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私たちが住む家|川上未映子氏『黄色い家』

読売新聞に連載されていた川上未映子氏の長編小説『黄色い家』が書籍として出版されました。時代も場所も具体的なリアリティの溢れる文脈の中でポツンと佇むアンリアルな黄色い家。これは夢も希望も描けずに経済資本ばかりを積み上げようとする、私たち自身の暮らしを象徴するものだと思うのです。

 今年の受験シーズンもそろそろ終わりが近づいてきた2月の下旬。そんなこととは無縁の少女たちの物語が新刊小説として発売された。川上未映子氏の長編『黄色い家』(中央公論新社、2023)。ここに登場する主人公・花と友人たちはいわゆる「親ガチャ」にはずれ、自らの力で強く生きようとする。しかし、お金がなければ学べず、学べなければ働けない今の日本社会において、彼女たちが夜の世界へ、裏の世界へと引きずり込まれてしまうのは当然の流れだろう。
 黄色い家とは、少しでも金運を高めるために、風水を頼って、壁を黄色く塗った花たちの家のことである。それはもちろんゴッホの名画「黄色い家」からの借用でもあるはずで、そのタイトルからも、花たち4人の共同生活は上手くいかないことを予感させる。ゴッホは自分の黄色い家に芸術家たちを招いて、共に切磋琢磨しながら暮らすことを夢見ていた。ところが、ただ一人応じてくれたゴーギャンとの生活ですら、わずか2ヶ月しか続かなかったという。原因は創作の方向性の違いからなのか、その後にゴッホが耳を切り落としたのは有名な話だ。
 花たちもギリギリな精神状態から解放されるために、逃げるようにして、黄色い家を解散させる。一緒に暮らす目的が夢や希望からお金に変わった時点で人間関係はギクシャクしてしまう。

 格差と弱者の問題を軽快なテンポでスリリングに描いた本作は、初出が新聞連載らしい意欲作だ。すでに各国言語への翻訳のオファーが殺到しているらしい。そう、川上未映子氏は今海外で最も人気のある日本人作家なのだ。昨年、『ヘヴン』(講談社、2009)が英ブッカー国際賞の最終候補に挙がったことに続き、今年も『すべて真夜中の恋人たち』(講談社、2011)が、全米批評家協会賞の小説部門にノミネートされている。もしも受賞を逃したとしても、その評価が下がることはないだろう。『黄色い家』も世界中に多くの読者を持つに違いない。
 しかし、日本の風景が色濃く表れるこのノワール小説を海外の読者はどこまで理解することができるのだろうか。スナックとキャバクラの違いは物語の中で琴美が花に説明するけれど、蘭と花が渋谷のマクドナルドから三軒茶屋のマクドナルドにわざわざ場所を変える意味を理解するためには、東京の街並みを知っている必要がある。川上未映子氏の小説の面白さはそういった緻密な表現に支えられているのだ。
 夜のコンビニで馬の合わない連中と出くわす面倒くささや、友人から買い取ったパーティー券を売り捌く煩わしさに共感できる私たちがいる。ホステスのご経験もあられるという川上未映子氏が、ご自身を「ストリートの作家」と定義されているのは、そういうことなのだろうと納得できる。

 ゴッホの「黄色い家」は別名「通り」。英語表記では「The Yellow House」に「The Street」というサブタイトルが付いている。実際、アルルの街のラマルティーヌ広場に面する建屋の周りには街路が描かれている。そして、連れ立って歩く家族や、レストランで食事をとる人々が見てとれる。
 これはこれでストリートであることに間違いはないのだけれど、私たちが近年イメージするストリート、いわゆるアメリカのブラック・コミュニティに端を発するようなストリート(=路上)とは大きくかけ離れているだろう。いうならば、権威的な街路と、自由な路上。
 このストリートの二面性をうまく扱ったものにソウル・ジャズの名曲「Street Life」(1979)がある。当時はまだ新人だったランディ・クロフォード(Randy Crawford)がクルセイダーズ(The Crusaders)の演奏をバックに歌い上げる歌詞は、夜の街に生きる人々を励ましながらも、「魅力的な男性は裕福な家柄の後ろでいつも微笑んでいる(Prince charming always smiles / Behind a silver spoon)」と皮肉る。
 大混乱する初心者向けのスキー場にストリートを感じたというジョー・サンプル(Joe Sample)と、この曲の全てはハリウッドの大通りから生まれたというウィル・ジェニングス (Will Jennings)の二人の作り手は、権威の側から、こちらの世界も決して良いものじゃないと諭しているようにも感じるのだ。

 黄色い家に暮らす4人の中で、桃子だけはこの曲を知っていたかもしれない。「Street Life」はバート・レイノルズ(Burt Reynolds)の映画『シャーキーズ・マシーン』(1981)の冒頭で大きく取り上げられている。その後、クエンティン・タランティーノ(Quentin Tarantino)も『ジャッキー・ブラウン』(1997)に使っている。『レザボア・ドッグス』(1992)や『カビリアの夜』(1957)をTSUTAYAで借りてくる桃子であれば、どこかで耳にしていても不思議ではないだろう。
 そんな桃子のビデオの中から、花と蘭は暇つぶしに『奇跡の海』(1996)を観る。そして、ただひたすら嫌な気持ちになって黙ってしまう。当時大ヒットしていた『タイタニック』(1997)にすら盛り上がれなかった二人の文化資本の少なさを強調する描写だろう。裕福な家庭に生まれた桃子との違いを際立たせる。
 しかし桃子を20年後にすっかり行方不明にしてしまった作者・川上未映子氏は、経済資本と文化資本を持っていても、必ずしも幸せにはなれない世の中を呪ったのか、あるいは、結局、持たざるものとは交わり得ない社会を憂いたのか。

 個人的には後者に思う。ご存知の通り、本や映画、音楽が見せてくれる世界は広い。川上未映子氏の小説を評価できる世界中の読者は、たとえ東京を一度も訪れたことがなかったとしても、その街並みを知っているに違いない。これまで様々な作品から得た知識と感情をつなぎ合わせて、十分な文化資本を形成しているからこそ、新たな物語を味わうことができるのだ。
 誰よりも努力し、リスクを背負うことのできた花が最後に羽ばたくことができなかった理由は、趣味が無いが故の視野の狭さにあったのだろう。多少のお金を作ったとしても、使い方がわからなければ意味がない。お金さえあれば何とかなる、という思い込みが黄色い家の崩壊を招いたのだ。
 そうなると、これは何も個々人の話ではなく、日本の多くの組織、企業、ひいては日本の国全体に当てはまることのように感じられてしまう。夢や希望を描けぬままに、とにかく経済資本を積み上げようとする姿勢が互いに足を引っ張り合い、無駄なことばかりにお金を使ってしまう。私たちは黄色い家の住人になってはいないだろうか。
 小説『黄色い家』には「Sisters in yellow」という副題が付けられている。英訳される際にどんなタイトルが当てられるかはまだ分からないけれど、もしも「The Yellow House」ではなく、「Sisters in yellow」が強調されたとしたら、それこそ、私たち自身を象徴していると思うのだ。イエローはレモン(使えないもの)の色であり、お金の色であり、太陽の色を意味しているのだから。

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