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vol.140


はじめに

北野武監督の最新作
30年前に書いていた脚本をついに映画化したという本作、監督自身の時代劇へのイラつき?大河ドラマや民放時代劇は綺麗に描きすぎだとインタビューで答えていたのが印象的だった。
映画だからこそ描ける、北野武だから描ける描写の数々。狂気と欲望にまみれた戦国時代。ある意味人間らしいといえば人間らしい姿なのかもしれない。
自然と始まるアドリブコントのようなやり取りには思わず笑ってしまった。
監督自身が、芸人である背景とコントのような描写が権力に対して俯瞰で揶揄しているかのような意味にも捉えられ、好感を持った。
北野武監督の映画を劇場で観たのは初めてだったので、期待していたが期待通りの良い映画でした。

そもそも天下統一ってなんだ

芸能界でも比喩で用いられる言葉
「天下」
本作でも大きなバックグラウンドとして掲げられている天下統一。そもそも天下統一とは何なのか。

すぐに検索。

天下統一(てんかとういつ[注釈 1])とは、応仁の乱以後の戦国乱世を終息させ、織田・豊臣の二氏によって推進された事象である[2]。
古代中国の概念から来ており、天子が統治すべき地域を天下と呼んだ[要出典]。
主に戦国時代から江戸時代初期にかけて、日本全土(ただし琉球と蝦夷地の大半を除く)を一人の権力者の支配下に置き、統一することを指す。

Wikipedia

ウィキによるとこういうことらしい。

日本では応仁の乱以降、国内で多くの内乱が勃発、そんな中で、織田信長が天下に近づき、豊臣秀吉が日本を統一、そして統治の体制を作り上げた。その体制を元に徳川家康が、幕府という仕組みを作り、その後265年にわたって平和な時代がもたらされたとされています。


なぜ首を取るのか

魂・人格が宿る依代として、人物の標識として、頭部というのは重要な部位なのであろう。その人物の象徴言うべき身体部位といえる。それを奪う意味合いは大きいと思う。それは幾つかの事例から想像がつく。例えば、敵に首が渡る事を恐れて自決した武士が首を切り落として隠させたり、討ち取られた主人の首を守ろうとしたり、取られた首を取り返しに行く、といった行為がある。そして晒されるのは首である。
 何よりも純軍事的に考えて、敵を確実に討ち取った証拠として、どの敵を討ち取ったかという確認として、切断した頭部という物は最も確実である。そしてそれは主君に対しての、最も確実な手柄の証である。
 まさに「首級(しるし)」なのだろう。

https://nikido69.sakura.ne.jp/militaryhistory/kubi/kubi01.htm

天下統一においてはライバルを蹴落とさなくてはいけない。

大将を最高として、地位の高い武将を討ち取った時にその証拠となりうるのはやはり首だった。それを検証するための儀式が首実検。

寺院で執り行われ、人物を検証したり、首に化粧を施したりすることで死者への敬意をはらっていたと言われています。

価値のある首をとった者には報奨が与えられ、武勇をはせるという野心に刺激を与えるものだったに違いない。

故に武士のモチベーションになっていたことは間違いないとは思うが、そればかりに固執してしまうことになってもしょうがない。
首は重いものだし、持ち歩くのは大変である。首を取ることに夢中になってやられてしまっては元も子もない話であろうに。

だからこそ、戦のそもそもの目的について考えたときに首を取ることが目的ではないので、指揮官と武士の間で生じるギャップも大なり小なり生じていたはずだと思われます。

それがラストの「首なんてどうでもいいんだ!」と言って秀吉が首を蹴り倒して終わるシーンに帰結されているのかなと思ったり。


御伽衆

御伽衆とは

将軍や大名の側近に侍して相手をする職名である。雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした。

Wikipedia

本作でも木村祐一氏が演じた、「曽呂利 新左衛門」は落語家の始祖とも称されるほど、ユーモラスな頓知話で人を笑わせていたという逸話が残っている。記録が残っているということは余程面白かったのだと推測できる。
彼は秀吉の側近、御伽衆として仕えた。

茶人の千利休も御伽衆の一人として挙げられる。こちらは岸辺一徳氏が演じた。

彼らは裏の主役と言っても過言ではないほど木村氏と岸辺氏は存在感があった。

北野氏自身がお笑い芸人をやっている背景を鑑みると、芸人の始祖となる存在を丁寧に扱いたくなる気持ちはわからなくもない。たまたまなのかもしれないが。

木村祐一氏の動きは、時の権力やその周辺を常に俯瞰で観察している様子が見て取れる。観客の目線でもある。
時には忍者(スパイ)のような立場になったりとか、民衆を相手にして頓知話を披露していたりとか。全体をなんとなく把握しているムーブをとっていた印象がある。

そもそも将軍や大名に御伽衆という、ただ雑談したり面白い話を聞かせてもらったり、お茶を飲ませてもらったりという役職があったことに興味がありすぎる。笑

今でいうオーディオブック的なことだろうか。笑

最後に

生きるために首をとっていた当時の兵士たち。

戦という生死を彷徨う世界の中での秩序なんてものは存在しないに等しい。現代の私たちからすれば同じ人間として狂ってるようにしか見えない。しかしそれは時代のせいと言ってもいいだろうし、人間が何に縋って必死に生きようとしているかによって変わってくるのかもしれない。死が近いからこそ、生が輝きだす。

現代を生きる私たちは、システムに囲い込まれすぎて、身近に死を感じられなくなった。最近でいえば、コロナウイルスがシステムにバグを引き起こしたと言えるだろう。あとは災害、「災害ユートピア」という言葉があるように、災害下においてはシステムは機能しないし関係ない、そんな中では人間は互いに助け合うしかなくなるのだ。もちろん死が近いことがいいこととは言っていない。逆にいうと、死が遠くに行ってしまったことで失ってしまったことがあることを忘れてはいけないということだ。経験することで生き方が変わってくるはずである。

臨死体験なんてそうそうできるものではないし、体験できたとしてもそれで戻ってこれなかったら意味がない。

ある意味、自分を概念で殺すという意味で”なりきる”ことは大切なのかもしれない。いついつまでに〇〇できなかったら死ぬ。と設定してしまう、そしてその世界線で生き切ってみる。言葉は鋭いかもしれないが、現代人において、何か生きる目的、目標達成に関することで悩んでいたり、苦しんでいたら、徹底的に自分を追い込んでみるのは一つの手なのかもしれない。(自分に言い聞かせています。←)

いやはや、ひどく脱線してしまったようです。

首を取るにはまず自分の首をかけなくては取れるものも取れない。
救えるものも救えない。その時のために鍛錬しておくことは今すぐにでも可能。








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