たづこ

pixivより文章を移しました

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マガジン

  • Let it be…ですか?

    長い間pixivに上げていた文章なのですが予想外の趣味趣向のページからアクセスが多数になったので場所を移しました 糖尿病から透析に移行した父と神経難病に罹患した母の闘病を傍からぼんやりと眺めていた話で医療介護問題を鋭く抉ったり一生懸命生きるって素晴らしいってなったりしません フィクションでもありません 大体平成11年位が始まりの話です 昔の話なので現在とは医療や介護の事情も多少は違うかと思いますがあくまで当時の体験です また普通であればこんな状況の場合は最初にするべきことは…のような突っ込みどころもあるかとは思いますが私や家族のした全ての行動を書いたわけではありません あえて書かなかったことや未だに書く気が起きないことも多々ありますのでそこらはご了承ください 補完的な話は 四方山話…ですか?  https://note.com/taduko/m/m5111c04be070 です

  • 四方山話…ですか?

    Let it be…ですか? https://note.com/taduko/m/m7f3381408b7b の補完的な話です

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Let it be…ですか?

はじめに 10時過ぎの電話 笑う馬 三つ目 お誕生と入院と 一つの終わり 山あいのホームにて また一度の涙雨とLet it be

    • 猫や猫や

      (猫が好きな人にとって大変不快になる話や今的な飼い方ではない話も含まれますが事実を述べた文章ですのでご了承ください)    私が就職して日も浅かったある日、突然猫が飼いたくなった。  それまでは犬派で実際犬を飼ったりしてた時期もあったんだけどその頃は犬が死んでから既に何年かが過ぎていた。  私はいきなり本屋に寄って猫雑誌の購読を始めた。カラー印刷も豪華な猫カタログ的な本まで買った。それで猫の漫画を読み始めたりするともういけない。猫の写真を見ると心拍数がどかんと上がる薄気味悪い

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      • sweet revenge(母の)

         毒親というものについての言葉が本やネットで現在進行形や過去形で娘(だった)という立場の人から発せられてるみたいだけどそれに倣うと私の母は私が小さい頃は自分の叶えられなかった夢を娘に託すタイプ、私が長じて何のとりえもない平々凡々な娘だと判明すると娘を自分の悪感情のゴミ捨て場にするタイプになった。  どうやら母は私を堅い高給取りの職につけてつまんない夫は捨てて母と娘と二人同居、あとは孫の面倒でも見ながら楽隠居という青写真を描いていたふしがある。(そんなのは実現しなかったんだけど

        • わかんないとわかんないとわかる

           私と友達はファミレスでテーブルのあっちとこっちにいた。  最初から最後まで話す内容は暗い雲に取り巻かれたようにどんよりしていた。  友達が話すのは大学時代から続いている彼氏がどうにもこうにも煮え切らなくて、でも別れ話にはならなくて、どっちつかずのまま長いこと続いてて…という話だ。  対して私が話すのは兄が家出するわ父の容態が思わしくないわ母がよくわかんない病気だと診断されるわ…という話。  片や恋愛、片や看護とか介護とかその周辺。恐ろしいほどのずれがあるけど嫌な顔もしないで

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        Let it be…ですか?

        マガジン

        • Let it be…ですか?
          8本
        • 四方山話…ですか?
          7本

        記事

          ザッツエンターテイメント

           父が亡くなって母のこれからをどうしましょうとケアマネさんとあれこれ話しているとケアマネさんは言った。  「特養ってのは入居してるのが80歳とか90歳位の人ですし所内ですることもきらきら星を歌ってみましょうかーとかそんなのなんですよ。入居までの待機時間も長いですし。たづこさんのお母さんにはきつい場所じゃないですかね」  そりゃーきつそうだ。認知症があって意識の一部が彼岸のあたりをさ迷いだすようになったらそんなのでもいいかもしれないけど母には認知症はなかった。それで母は「元」な

          ザッツエンターテイメント

          夢の後始末

           私の両親はその当時基準でかなりの晩婚だった。結婚年齢も母の出産年齢も2010年代の平均に近い。そんななのですんごいジェネレーションギャップというのが私と両親の間には存在した。このギャップは例えば両親より10歳も年下の人とだったら多少は軽かっただろう。何せ両親の生まれは戦時中だから戦争が終わって薄明るくなりかけた世界に生まれた人とは決定的に何かが違う。その「何か」というのをはっきり書くことはできないけど生活全般に対する感覚的なものだ。そういう違いを私は子供時代によその子供のお

          夢の後始末

          黒い孔

           とある人に母が気管切開をして…という話をするとこんな風に返された。  「え、それじゃもう喋れないの?」  いえいえちゃんと喋れます。  そんな話。

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          黒い孔

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          四方山話…ですか?

          黒い孔 夢の後始末 ザッツエンターテイメント わかんないとわかんないとわかる sweet revenge(母の) 猫や猫や

          四方山話…ですか?

          また一度の涙雨とLet it be

           母がホームに移ってからの日々は殆どが穏やかに過ぎた。父の糖尿病は悪い方向へのブレイクスルーが頻繁に起こるしとても派手で私も母も色々振り回されていた。例えば私が会社にいると胸水が溜まっちゃってもう透析しないと駄目だから付き添い頼むと電話がかかってくるとか、私の結婚お披露目の宴席の直前に入院してしまうとか、正月に里帰りするとその日に倒れて病院に担ぎ込まれるとか。  母のは別に病状が安定しているというわけではなくて地盤沈下や花瓶の中の水が蒸発してゆくのははっきりと目に見えないけれ

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          また一度の涙雨とLet it be

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          山あいのホームにて

           ホームの入居に際して、母の持病の神経難病とそれに気管切開に伴う耳鼻咽喉科の診断書が必要だと言われたので私は母と一緒に病院に行った。母の言葉がもう大分不自由で神経内科の医師との会話もかなり通じてないので横にいた私は口を挟んだ。  父が亡くなりましたので母の一人暮らしは無理ですので老人ホームに入居しますついてはホームと提携してる病院に通うかもしれませんがそこには神経内科がありません。この病院に通い続けることもできますけどどちらがよろしいでしょうか。それと診断書もいただければ。

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          山あいのホームにて

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          はじめに

          長い間pixivに上げていた文章なのですが予想外の趣味趣向のページからアクセスが多数になったので場所を移しました 糖尿病から透析に移行した父と神経難病に罹患した母の闘病を傍からぼんやりと眺めていた話で医療介護問題を鋭く抉ったり一生懸命生きるって素晴らしいってなったりしません フィクションでもありません 大体平成11年位が始まりの話です 昔の話なので現在とは医療や介護の事情も多少は違うかと思いますがあくまで当時の体験です また普通であればこんな状況の場合はまず最初にする

          はじめに

          お誕生と入院と

           伯母に母が入院している病院へ送って貰う道すがら、伯母はこんなことを言っていた。  「あの子(母のこと)はねえ、昔から勘の強い子で。たづこのおうちが新しくなった時も“この家に何年住めるかしら”なんて言ってたの」  「でね私に言うのよ、”駄目だよお姉ちゃん、たづこに子供ができてもこっちじゃもう面倒見られないよ”なんてね。私は”そんなのその時になってから考えればいいんだよ”って言ったけど先のことばっかり心配してる子で」  別に伯母の言葉が突き刺さったわけではないし私は私でこん

          お誕生と入院と

          三つ目

           私はとある年のとある月、結婚してとある政令指定都市の端の方に落ち着いた。  実家とは気軽な距離ではなくなってしまったけど父のことについては制度が始まって間もなかった介護保険の利用に委ねることにして、「何かあったらいつでも呼んでね」と言い残して家を後にした。  新しい土地は私にとってそれまで全然馴染みのない場所だったけど田舎の狭い人間関係の中で緊張しながら過ごしてた私には私のことを知ってる人間が誰もいないところというのはとても快適だった。  私は引っ越した先でパートを探して働

          笑う馬

           「俺知ってる範囲の奴にも声掛けてみるからさ」  と、兄の友達は言ってくれたけどそれ以上は何もなく、結局病院の医師の話を聞く日になった。  その日は普通に家を出てから会社に風邪を引いたので医者にかかってから行きますと連絡をして半日の休みを取り、伯母と叔父と待ち合わせて病院へ赴いた。  出迎えた医師はとても淡々と説明してくれた。  国が指定する神経系難病のうちの二つ、そのどちらかに母が罹っている可能性がとても高いこと。  非常に難しい病気だということ。  将来的に車椅子が要る生

          10時過ぎの電話

           夜中の電話は嫌いだったし今も嫌いだ。  その当時は確かまだ携帯とPHSとポケベルが混在してるようなご時勢だったけどそれでも一般回線の電話の方が利用頻度が圧倒的に高かった。女の子が家族の視線を気にしつつ彼氏と夜中に電話してるなんてのもよく聞く話だったけど私には夜中に電話をかけてくるような友人はいなかったし自分からもしなかった。たまーに私宛に電話がかかってくると思ったらそれは昔の同級生を騙る変なセールス電話だったりするのでまあそういう風に夜中の電話にいい印象は持ってなかったと思

          10時過ぎの電話

          一つの終わり

           読経の最中、娘が泣く度夫は娘を外へ連れ出した。  私はずっと車椅子にかけた母の脇にいて、母が足がしんどいとか辛いとか言う度に車椅子の足置きを上げたり下げたりしていた。(車椅子は葬儀場に貸してもらったもので母の体格に合わせたものではなかったので、足置きにずっと足を載せていると足が辛くなるのだ)  お坊さんの説話が始まる。  「南無阿弥陀仏の南無というのはサンスクリット語で私は帰依いたしますという意味でございまして…」  お坊さんは一年中信徒相手にお話をしている人なので話上手と

          一つの終わり