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アネット

ポップコーンは買わない。vol.125



愛聴するポッドキャストやドミューンでも本作は話題になっていて、ずっと気になっていた作品。たまたまYouTubeで流れてきた予告編を観たときに、これはすごい作品が上映されるんだなって思ってワクワクが止まらなかった。普段は無駄にえっちな脱毛の広告にイライラさせられていたが、今回ばかりはYouTubeのアルゴリズムに感謝しなくてはいけない。

映画を鑑賞する際は何かしら自分の生活や、地域、社会に対して考えを巡らすことがあるのだが、本作に関しては自分の噛み砕きがいまいちだったため消化不良な感じだった。映画の構成要素である映像、音楽、俳優、これらを細かく因数分解していくともっと細かな要素としてあげることができるのだろうが、それらの一つ一つのレベルが高かったと言い訳させてもらいたい。

例えば、オペラと聞いて「これだ!」という答えを持っている人はオペラをやってる人か、相当なマニアかといった具合だろう。言語化が難しいが、どこか堅苦しいイメージのあるものには芸術性の高さに比例していると思う。

本作はミュージカルというジャンルらしいが、ミュージカルと言われればそうだし、オペラと言われてもそうだし、ロックとも言えるかもしれないし、オーケストラと言われればそうかもしれない。いろんな構成要素が複雑に入り組んでいて捉えどころがない。いや、そもそも捉えようとしていること自体が間違っているのかもしれない。


スパークスの存在

そんな捉えどころのなさは原作者に由来しているといっても過言ではないだろう。原作および音楽を担当しているのはアメリカのミュージシャン「スパークス」だ。

スパークスはロンとラッセルのメイル兄弟によって1970年に結成されたバンドで、その活動は50年をこえる。

彼らの作風、演出はただのミュージシャンとは一線を画す。歌詞は皮肉かつ辛辣。ライブの演出も派手で、常に業界に一石を投じるような活動が彼らの魅力であり、多くのアーティストが一目を置く存在だ。

そんなスパークスのドキュメンタリーもアネットと同時期に公開され、話題になっていた。


スパークスは常に新しいことや未知の領域に挑み続ける気質があり、それに感動を覚えるし、自らのアウトプットへの刺激を与えてくれる存在である。

アネットもそのような要素を兼ね備えている作品である。


コメディの可能性

ドミューンという番組で、アネットの特集が組まれていて、監督のレオス・カラックスが登場したりと豪華な番組が放送されていたのだが、

その番組の冒頭、ウーマンラッシュアワーの村本さんと湯山玲子さんの対談から始まった。村本さんは現在スタンドアップコメディアンとしてアメリカに渡米し、挑戦をしているのだが、出演は渡米の前だったのかな?

その中で、主人公がコメディをアートとして昇華させるために奮闘している描写を切り取り、語っていた。コメディというのは笑ってもらってなんぼのものであって、アート作品として観るという体制が観客側に備わっていない。そんな供給する側と、受け取る側の乖離というか不一致がコンプラとか時代の流れみたいなものによって徐々に観客との差が生まれてしまい、失敗してしまう場面が印象的だったと話していた。

村本さんらしい視座での語りだと思って思わず見入ってしまった。

コメディが到達できる地点の限界に挑戦し続ける姿。天井突破できるのではないかという可能性。その上位概念が芸術や伝統芸能と捉えるのが正しいかどうかは正直、不明だが。


芸術や伝統芸能は上位概念か

相手役の女優はオペラをやっていて、コメディとオペラというものを対比して観ることができる。素人の感覚だと、オペラっていうのはよくわからないけれどなんだかすごいもの。という括りに入る。それは歌舞伎だとか、能だとかに近いものを感じる。

ある種の伝統芸能の格式の高さを象徴するかのような対比に思わず、考えを巡らせてみると、お笑いにおいても、漫才やら、コントやらはある程度の型を要していてもその芸術性みたいなものはある程度高めていくことは可能である。しかし、限界はある。

限りなく歌舞伎や能に近いコントが出来上がったとしたら、いわゆるコントを期待している観客からするとポカーンの案件になってくるし、ポリコレ的な言葉の使い方や、表現の仕方、昔だから許された言い回しも通用しなくなってくるとすぐに干されたりしてしまう世の中。


アネットが人形だったのは…

メディアのあり方にも考えさせられる。世論を扇動し、当事者を追い込む、結果的に良くない方向に流してしまうことになりかねない。本作でも自分の娘を利用して金稼ぎをはたらこうとする主人公の姿は非常にかわいそうだが。。

最も印象的だったといってもいい、アネットそのもの姿。アネットというのは主人公(アダムドライバー)の娘。登場から最後の方までずっと人形の姿をしていたのだ。

そして最後、アダムドライバーが刑務所で娘と再会したときに初めて人間の姿として我々は認識することができる。

これはアダムドライバーの視点、視覚の様子を見せられていたのではないか。つまり、アネットというのは人形=人間ではない。自分の好きなように動かせる人形のような存在として認識していたのではないかと思う。そして、人間の姿として見えるようになったのはある種の改心、後悔があって初めて人間の姿として見えるようになったのではないか。。と勝手に感じている。もうその時には時すでに遅し娘は去っていってしまうという終結。私はそう見た。


最後に

本作はサウンドトラックがあり、もちろんスパークスが担当しているのだが、そのトラックを聴いていると自然と場面がフラッシュバックしてくる。それくらい印象に残っている曲ばかりということで、脳内上映が自然と開始されるのもこの映画の特徴かもしれない。

スパークスは過去にティム・バートンと日本原作の映画制作に携わる話があって、結果頓挫してしまったが、今回このような形でスパークス原作の映画を劇場で観ることができたのはある意味で貴重な体験だったと思う。

音楽に留まることなく、映画に進出しそこからさらにジャンルの壁を破壊してモノを作っていく彼らに刺激を受けまくりだ。ジャンルを超えていくことをなんの特別なことと思っていなさそうなところも粋だ。

正直、スパークスを知ったのはこのアネットからなので超新参なのだがこれからもっと彼らの活動に注目していきたいと思っている。


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