玉音放送

失敗から学ばない者は、必ず同じ過ちを繰り返す ー 伊丹万作「戦争責任者の問題」


ここにひとつの寄稿がある。題名は「戦争責任者の問題」
書いたのは伊丹万作氏。
「マルサの女」「あげまん」「タンポポ」などを監督した伊丹十三氏の実父である。

         伊丹万作氏 Yahoo画像より転載

伊丹万作氏は戦前を中心に活躍していた映画監督で、その伊丹万作氏が終戦直後の昭和21年に映画雑誌「映画春秋」に寄稿したのが、この「戦争責任者の問題」という題する論評である。

ほとんどの都市が焼け野が原となり、広島、長崎に原爆を投下され無条件降伏した日本。内外において多大な犠牲者を出した。

戦後、日本人の多くが「自分は国の犠牲者であると」と叫び、戦争責任者の糾弾する人々が現れだした。

伊丹氏が所属していた自由映画人連盟も同様であり、伊丹氏のように映画制作に関わっていた文化人の間で戦争責任を追及するムーブメントが起こり、その主唱者のなかに伊丹氏の名前も連なっていた。

伊丹氏は積極的にムーブメントにかかわっていたのではなく、名前を勝手に使われたというのが事実であった。
そのことに関して、自身の所感を述べたのがこの「戦争責任者の問題」である。

伊丹氏は、「自分は戦争の犠牲者であり、悪いのはすべて政治家と軍部である」と主張する日本国民に対して、その政治家と軍部を支持し、やりたい放題に跋扈(ばっこ)させたのは、まさしく日本国民自身ではないかと痛烈に批判している。

さらに戦前、戦中を通じて政府の片棒を担いでいたのが、近所に住む隣組組長であり、町会長であり、小商人、百姓、郵便局員、学校の先生といった市民であることを指摘している。
以下、一部引用。 

 さて、多くの人が、今度の戦争にだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。
 たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうに行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというに決まっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだまされるわけでもないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然(かくぜん)と分かれていたわけではなく、いま、一人の人間が誰かにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別の誰かを捕まえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さ、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。


そして伊丹氏は「だまされる」ことの根源的な原理として、だまされる人間の主体的姿勢や思考に欠陥がなければ、だまされるといった状態に陥ることはないと喝破している。
以下、一部引用。

だまされたということは、不正者におる被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来からいかなる辞書にも書いていないのである。だまされたといえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされれるもの必ずしも正しくないことを指摘するにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。(中略)つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。
(中略)
いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったとしたら今度のような戦争は成りたたないに違いないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかないのである。
そしてだまされるものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことはまた、同時にあのような専横と圧政を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

そして万作氏は、自己反省の上に立たず、自らを被害者と正当化しようとする国民は、かならずまただまされるであろうと警鐘を鳴らす。そうならないためには、だまされた自分をちゃんと直視し、なぜだまされたのかを分析するとともに、二度とそうならないよう自己改造を行う必要性を説く。
以下、一部引用。

我々は、はからずも、いま政治的には一応は解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跋扈を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われることはないだろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易極まる態度を見るとき、わたしは日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後は何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。


「戦争責任者の問題」をはじめて読んだ時に感じたのは、戦前、戦中の日本人といまの日本人は、本質的にはまったく変わっていないという実感である。

どこの国、どこの民族も、成功があれば失敗もある。
失敗は確かに目を向けるのが辛いことではあるが、しかし多くの事例が示すとおり、成功よりもむしろ失敗のほうが人間を向上させる。

しかしそれには条件がある。

その条件とは失敗を反省し、なぜ失敗したのか、何が原因だったのかを徹底的に検証してそこから学び、そして二度と失敗を繰り返さないよう真摯に取り組むことが必要不可欠であるということ。

では日本はそれができているのかと言えば、はなはだ心もとない。

臭いものには蓋をするがごとく、失敗から目を背けあたかもなかったことのように振舞えば、その民族は必ずまた同じ過ちを繰り返す。
果たして日本は先の敗戦から何を学んだのであろうか。

「戦争責任者の問題」は青空文庫より引用。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

※ 表題の写真はYahoo画像より転載させていただきました。


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