傲慢なのではないか?と考えずにはいられない。

男の採用枠を女よりも高めたり、女の足切り点を男よりも上げたり、歴史を見ても、論文を読んでもこのように男を優遇する傾向はどの世界も多かった気がする。
それらを一切なくして『男は理論的で優秀』や『女は少し頭が悪いくらいが愛嬌があって可愛らしい』などという偏見に満ちた教育を幼少期から毒のように染み込ませたりしない世界だったらならば、もしかしたら世界は全く違う景色になっているのかもしれない。

そういうSFのような世界を見たくもあり、だが正直に、少し怖いとも思う。

価値観アップデート中の僕ですらこう感じるのだからこそ、世の中にはこういう考えが蔓延っていて、だからこそ女性の進出はなかなか進まないんだろうな、と思う。なぜなら、女性の社会進出・男女平等の力加減を司っているのが、結局のところ男社会であり男中心の政治という事実は否めないからである。

だから僕は思う。
男女平等や女性差別に苦しんでいる女性で『選挙に興味ない、投票していない』という人は非常にもったいないと思う。自分の信念に近い思想を持っている代表を自分の清き1票で投票することは素晴らしいことだ。

選挙権はそもそも非常に強大な人権の1つだし、女性が選挙権を持ったのは本当に、まだまだ最近のことなのだ。もし選挙権があるなら、そして今の社会に不満を持っているならば、ぜひそれを行使すべきだと個人的に感じる。僕も僕の信念でこれからも政治に関わる予定だ。

話が若干逸れてしまったが、僕はこれからも、男女に限らず人間誰もが平等になる社会について考えたことを思いつく度に書いていこうと思う。

この記事を最後までお読み下さいましてありがとうございました。 これからも皆さんにとって興味深い内容・役立つ情報を書いて更新していきますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。