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三つ目

 私はとある年のとある月、結婚してとある政令指定都市の端の方に落ち着いた。
 実家とは気軽な距離ではなくなってしまったけど父のことについては制度が始まって間もなかった介護保険の利用に委ねることにして、「何かあったらいつでも呼んでね」と言い残して家を後にした。
 新しい土地は私にとってそれまで全然馴染みのない場所だったけど田舎の狭い人間関係の中で緊張しながら過ごしてた私には私のことを知ってる人間が誰もいないところというのはとても快適だった。
 私は引っ越した先でパートを探して働いたり実家で勤めてたときは時間にゆとりがなくてなかなか行けなかったフィットネスを再開したりしてお気楽な新妻生活を送っていた。
 が、そういうお気楽な生活は長く続かないのが世の常だ。
 かかってくる電話は相変わらず嫌いだった。
 大体セールス電話は主婦が在宅してるお昼とか夕飯の支度をする位の時間を狙ってかけてくる。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるの精神でどこかから入手した電話番号リストの先頭から総当りでかけるのか大概電話が繋がったその瞬間に自分が誰だか名乗らないしこちらが誰なのかも確認しない。コールセンターのパートで働いていた私はそういうぞんざいなセールス電話が嫌いというより大嫌いになった。ナンバーディスプレイを導入しようかとか私の夫となった人と話すこともしばしばになったある日、やっぱり電話が鳴った。
 母が膀胱ガンを発症したとかいう。
 えらやっちゃと飛んで帰った。ガンはポリープみたいなごく小さいものだったとかで手術も簡単に済み、父と伯母の付き添いだけでよかったという話で私が到着したのは術後だった。けれど術後の経過観察診察なんかの付き添いをしていると目に付いたのは母の奇妙な挙動だった。
 その時母が例の病院の神経内科とどういう関わり方をしてたのかはわからないけど一応一件落着という形になった以上、いちいち母の体調不良の内容についてしつこく食い下がって聞くのも変な話なので実家に帰った折にはその手の話題は出さないようにしていた。
 でも何かが変だった。
 例えば迎えに来た車に乗ろうとして車のドアノブに手を伸ばしたとする。徐行のスピードで動いてた車が急にアクセルを踏み込み逃げられちゃいました。手が宙を掴みます。
 こういうシチュエーションでの手が宙を掴むときの動きを想像してもらえるとわかりやすいかもしれない。視覚で把握している対象の動きと実際の手の動きがかみ合わない同期しないとでも言えばいいのか。母の動作にそんな動作が度々混ざる。
 「なんだか逃げられちゃうのよね」
 と母はぼやいていた。最近つまづきやすいんだとも言った。
 嫌な予感がしながらも私は帰ることにした。何かあったら呼んでねと言い残して。
 しかしまた電話は鳴った。

 庭の物干し台にいつ干したのかわからない洗濯物のハンガーが放置されているのを見てから私は鍵を開けた。
 玄関先に野菜がしなびて積み重なっていた。(母の兄弟で畑いじりをしている人がいてその人が野菜をよく持ってきてくれるのだ)リビングを通過してキッチンに入るとカウンターにはいつ買ったのかわからないどこかのベーカリーの紙袋が置いてあって袋にはパンから油が染み出て大きな水玉模様を作っている。冷蔵庫の中の惨状はあんまりといえばあんまりだった。
 二階に上がると「新婚の新居にペットなんて連れてっちゃ駄目でしょ」と言われて置いていった猫が私のベッドの上にいて眠たそうに私のことを見た。…なんか痩せてない?
 家の中の荒涼とした雰囲気にめげていても仕方がないので私は片付けることにした。とりあえず冷蔵庫の中身からにしようとゴミ袋を探していると玄関のチャイムが鳴った。
 実家周辺の一帯ははほぼ同時期に家を建ててそのおうちの子供もほとんど同時期に同じ小学校と中学校に行って皆が皆顔見知りだった。都市部の新興住宅街みたいな頻繁な人の入れ替わりもなくずっと固定のメンバーで馴染みではあるけどその反面ご近所の内情を何から何まで把握してしまうされてしまううっとおしさもある。
 チャイムを鳴らしたのはご近所の奥様連だった。
 私は軽く頭を下げた。ご迷惑をおかけして申し訳ないですええ連絡貰ったので来ました父は多分病院か透析に出かけてると思います私はこの状態で運転して来るのは怖いので電車で来ました週末には旦那に車を持ってきてもらいます。
 一通りの話を済ますと奥様連はお大事にねと定型のご挨拶を残して帰っていった。
 奥様連の中の私の母と一番つきあいが深い人(兄の件で兄のことを尋ねた友達のお母様でもある)はこんなことを言った。
 「たづこさんは若いうちから家族的なことで苦労しすぎよね」
 全くもってその通りだと思います。
 父からの電話の内容はこんなだった。
 母が病院の神経内科で処方された薬を飲んだところ、何万分の一かの確立の副作用で声帯が麻痺した。声帯というのは気管内にあって常時開閉して呼吸を確保するもので麻痺して閉じたままの状態になると呼吸が困難になる。耳鼻咽喉科の医師からは気管切開を勧められて緊急の手術となり、勿論短期の入院で自宅に帰れる状態でなく、つまりお手上げとなっちゃったので実家に帰ってきてくれという父のSOSだった。
 帰宅した父と私は二人で夕飯を囲み、その席で父に尋ねた。
 家の中の荒れっぷりは一日二日のことには思えなかった。奥様連の話も昨日今日のことを言っているのではないように感じた。入院から私への連絡まで間が空きすぎじゃないか。
 父は言った。
 「そりゃたづこをわざわざ呼ぶのもかわいそうだと思ったからさあ」
 家族扱いされず本当に大変な時に呼ばれず蚊帳の外で他人の話を聞いて事情を知ることの方が余程かわいそうだ。それに結局後始末は私じゃないか。
 と詰問するのは目の前の父のヨイヨイな様を見て止めた。
 その当時既に父は腹膜透析から通常の血液透析に移行していた。腹膜透析は自宅で自分で行う分細かい管理が求められるけど(ルーズな父の性格故)トラブルが頻発するのでもう止めた方がいいんじゃないのと医師から通告されたのだ。自前の臓器の機能を人工的な処置に完璧に代行させるのは難しいのか父のふくらはぎはぱんぱんに浮腫んでいた。体に湿疹の類ができやすいようでしょっちゅうシャツの襟元から手を突っ込んでは引っ掻いている。それに土気色の顔というのはまさしくこういうのを言うんだろうなという見本みたいな顔色。実家に帰った時夜中にリビングに行くと何をするでなく俯いて椅子にかけていてぎょっとすることもしばしばだった。
 言いたいことは一旦収めておいて翌日はどうやら疲れたらしい父を置いて車を出してくれた伯母と病院に赴いた。
 ベッドに横たわる母は大分具合もよさそうに見えた。母の首に巻いてあるのはガーゼと見慣れない器具だった。それがカニューレという名前なのは後々実践込みで教えてもらうことになるけど母は姉妹の気安さで伯母と話しっぱなしだった。私置いてけぼり。
 それでも聞いた話は父から聞いた話と殆ど同じだった。薬の副作用と声帯の麻痺と気管切開。
 帰り際に私は伯母に私の携帯番号のメモを手渡した。
 「すいませんこれから何かあったら連絡いただけないでしょうか」
 特に私が嫁いで以降、母の入院や何やで色々お世話になるのはとてもありがたいことだ。でも今回みたいに短くない時間何も知らされずに放っておかれて「つなぎ」の時間を親類におんぶにだっこなのはあちこち謝る人が増えてしまうし私だって面白くない。それに母の話からするとどうやら今回私への連絡が遅かったのは父の意思の方が大きいらしい。そうなると申し訳ないけど頼みの綱は伯母だ。
 それからしばらくの間私は病院に通い、母が退院して少し調子もいいかな位の時に普段受診しているのとは違う病院に赴いた。
 今回の薬の副作用と前回の誤診のことと、受診している病院の神経内科の医師に不信感が拭えなかったので他の医師の判断はどうなのよとセカンドオピニオンを聞いてみたかったのだ。
 初対面のその医師は私の拙い説明を聞くと母にごく簡単な検査をして言った。本当は病名というのはあれこれ精密な検査の末に下されるものだとは思うけど母の動作や現在かかっていると申告した病院の名前でおおよその判断をしたのかもしれない。
 「お母様はこういう病気だと思います」
 「気管切開をされたのはいい判断でした。こういう病気だとある日突然…ということもあるんです。そういう時に切開をしてあると処置が楽になりますので」
 「あまり気を落とさないでください」
 これで今まで医師が示した病名は三つ目だ。一体何が正しいんだろう。
 そしてまた私は帰る。薄情と言われるかもしれないけど介護保険で来てくれるヘルパーさんと両親とであやういながら両親の生活が回っている以上、私が手出しできることはそうそうなかった。
 ただ私は今度は両親にこう言い残した。
 「あのね、もう駄目だ限界だ、ってなってから私を呼ばないでね?私のところまだ子供もいないんだし何かあったらすぐに呼んで貰って大丈夫だから遠慮なく呼んで」
 どうやら両親が持て余しているらしい猫を連れて私は夫のいる家に帰った。二人と一匹でまたお気楽な生活が始まったけどそれは遠くの方にある爆弾がいつ爆発するのかなと胸騒がせながらするお気楽だった。



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