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規律と自由の間に生まれる価値|「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展

ドレスコードという言葉があるように、ファッションにはマナーや規律があります。一方で、オートクチュールに代表される一点ものの作品には芸術的側面が強く表れます。東京都現代美術館で開かれているクリスチャン・ディオール展を観てみれば、その間にこそ新しい価値が生まれるのだと思うのです。

 東京都現代美術館で開かれている「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展の人気がすごい。月単位で順次発売される予約優先チケットは早々に売り切れ、当日入館券を求める人々が平日日中にもかかわらず、入口に長い列をなす。1955年には、フランスのオートクチュール輸出量全体の50%以上を占めていたといわれるメゾンを作り上げ、その勢いを今に残すクチュリエの作品を直接観ることのできる機会は珍しい。パリ、ロンドン、上海、ニューヨーク、ドーハと世界中を巡って、いよいよ東京にやってきた回顧展に、多くの人が詰めかけるのは当然だろう。特に今回、いかにも私たち日本人を喜ばせるための演出がなされている。

 1947年、創業の翌年に開催した初めてのコレクションにて「ニュールック」と評された、ディオールを象徴する作品群に続いて、会場ではメゾンと日本との強い関わりが紹介されている。初代「バー」ジャケットに合わせられたハットがベトナムのノンラーや日本の笠帽子を思わせるからなのか、その後に並ぶジョン・ガリアーノ(John Galliano)氏の「富嶽三十六景」や「蝶々夫人」をモチーフとした作品へのつながりも自然に感じられる。現クリエイティブ・ディレクターであるマリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)氏が2021年に仕立てた「さくら」のドレスに至るまで、長きにわたって日本文化を参照してきたメゾンの歴史を語られて、嬉しく思わない人は少ないだろう。美智子上皇后が1959年の婚礼の際にディオールをお召しになられたことはよく知られている。

 会場の展示によれば、このきっかけを作ったのが東京の文化服装学院だという。最近の記事でも世界のトップ10に選ばれるほどの著名なこのファッションスクールは、1953年にクリスチャン・ディオール(Christian Dior)氏らを日本に招いている。そして、欧米のトップメゾンとして初めてのファッションショーを成功させている。戦後、ようやく主権を回復したばかりの日本社会において、その衝撃は相当なものだったに違いない。後には洋裁ブームが巻き起こったとされている。繊維メーカー・カネボウ(当時の鐘淵紡績)と百貨店・大丸との連携があったとはいえ、いわゆる学校がこれを主導したことに驚きを隠せない。

 思想や技術に正統性を求めることから、どうしても保守的になりがちなのが学校という組織だろう。特に作り手の独創性が評価され、芸術的側面の強いオートクチュールの世界とのつながりは不思議に感じられる。クリスチャン・ディオール氏だって若かれし頃は芸術の道を志し、ギャラリーを経営したこともあったという。そこにファッションの才能を見出したマルセル・ブサック(Marcel Boussac)氏がメゾンの創業を支援した。一方で1967年にディオール氏の跡を継いだイヴ・サン=ローラン(Yves Saint-Laurent)氏は、パリ・クチュール組合の養成学校で学んでいる。その頃はちょうど洋服づくりが工業化され始めたタイミングだったのかもしれない。ファッションスクールはデザインやパターン起こし、縫製の技術を広く画一的に身に付けさせることに秀でている。今はパリコレとして知られる既製服の見本市、パリ・プレタポルテ・コレクションも1960年代に始まっている。

 学校が持つ二面性、すなわち生徒の規律性と創造性を同時に育もうとする取り組みの矛盾は、中高一貫校で教員を務める矢野利裕氏の著書『学校するからだ』(晶文社、2022)に詳しい。青年期の育成のための中等教育と、手に職をつけるための養成教育とは目的にこそ違いがあるけれど、カルキュラムに従って集団教育を行うという観点では変わらない。特に昨今、ファッション業界においても、デザインの盗用やサスティナビリティなどの職業倫理が問われる中、規律・統制面で学校教育に求められるものは大きい。もちろん、もっと基本的なところに、効率的に学ぶために体系化された知識と技術がある。それらが生徒の個性を犠牲にすることはないのだろうか。矢野氏は同僚教員の多様性に着目する。

 普段は規律を重んじ、担当科目に専門性を発揮する中学・高校の教員も当然に趣味や特技を持ち、学校生活の中ではそれがふとした時に表に出るという。その人間らしさが生徒に生きるヒントを与えることも多いだろう。「大事なことはおうおうにして、対立するふたつのあいだに存在する」という矢野氏の言葉は、規律性と創造性の狭間にこそ新たな価値が眠っていると解釈できる。考えてみれば、衣服を作るという行為の周辺には知らなければいけないことが山のようにある。着る人の体のこと、生活のこと、文化のこと、好みのこと。それら全てを教科書にして学校で教えることはできないのだから、せめて学ぶことの意義や楽しさを伝えようとする。それでこそ、規律性と創造性の両立が成し得ると分かるのだ。

 東京都現代美術館の展示は最後のテーマにて、ディオールが日本以外の国々とも盛んに文化の交流を行っていることを伝える。特にアフリカの装飾芸術や中東の刺繍から着想を得た作品は目立って美しい。これが文化の盗用にあたるのか、見事な再解釈にあたるのかは分からない。ただこの対立のあいだに新しい価値が生まれたことは疑いようもなく、かつてのトップメゾンがいまだトップであり続けている理由は、それをしっかりとコントロールできているからだと言えるだろう。実際、私たちはディオールの日本文化に対する解釈を喜んで受け入れている。その作品を一目見ようと、行儀良く、長い列を作って並んでいる。なるほど、規律とは必ずしも自由を阻害するものではないと思うのだ。


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