『通り雨』(短編小説)


 「また雨か。ああ、最悪や」

   明日の天気予報を見た風花はそう呟いた。気象予報士のお姉さんは、雨予報の時は暗い顔で話し、雨のち晴れ予報の時は無表情に話し、晴れ予報の時は明るい顔で話す。風花は、雨が大嫌いだったから、暗い表情で話すお姉さんも大嫌いだった。

「なあ、おかん。新しい傘買って」
「え、あの傘まだ使えるやろ? 」
「あの傘、無地の紺で地味やし。傘の内側が青空になってるやつあるやん? 私あれほしいねん」
「そんな変わった傘、いったいどこに売ってんの? 」
「ほら、これ見てや」

   風花はパソコンを母の方に向けて、大手通販サイトの商品画像を見せた。

「あら、ほんまに売ってるわ」
「値段もそんなに高ないし」
「わかった、ええよ」
「この傘やったら、雨の日でも学校に行けるかも」

   風花は、雨が降るたび、気分が憂鬱になり、体調を崩す。雨の日はだいたい学校を休む。梅雨の時期なんて、布団の中に潜り込んで泣き叫んでいた。風花がここまで異常なほどに雨を毛嫌いするようになったのには理由がある。風花を心の檻に閉じ込めてしまったのは、三年前のある出来事だった。

————2013年、夏。

   風花は家族とともに山間部の小さな街に住んでいた。当時、風花はまだ小学四年生だった。街は過疎化が進んでいて、次々と若い世代が仕事を求めて都会へと引っ越していく。当然、街に住む子どもの人口も少なかった。友達が少なく兄弟もいない風花は寂しい思いをすることが多かった。

   そんな風花といつも遊んでくれていたのが、一つ年上のケン坊だった。ケン坊は近所に住んでいる農家の三兄弟の末っ子。いつも優しくていつも笑わせてくれた。風花は、子どもながらに、いつかこの人と結婚するなんて勝手に思い込んでいた。

   夏休みの最後の日。街のはずれにある公園で、風花はケン坊に遊んでもらっていた。

「早いなあ、もう夏が終わるわ」
「うん。明日から学校やな」
「夏休みが一年くらいあればええのになあ」
「一生夏休みがええわ」
「そやなー」

   まだ午後三時だというのに、やけにあたりが暗い。見上げると、どこからともなくやってきた真っ黒な雲が空を覆おうとしていた。

「なんか、雨降りそうやな」
「うん。雲がやばい色してる・・・夕立くるかも」
「今むっちゃ光った。あっちの空で」
「どんどん近づいてきてるな」
「世界が終わりそうな空や・・・っていうか、それなあに?」
「これ、ふうちゃんにあげるわ」

   野の花でできた花かんむりが風花の手のひらにポンと置かれた。ケン坊は、バッタを探すふりして、自分のために花かんむりを作ってくれていたのだ。

「わあ、むっちゃかわいい」
「頭につけてみてや」
「こんな感じ? 」
「ええやん、似合ってるやん」

   花かんむりを頭の上にのせたその時、はるか遠くの空で稲光が走った。少し遅れて、ドォーンという凄まじい雷音が響き渡った。

「うわっ!! 」
「今の、むっちゃびびった・・・」
「うん、びびった」

   風花のおでこに水滴が当たった。瞬く間に、大粒の雨が周囲に降り注ぎ始めた。二人は、雨をしのぐために遊具の下のトンネルに急いで避難した。

「すごい雨やなあ」
「雨が滝みたい」
「こんなすごい雨はじめてやわ」
「ケン坊、私な、なんかちょっとだけワクワクするねん」
「ふふっ。ふうちゃん、やっぱり変わってるなあ」
「え、なんで。雨宿りってワクワクするやん」

   雨脚はどんどん強まり、雨滴が地面を激しく叩き付けている。雷鳴は休むことなく鳴り響き、その衝撃はお腹のあたりにまで伝わってくる気がした。

「あれ? ふうちゃん、どうしたん」
「なんでもない」
「泣いてるやん。大丈夫? 」
「なんでもないって」
「ふうちゃんはワクワクしてるんか、怖いんか、どっちやねん」
「・・・どっちも」
「あれやな。今日はもう帰ろか。雨いつ止むかわからんし」
「・・・」
「送ったるから」

   二人は、恐ろしい声をあげる雷鳴と豪雨の中を、ずぶ濡れになりながら走った。水を踏む二人の一歩一歩に、ちゃぷちゃぷちゃぷと音がなった。地面で楽器をリズミカルに奏でているみたいだった。雨に打たれていても、走る二人の表情は晴れやかだった。

   ケン坊は無事に風花を送り届けた後、「じゃあバイバイ」と軽く言って、傘も借りずにそのまま走っていってしまった。「送ってくれてありがとう」とお礼を言うタイミングもないくらい、すぐに行ってしまった。

「あんた。ずぶ濡れやん。ケンちゃんは? 」
「走って帰った」
「傘貸してあげんかったん? 」
「貸してあげようと思ったらすぐに帰った」
「ほんま、男の子って感じやな、ケンちゃんは」

   バスタオルで髪をふきながら母と話をしていたその時、突然、窓ガラスが震えるほどの大きな重い雷鳴がとどろいた。

「・・・」
「びっくりした・・・」
「今の雷、結構近くに落ちたんちゃうか」
「えっ・・・」
「ケンちゃん・・この雷雨の中を走ってったけど大丈夫か」
「ケン坊は・・・強いから大丈夫やもん」

    風花はすごく嫌な予感がした。

「おかん、ちょっと外に見に行ってくる! 」
「あほ、やめときなさい! 今は危ないわ」
「・・・・」

   数時間後、嘘みたいに空は晴れ渡った。窓の外に見える濃い橙色の澄んだ空が秋の訪れを予感させた。さっきまでの雨と雷は何だったのだと拍子抜けした。

「風花っ! ねえ風花! どこなのっ、ちょっと来て」

   雨が止んで間もなく、母は風花を大声で呼び立てた。母の声はいつもとは違って、ただ事ではない様子なのがわかった。

「おかん、大きい声出して、どうしたん? 」
「風花・・・今ね、ケンちゃんのお母さんから電話があったんやけどね、あのね、あの・・・落ち着いて聞いてね」

   母の顔は青ざめ、目が真っ赤になっていた。落ち着いて聞いてね、という母自身が取り乱していた。風花は母の表情で何となく何が起こったのか悟った。頭が真っ白になった。

「いやや、聞きたくない」
「ケンちゃんが・・・」
「それ絶対イヤなことやっ! 絶対に聞きたくないっ」

    風花はそれ以上何も言わず、二階の自分の部屋に走った。ケン坊がくれた花かんむりを両手で握ったまま、ベッドの上で声の出ない涙を流した。いやな予感は予感のまま終わらなかった。あの恐ろしい雲と雨と雷がケン坊を連れて行ってしまった。

   その出来事は風花の心に深い傷跡を残した。何日何ヶ月が経っても、風花の心の中であの激しい雨音が鳴り止むことはなかった。雨音と雷音を聞くたび、二人で雨の中を走ったあの日のことが鮮明によみがえる。

「あのまま一緒にトンネルにおって雨が止むまで待てばよかったんや。あの時、なんで私は泣いたんや」

   風花の頭の中で、ずっとそのことばかりがぐるぐる回っていた。



   しばらくして、風花の一家は街を出た。

   父は仕事のために決断したと言う。でも風花はわかっていた。父は風花のために移住を選択した。この街にこのままいては、風花がダメになってしまう。たくさんの友達に囲まれた学校生活を送らせてやりたい。そんなふうに父は考えたのだろう。

「おかん、傘、届いたで」
「え、もう来たん? インターネットの通販は早いなあ」
「ほら見て、傘の裏地が青空になってる」
「おもしろい傘やねえ。これで、雨の日も晴れの日やなあ」
「これで学校行けるかな」
「あんま無理せん方がええよ」
「明日も雨予報やけど、私、この傘でがんばってみる」

   天気予報が言っていた通り、翌日は早朝から雨だった。ミストのような細かな雨が街を霞ませている。風花は玄関で長靴をはいていた。

「ほな、行ってくるわ」
「あんた、ほんまに大丈夫? 」
「うん、たぶん」
「気をつけてね」

   風花は、青空傘を片手に、勇気をふりしぼって、雨の世界へと踏み出した。

   青空の天井のすぐ上で、雨があの忌まわしい音を立てている。雷は鳴らないが、霧のような雨が風にのって傘の下に侵入してくる。ちゃぷちゃぷちゃぷ。長靴が地面の水を踏みしめる音がする。

   あの日、ケン坊と一緒に聞いた音が、四方八方から風花に襲いかかってくる。風花の全身に鳥肌が立ち、両手両足が小刻みに震え始めた。

「・・・怖い・・家に帰りたい・・・」

   風花はもう歩けなかった。ちょうど近くにあった、トタン屋根の付いたバス停留所のベンチに腰をかけた。自宅から徒歩5分の中学校がこんなにも遠いのかと思った。全身が鉛のように重い。あの日の記憶が風花の体の自由を奪っていく。風花はそのままバス停留所でうずくまってしまった。

「風花っ! 風花っ! 大丈夫!? 」

    母の声がした。

「あ、おかん・・・」
「もう大丈夫や。おうち帰ろう」
「うん」
「学校からな、電話があった。授業が始まってるのに、風花がまだ来てないって。先生も心配してたで」
「うん」
「やっぱ無理したらあかんわ」
「おかん、私・・・なんで忘れられへんのかな」
「・・・あせらんでええの。ゆっくり時間をかけたらええの」
「うん」

    家に到着してすぐ、風花は吸い込まれるように寝てしまった。想像以上に体力を使ってしまったのかもしれない。

   それから一年が経った。

   風花は相変わらず雨の日は何もできないままだった。ただ、その年の夏はほとんど雨が降らなかった。記録的な水不足でどこかのダムの貯水率が半分以下になったとニュースキャスターが言っていた。

「今年は雨が降らんくて夏が快適やわあ〜」
「でも世間では水不足が深刻なんやって」
「うん。わかってる。でも、今年はええ夏や」
「そうね、そうやね、あんたにとっては」

   母と二人でまったりとニュース番組を見ていると、ウェザーニュースが始まった。気象予報士のお姉さんが話し始めた。

『相変わらずの快晴で水不足が続く日本列島ですが、今日は各地で局地的な大雨いわゆるゲリラ豪雨が発生しています。農家にとっては恵みの雨になるかもしれません。積乱雲の急速な発達により・・・』

   その時だった。外からぽつぽつと雨の音が聞こえた。

「あれ、雨の音がする」
「えっ!? 」
「これ絶対、今ニュースで言ってたゲリラ豪雨や」
「あかん、洗濯物出しっぱなし」
「私なあ、雨、ものすごく久しぶりな気がする。あれ、なんか・・・指先が震えてきた」
「あんたは自分の部屋で布団に入ってなさい」
「うん」

   雨脚はどんどん強まり、雷が荒々しい轟音を立てている。ドォーンという大きな音が家の中にまで響き渡った。

   しばらくすると、部屋の照明が消えた。停電だ。雷で町内の電線がやられてしまったのかもしれない。まだ昼なのに、空の暗さと停電で室内はかなり薄暗くなった。時折、青白い稲光が風花の部屋の中にまで差し込み、壁を光らせる。

   大粒の雨滴。滝のような雨。激しい雷鳴。風花はふと思った。

   ・・・何となく、あの日に似ている。

   風花は布団の中で全身が震えだした。ちゃぷちゃぷちゃぷ。あの記憶が再びよみがえってくる。いつもの雨の比じゃない。限りなくあの日の雨に近い。とめどなく涙があふれ出してくる。無意識に言葉が出る。

「・・・ケン坊・・・ねえ、ケン坊・・・会いたいよ」

   大粒の雨が窓を強く叩きつける。天が怒っているかのように雷がとどろく。耳をふさいでも、あの日の記憶は心に侵入してくる。

「ああ、誰か助けて・・・助けて・・・」

   その時だった。突然、雨と雷の音が消えた。窓の外では、確かに滝のような雨が降り注ぎ、雷が光っているのに。何が起こっているだろう。自分は今どこにいるのだろう。音のなくなった世界で、次第に風花は落ち着きを取り戻し始めた。

「ふうちゃん」

   どこかから声がした。

「ふうちゃん。・・・俺や」

   聞き覚えのある優しい声。風花の大好きだったあの声。

「えっ、ケン坊!? 」
「うん」
「そこにいるのっ? 」
「うん」
「ケン坊、どこ行ってたんや・・・ずっと探してた」
「ふうちゃんは、やっぱり泣き虫やな」
「あほっ」
「・・・」
「ねえ、ケン坊は元気なん? 」
「うん、俺は元気やで」
「よかった・・・。あの日、私がトンネルで泣かんかったら、ウチらはあのまま公園におって、ケン坊も死なずに済んだんや」
「違う。ふうちゃんのせいやない」
「・・・」
「今日はな、ふうちゃんに言いたいことがあって来たんや」
「・・・」
「ふうちゃん。あのなあ、止まない雨はないねん。ええ加減、前を見ろ」
「ケン坊・・・」

   風花の顔は涙と鼻水でぼろぼろだった。にじんだ涙の中に、ケン坊の顔が少し見えたような気がした。

「もう泣くな」
「・・・ケン坊のせいや」
「俺はなあ、いつもふうちゃんのこと見てるから。ふうちゃんは一人やないから」
「・・・」
「頑張れ」
「あっ、ケン坊いかないでっ」
「・・・」
「ケン坊っ」

   頑張れと言ったきり、ケン坊の声は聞こえなくなった。気がつくと雨はすっかり止んでいた。雲の谷間から太陽が少し顔をのぞかせていた。風花はベッドから起き上がって窓の外を見た。空に大きな虹が架かっていた。

   またケン坊に会えるかもしれない。そう思うと、風花は雨の日が少しずつ怖くなくなっていった。でも、それっきりケン坊が姿を見せることはなかった。



   止まない雨はない。

   彼がくれた言葉は、この先の私をずっと支え続けるだろう。あなたは遠くに行ったんじゃない。すぐ近くで私を見守ってくれているんだ。だから、私は前を向かないといけない。

   ケン坊、見てて。私、頑張るよ。

(了)


#小説 #短編 #超短編 #短編小説 #超短編小説 #掌編 #ショートショート #ショートストーリー #物語 #幼馴染 #雨 #雷 #雷雨 #ゲリラ豪雨  

読んでもらえるだけで幸せ。スキしてくれたらもっと幸せ。