笑う馬
「俺知ってる範囲の奴にも声掛けてみるからさ」
と、兄の友達は言ってくれたけどそれ以上は何もなく、結局病院の医師の話を聞く日になった。
その日は普通に家を出てから会社に風邪を引いたので医者にかかってから行きますと連絡をして半日の休みを取り、伯母と叔父と待ち合わせて病院へ赴いた。
出迎えた医師はとても淡々と説明してくれた。
国が指定する神経系難病のうちの二つ、そのどちらかに母が罹っている可能性がとても高いこと。
非常に難しい病気だということ。
将来的に車椅子が要る生活になるかもしれないということ。
この病院は総合病院で、父も母も受診していた為受診課同士の連携があり、芳しくない父の病状を把握していたためまず伯母に、それから私にという連絡になったこと。
その当時でもインフォームドコンセントという言葉は存在してた筈だけど医師の説明はとてもぼやけていたと記憶している。
病気の経過がどうなって、どういう治療が必要で、最終的にどうなって、とかそこら辺の細かい説明はあまり聞くことは出来なかった。
ともあれ病院を出ると叔父は
「これから皆で色々考えんとなあ」
と言い、伯母は
「あんまり気を落とさないでね」
と言った。
つまり「あんたも大変だろうけど私らができることはないですから」ということだ。まあそうだ。母は七人兄弟の二番手という兄弟の多い人だけどそれぞれ皆自分の生活とか色々抱えているわけだから子供でもでない私が過剰によりかかったりできるわけがない。
午後から会社に行って帰ってきた私は医者から聞いた病名をネットで調べてみようと思いついた。
大変有り難かったことに国指定の難病というのはちゃんと公式に情報を掲載してるページがあってその病気の情報は芋づる式に出てきた。
つまり効果的な治療法というのはなく、徐々に体の自由がきかなくなり、歩行や発語が困難になり、大体発病から十年前後で寝たきりになって亡くなると、そうあった。病気の家族の人を抱えてる人によるコミュニティ的な掲示板もいくつか見つかった。
…私は頭を抱えた。
勤め人だから今のところ私の担当じゃないけど、父の度々の通院や何やに加えて母もそういう介助が必要な生活になるということは私は仕事を続けられるんだろうか。そういう心配の前にそもそも自分がクビにならないかどうかもあやしい。
父が退職して得た退職金+αで昭和の名残みたいな古くて狭い家は新築のきれいな家に化けていた。ので両親の資金は現在すっからかんの筈だけどどうやって介護費用とか捻出するんだろう。
だだっ広くて綺麗な自分の部屋が急に薄ら寒く感じられた。
さて家族のことやデリケートな悩み事なんかは他人に相談するものじゃないとは言うけれど他の人がこういう時にどうやって誰に悩みをぶっちゃけるのか私は知らない。
父は駄目、兄はいない、親戚もアウトの私はその当時おつきあいしてる人がいたのでその人に話を持ち込んだ。
話は脱線するけど私の母は学歴は高卒ながら頭もよく回転するし男性以上に器用でなんでもできる人だった。そんな風だから性格的にかなりだらしがなく何もできないしやらないという父とそりが合わずに私が育った家庭はぎすぎすした雰囲気だったけど、とにかく母の口癖は
「女は結婚するとバカを見る」
だった。
母の育った年代的に珍しい言動じゃないかと思うけど私は母に
「結婚なんかするな」
と繰り返し一種の呪いか何かみたいに言い含められて大きくなった。
が、母親は男の子供に弱いのか馬鹿でも長男というあの話は正しいのか兄に比べればずけずけ物を言う女の子供はかわいくないのか、母のひいきは何かと兄に偏った。結局兄は出て行ってしまったけどその頃から急に
「この家を継ぐのはあんただからね」
という無言の圧力をかけられていたような気がする。
そんな訳で私はおつきあいしてる男性がいるんだよと両親に言う気分にもならなかった。やましいことはないけど日陰でひたすらこそこそしているおつきあいだった。
他に相談相手も思いつかない私はおつきあいしていた人にメールでこんなでこんなでどうしよう、と相談すると急遽土曜日に会うことになった。
その人は一日つきあってくれてあーだこうだと私の愚痴を聞いてくれた。何も結論なんか出なかったけどその時彼の車のカーステでかけていたのは Let it be だった。ただしビートルズのオリジナルじゃなくて上々颱風によるとても陽気なアレンジ版だ。
「ほら、馬が笑うかもしれないし」
と、歌をBGMに彼は言った。
「馬が笑うって何だっけ?」
「どっか外国の民話で男が王様に無理難題ふっかけられて受けるんだよ。これを解決できなきゃ打ち首だって。他の奴が男になんであんな話受けたんだって聞いたら男が馬が笑うかもしれないしって言うの」
つまりありえないことが起こるかもしれませんからという話だけどその場でその話はどうなんだろう。
それから私は重っ苦しい気分で毎日を過ごした。
予測される将来の形はあってもその時点で母は普通に話してたし歩いてたしいつか来るかもしれない何かを頭の隅っこに置きながら日常生活を送るというのは案外大変で、毎日の食事の席で両親の顔を見るのは心が苦しかった。
ある時帰宅するとその日は母も帰ってくるのが遅かったらしく、母はスーパーの袋の中からお寿司のパックを取り出した。
「遅くなったから作ってられなくてね、買って来ちゃったの」
と母は言った。
「何か用事?」
「うん難しい病気かもしれないから大学病院に行って検査してくれって言われてねー」
務めて冷静を装いながら私は尋ねた。
「ふーん、で、何だって?」
「水分不足で脳の血管が詰まり気味だって。やだよねーびっくりしちゃう」
私はひそかに脱力した。
脱力しながら食事を終えて脱力しながらテレビを見ていると伯母から電話があった。
「誤診だって、よかったね」
その後数ヶ月の間におつきあいをしていた人は私の家にやってきて両親に挨拶を済ませて今期一杯で私も仕事を辞めて結婚する話の運びになった。
仕事を辞めて朝がのんびりできるようになったある日私がリビングで新聞を広げていると後ろに立った母が私の後頭部を見咎めた。
「お前、白髪がやけに多いんじゃない?」
母は遠慮無しに私の白髪を引っこ抜いた。その数合計二三十本はあった。
「やっだーうちってお父さんもお母さんも若白髪の家系じゃないのになんでこんなに白髪が多いの」
「…苦労したんだよ」
ここで終わってたら笑い話だけど実は終わってないしきれいに片付いてたらこんな文章打ったりしない。とにかくその時は馬が口元歪める位はしたのかもしれない。
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