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『赤のかけら』(掌編小説)

 全体的におぼろげではあるのだけど、その服装だけは強烈に頭に残っていた。なにしろ、7歳くらいの時の断片的な記憶である。その女の子が着ていた真っ赤なワンピースだけは脳裏に焼きついているのだが、それ以外の記憶が一切ないのだ。

 40歳を迎えた僕は、未来のことより過去のことを考える時間が増えた気がする。時間とともにいろいろなことを忘れていく人間の宿命に、無意識に抗おうとしているのかもしれない。

 頼りない記憶を手がかりに、小学校の裏手にあった深い池とか、デパートの屋上にあった小さなゲームセンターとか、文房具屋のお婆さんとか、自分が一桁の歳だった頃の日常についてインターネットで検索するのだけど、求めている内容が細かすぎるせいか納得いくような情報や資料はほぼ出てこない。

 今ほど気軽に写真をとるような時代ではなかったし、数十年前の小さな田舎町のことをわざわざインターネットで話題にする人などいないのだ。いろいろな記憶のかけらの中でも一番気になっているのは「赤いワンピースの女の子」だった。

「あ、オヤジ。俺だけど。いま大丈夫?」
「ん? どなたさん?」
「ヒロシ!ヒ、ロ、シ!」
「おお、ヒロシか。お前から電話かけてくるなんてめずらしいな」

 70歳の父に電話をすると、めったに話さない息子の声は、すぐにわかってもらえなかった。

「あのさ、すごく昔の話なんだけど、俺が小学一年生くらいの頃、近所に赤いワンピースの女の子がいたのを覚えてる?」
「急にどうした?」
「いや、ちょっと気になっててさ」
「うーん。わからん」
「そっか、やっぱり覚えてないかあ」
「赤ら顔の山田くんなら覚えているぞ。よく一緒に遊んでいただろう」
「それは小学校の高学年の頃だし」
「あ、そうだったか。母さんに聞いてみるか」

 受話器の向こうで母を呼ぶ声が聞こえる。

「ヒロシ? あんたが電話かけてくるなんて、何かあったの?」
「あ、母さん。ちょっと聞きたいことがあって・・・」

 一通りの話をすると母はこう言った。

「うーん。覚えてないなあ。その女の子はうちに来たことはあるの?」
「ないと思う。ただ、子供たちが集まっていた近所の空き地にたまにふらっとやってきて、混ざって一緒に遊んでいた気がするんだよ。しかも毎回赤いワンピースだった」
「向かいに住んでたアキちゃんじゃないの?」

 お転婆のアキちゃんは、空き地で遊ぶレギュラーメンバーだったはずだ。

「違う。俺が言ってるのは、ごくたまに遊んでいた女の子」
「あ、三丁目のカナエちゃんじゃない?」
「それも違う。カナエちゃんはボーイッシュな感じで、ワンピースなんか着てなかった」
「・・・やっぱりわからないわ」
「わかった。ありがとう。姉ちゃんにも聞いてみるよ」

 そう言って電話を切り、すぐに姉の携帯に電話をかけたが、つながらなかった。

   しばらくすると、姉からチャットでメッセージがきた。

「電話くれた? どうした?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「いま、店の裏の休憩スペースにいるから電話で話せないけどいい?」

 姉も、空き地で遊んでいたレギュラーメンバーの一人だ。姉とのチャットのやりとりが始まり、一通りのことを説明する。

「あ、覚えてる」
「ほんとに?」
「実は私にも妙な記憶があるんだけど」
「なに?」
「その女の子しゃべらない子だった気がする」
「どういうこと?」
「なんかすごくおとなしくて表情だけで返事するような感じだったと思う」
「確かにそんな感じだったかも」
「はっきり覚えてないけど、自然と空き地に来なくなったよね」
「そうそう」
「もともと、たまにしか顔を見せない子だったから、当時はそんなに気にしてなかったけどね」
「いつも赤いワンピースだったよね」
「うん。でも、当時、彼女が何歳なのか、どこに住んでいるのかも、知らなかった気がする」
「そうだね」
「子供って相手のことを全く知らなくても一緒に遊んだりできるから」
「そうそう!」
「大人になってから思い出してみたら、おかしなことってあるよね」
「そうなんだよ」
「ごめん、そろそろ戻らなきゃ。お役に立てたかしら? 」
「うん、ありがと。姉ちゃんも覚えてたからなんかホッとした。ずっと心のどこかでひっかかってた」
「じゃまたね」

 姉とのチャットを終えた後、僕はすぐに部屋のエアコンの電源を落とした。というのも、姉のある一言に、忘れていた微かな記憶がはっきり呼び戻され、全身が凍りついたからだ。

 心の奥底に眠っていた記憶のかけら。それは、おとなしくて無口だったあの赤いワンピースの女の子が、ただ一度だけしゃべった言葉。そしておそらく僕だけが聞いた言葉。

「わたし、ヒロシ君好き」


 幼少期の記憶はどこまでも頼りなくて断片的だ。でもその「かけら」は、正体不明のシミのように、僕の記憶の中にずっと残り続けるのだろう。

(了)

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