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『赤土と太陽』第三章

ネットラヂオ旅の鳴る木

◆第三章目次
 
「迷走と困惑」
「赤いピックアップトラック」
「ダーラムの変人達」
「シャーロットの変人達」
「まだその願いは叶わない」
「この国の一員になりたい」
「タイムゾーンの旅」
「アメリカ人と音楽」
「テクノロジーを持たぬ無力な日本人」
「諦めるか?やり遂げるか?」
「とうもろこしと精神のバランス」
「雨モ降リ風モ吹ク」



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【迷走と困惑】
 
小学校4年生の時、世界には耳の長い民族がいる事を知りそれ以来あるクラスメイトの耳を毎朝引っぱり続けた。毎日やれば伸びると信じていたのだ。6年生の時、友達と2人で学校を抜け出して心配した担任の先生を泣かせてしまった。中学生の時、兄が500円玉貯金をしていた貯金箱から毎日500円玉を抜き取り貯金していた。高校生の時、黒板に先生が消し残した3cmくらいの線が気になって先生を怒った。
 
幼少期から青年期の私は人の気持ちが分からない人間だった。善悪の区別も曖昧でそれよりも好奇心を優先して生きていた。そんな風に大人になった私は人よりも成長が遅いように感じ始めるのだ。みんな若い内に色んな苦しみを味わいその度に強くなり人に優しくなっていったのではないだろうか。私にはその経験が極端に欠けていたが大人になってからたくさん傷付きやっと成長し始めたようで、人に対する思いやりというものを見つめ直す時間が増えアメリカ自転車旅でもたくさん自分と語らっていた。一体自分はどんな人間になりたいのか。
 
 
2013年8月4日
 
私はニュージャージー州のトレントンという街にいた。アメリカの気候、交通状況、生活道具を全て入れた重いリュックに慣れていなかったため、肩こりと腰痛、そこから生じる頭痛に悩んでいた。出発前にその日泊まる宿を決めそこまでの道のりをグーグルマップ(以降GM)で検索しスクリーンショットしておく。道が分からなくなればそれを見て走ろうと思っていたが都市部の道は複雑でかなりの頻度でiPadを取り出しては凝視していた。

紙の地図を見ても実際に自転車が通っていい道かの判断がつかないのでGMの自転車検索を信じて走っていたが何だか変な道が多かった。例えば未舗装のトレイルを何キロも走らせたり大学の構内や墓地の中を案内する事さえあった。平気で墓地の真ん中を駆け抜けるように指示するGMの倫理観に疑問は感じていたがかと言って他の選択肢もなかった。
 
トレントンからフィラデルフィアに向っている最中私は迷子になった。South13という道に辿り着かず一体何人に道を尋ねただろうか。アメリカの人はみんな親切だが道を知らない人も多くニューヨークを出発してからここまでの道のりにはストレスしかなかった。何とか自分の居場所をつかみGMのルートに復帰すると今度は道幅1m程度の林道を案内し始めたのでいよいよGMを疑い始め、近くの車の修理工場でフィラデルフィアまでの道のりについて尋ねてみる事にした。

トルコ人の工員が2人いてありがたい事に仕事の手を止めて私が進もうとしている道のりを全てチェックしてくれた。そしてはっきりとそのルートを否定した。『5,6kmのサイクリングを楽しむのならこのルートでもいいがこれは"自転車なら通れるルート"だ。フィラデルフィアまで行きたいのであればこの道をまっすぐ南下すればいい。』と修理工場の目の前を通る道を指差した。
 
私は彼らを信じる事にした。車の仕事に従事している彼らが言うのだから間違いはないし彼らが薦めるルートの方が簡単だから信じたかったのもある。しばらくその場で休憩させてもらうと一人が事務所からよく冷えた水を持って来てくれた。彼らとは色々話したが『どこまで行くつもりなんだ?』という質問には答えを躊躇した。ニューヨークからフィラデルフィアまでの道のりにも四苦八苦している私は恥ずかしくてロサンゼルスまでだと言えず『とりあえずアトランタまで行ってみたいと思っている。』と返すしかなかった。

別れ際一人がメールアドレスの書かれた紙切れを手渡し『アトランタまで着いたらメールをくれ。』とにこやかに言った。まだ走り始めたばかりだが彼らの親切が心に沁みる。私は彼らの言う通り目の前の道をひたすら南下してみたがその道は間違いなくフィラデルフィアの中心地まで続いていた。
 
フィラデルフィアは過去に来た事があり土地勘があった。たった数日の走行だが日差しが強く真っ黒になってしまいこのまま対策もなく走り続けるのはまずいのでCVSで日焼け止めを購入した。フィラデルフィアで翌日のルートを調べるとエルクトンという街がちょうど良い距離にある。GMの自転車検索が最適の道を案内していない事は分かったがかといって自動車検索で出た道を走るのも恐かった。自動車専用道だった時に取り返しがつかないからだ。疑いを持ちつつもしばらくはGMの自転車検索に従いつつ昨日のように現地の人のアドバイスを参考にする事にしよう。
 
翌日は順調な滑り出しだったがGMのルートは相変わらずで何かと言うと私を林道へ誘う。結果、野生の鹿を初めて見る事ができたがやはり迷子にはなった。人に道を尋ねるしかなかったがこれまでの経験で地理に疎いのに自信を持って案内するタイプの人も多い事は分かっていたので、できる限り運送業など道に詳しそうな人に尋ねるようにしこの日も何とかエルクトンのモーテルまで辿り着いた。

それまでやたらと高いホテルしかなかったがこのモーテルは税込み40ドルと値段は悪くない。しかし大きなインターチェンジのすぐ隣に位置し食事の選択肢はマクドナルドとケンタッキーだけだった。1リットルくらいありそうなバドワイザーを飲みながら20Pのナゲットを次々に口に放り込んでいた時、何気なく室内に置かれている自分の自転車に目をやるとリラックスムードも吹っ飛ぶ大変な問題に気が付いた!

まだ数百キロしか走っていないのにタイヤの表面が5cm程めくれ上がっているのだ!
 
私がニューヨークに行く度に世話になっていた健迅はこの頃シカゴに移住していた。普通自転車のタイヤは2000~3000kmくらいはもつと聞いていたので私は健迅の住むシカゴに日本からスペアのタイヤを送っておいた。つまりチューブの予備はあれどスペアタイヤは携行していないのだ。普通に走っていたらそんな事は起こらなかったのだろうがGMが案内する悪路をオンロード用のタイヤで走っていたのがまずかった。これは大問題だ。まだ走れるがいつ何が起こるか分からない状態。
 
私はエルクトンからボルティモアまでの107kmを丁寧に走った。とにかくタイヤに負担がないように。ボルティモアに到着すると街中の自転車屋を調べ20インチのスキニータイヤを必死で探したがどの自転車屋にもidiom1用のタイヤはなく絶望的な気分になった。
 
このトラブルが起こって初めて分かった事だが私の自転車のタイヤは非常に珍しくどこの自転車屋にも必ずあるような代物ではない。普通のロードバイクで旅をしていれば簡単に代わりのタイヤは見付かったのだがアメリカでは非常に珍しい自転車を選んだためそのタイヤは取り寄せるしかなかったのだ。無知が生んだトラブルとしか言い様がないが自分がこの自転車を選んだのだから今更嘆いても仕方がない。

私はシカゴの健迅に連絡しワシントンDCのホテルにタイヤを送ってくれるよう頼んだ。ただDCまでは72kmある。その間にタイヤの寿命がくればそれで終わりだ。あとは自転車を担いで歩くしかない。そしてどんなに急いで送ってくれたとしてもシカゴからDCまで1日で届く事はないだろうからタイヤが届くまではDCに滞在し続けるしかない。先を急ぐというのに何という事だ。
 
ボルティモアからDCまでの道のりは緊張感があり"タイヤよ、もってくれ!"とそれだけを願って走っていたが想いが通じたのかありがたい事にタイヤは持ち堪えてくれた。意図せずDCでの休息日を設ける事になったのは最初は少しイライラしたが、まだ身体も出来上がっている感じがなかったのでちょうど良かったかも知れないと思うように努めた。

タイヤが届くまではどうしようもない訳で開き直った私はDC観光をする事にした。ホワイトハウスの前で核廃絶運動をしている市民団体に遭遇したが彼らのプラカードに「Hiroshima」や「Nagasaki」の文字を見て久しぶりに日付を意識した。今日は8月9日か。
 
夜は久しぶりにブルースアレイに行ってみる事にした。ジョージタウンにあるとても有名なジャズクラブでちょうどいい具合にニューオーリンズ出身のジャズトランペッター、テレンス・ブランチャードが出演していた。ステーキとビールを注文しジャズを楽しんでいるとアメリカ自転車旅を決意したニューヨークの55Barを思い出した。そうだ、こうやって旅をして行こうと思っていたんだっけな。DCで足止めを食らった事を不本意に感じていたが本来の楽しみを思い起こせばここは足を止めるべき街なのだ。
 
ニューヨークからDCまで約420km走ってきたがそれでも最初の目的地であるアトランタまではまだ1000km以上あった。8月10日午後、ついにシカゴからタイヤが届く。健迅夫婦のサポートに感謝しながら室内でタイヤの交換を始めた。予備のタイヤを2本共送ってくれたので1本はハンドルにかけて走る事にしよう。これで少々タイヤにトラブルがあっても安心という訳だ。

明日からの11~12日間で1100kmの道のりを走らないといけないので全ての衣類の洗濯をする事にしたが私はコインランドリーを一切使わないようにするのが節約ポイントだと考え風呂場で洗う事にした。足拭きマットに包んで踏みつけながらよく脱水すれば翌朝までには乾いている。
 
 
 
 
 
【赤いピックアップトラック】
 
8月11日6:00
 
私はポトマック川を渡りワシントンDCを後にしたが橋の上で見る朝陽は美しかった。ここから先の道のりに私が訪れた事がある街はない。東京は37℃にもなる酷暑で大変だと聞いているがこの時期のヴァージニア州はちょうどいい気温だ。私はフレデリクスバーグまでの126kmを走っていたが途中から大雨となった。ニューヨークを出発した日も小雨が降っていたがこの日はそんなものではなく安宿の頼りないシャワーよりシャンプーの泡を落とせそうな勢いで降りつけていた。90分程で雨は止みその後一転晴れ渡る。

雨の中では吸うに吸えなかったのでコンビニに立ち寄りタバコ休憩をする事にした。ヴァージニアスリムの1mgを吸っているがそう言えば自分はタバコ生産の中心地、ヴァージニア州にいるのだ。日本から持ってきたタバコも切れそうになっていたしリッチモンドに着いたらヴァージニアスリムを買う事にしよう。
 
この日はモーテル6に泊まった。安くていいがモーテルからはマクドナルドとケンタッキーしか見えなかった。つい数日前にも見た光景だ。140km程走ってきた後にナゲットを20個放り込むのは嫌なので15分以上歩きルビー・チューズデーというレストランを見付けて入った。毎日走っているので毎日肉を欲するのだがステーキとビールばかりでは健康的な生活とは言えない。このレストランはありがたい事にサラダバーが充実しており、この先もマクドナルドかケンタッキーの2択しかない日もあるだろうし未来の分まで摂取する勢いで大量の野菜を皿に盛った。

自転車に乗っている時は必死でまだ景色を楽しむ余裕はないがホテルまでの帰り道に美しい夕陽を見る事ができた。ただヴァージニアの大地に沈む太陽を見送ると早くホテルに帰って就寝準備をしなければならないと焦り始める。毎日4:00には起きていたから。
 
私は夕陽には馴染みがあるが朝陽を拝む機会は少ない人生を送っていた。多くの人がそうではないだろうか。しかしアメリカでは日照時間を大切に走っている。太陽が昇る2時間前には起き出発準備を進め日の出と共に走り始めるようにしていたのはとにかく日没後に走りたくなかったからだ。太陽に迎えられる人生を送っていた私だがアメリカでは毎朝太陽を迎えていた。今までは夕陽が美しいと思っていたが朝陽の方が美しい事を知ると早起きも一つの楽しみへと変わりつつある。
 
リッチモンド、サウスヒルと毎日100km以上走りノースカロライナ州に入った。この頃から3つの事に悩み始めていた。まずは暑さ。南下しているので次第に暑さが増してくる上、田舎なので建物もなく日陰の存在が珍しくなりつつあった。10本のペットボトルの水を飲んでも一度もトイレに行かないほど全てが汗として放出されていく。

次に放し飼いの犬が悩ましい。実はこれ以降テキサス周辺まで何千キロと悩み続ける自転車旅にとって大変大きな問題なのだがこの頃はまだこの地域だけの事かと軽く考えていた。そんな適当な飼い方をしているので動物の死骸も非常に多く自分が哺乳類であるせいか同じ哺乳類の死骸には特に心を痛める。

犬、猫、鹿、うさぎ、ねずみ、狸、いたち、リス、家畜の牛、鳥、亀、蛇... 等の死骸が多いのだがアメリカの人たちは死骸を一切片付けずその役割は自然が担うものだと考えているらしい。白骨化し粉々になって風に吹かれて消えてなくなるまでその場に放置するのだ。一日に20~30の死骸を見るのは嫌なものでみんなそれを"ロードピザ"と呼んで笑っていたが私にとっては大変なストレスだった。
 
南部の州に入ってから人に話し掛けられる事が多くなった。立ち止まって地図を確認していると必ずと言っていいほど誰かが大丈夫か聞いてくれ中にはトラックから顔を出して収穫したばかりの桃をプレゼントしてくれる人もいた。ノースカロライナの人は本当に優しい。それは嬉しかったが道のりは過酷さを増していった。

何十キロと商店や建物がないのは当たり前。その上道路工事が多く迂回を余儀なくされる機会が増えてきた。丁寧に迂回路は案内されているが走行距離はどんどん伸びていきダーラムに向っていたその日はついに150kmを超えてしまった。炎天下、小径車で走る150kmというのは本当に辛い。特に13:00~15:00の時間帯はほぼ日陰がなく地獄で、最後の水を飲み干してから2時間以上が経った頃私は自転車をこげない状態に陥ってしまった。完全に熱中症だ。
 
自転車旅に関しては忍耐力を培ってきたつもりでいたがアメリカは日本と全く事情が違う。「ある」と「ない」が非常にはっきりしており何もない地域はとことん何もないのがアメリカだ。荷物は最小限に抑えていたので最初は水の補給を1回1L程度にしていたが、無補給地帯もどんどん長くなり商店での物資補給量を誤ると大変な問題に繋がる。私はタオルをかぶって休憩していたがそれで体調が良くなるとは思えなかった。

引き続き水分は摂取できないしこのままではまずいと考えていたその時、赤いピックアップトラックが停まり白人のご婦人が心配そうに歩み寄ってきた。そしてトラックに乗るように薦めてくれた。しかし私は立場もわきまえずその申し出を断った。自分の脚だけでアメリカを走り切って何かを変えてやろうと思っているのにまだ1000kmも走っていない段階でご厚意に甘える自分は許せない。どうしても許せなかった。

まさか申し出を断られるとは思っていなかったご婦人だがこの状態の人間を放っておけないと思ったのだろう、私が頑なに車に乗ろうとしない理由を尋ねてきたので正直に全てを話した。すると笑いながらこんな提案をしてくれた。
 
『あなたのこだわりはよく分かったわ。でも商店までは1マイルもないわよ!たった1マイル!それでも嫌なら商店まで乗せて行った後にここまであなたを戻してあげてもいいわよ。それならどう?』
 
『・・・あなたは本当に優しい人ですね、ありがとうございます。』感謝してピックアップトラックに乗せてもらうと『ノースカロライナの人はみんな優しいわよ。困った事があったら近くにいる人に声を掛けるといいわ!』そう言って彼女は車を発進させた。
 
コンビニで十分に水分補給をし体調が改善した事を確認すると彼女は運転席から手を振ってあっさりと走り去って行った。元の場所に戻してくれるという話を忘れていたのか、忘れたふりをして去って行ったのか分からないけれどもうそんな事はどうでも良くて、心まで満たしてくれたご婦人に感謝しつつ森へと消えていくピックアップトラックをいつまでも見送っていた。
 
何とかダーラムに着いた私はDCからアトランタまで休憩日なしで行くのは不可能だと悟る。机上で距離だけを計算してもダメだ。暑さは殊の外体調に影響を及ぼす。90日の自転車旅は始まって二週間ほどしか経っていないし今無理をして先々に大きな影響を及ぼしてはならない。私は急遽翌日を丸々休む事に決めた。
 
 
 

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