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出バビロン


――
ほめよ ほめよ
主の御名をほめよ
主の右手は わたしの歌 力 救いの手 
命つづく限り 主に歌え

――

ここ数百年あまり、世界中で叫ばれ、提唱され、実践され、あるいは犯され続けて来た資本主義や共産主義、デモクラシーやグローバリズムとは、とどのつまり、その体制の中にあって生まれ、育まれた蠢爾の民衆について、いかに生かさず殺さずの、否、搾り取るだけ搾り取ったあげくのはてに、口減らしと口封じのために屠殺するための、愚かにして従順なる家畜として”商品化”するべく勘案され、計算され、構築された、悪魔のひき臼である。

たとえば、戦後日本の団塊の世代などに至っては、そのもっとも蒙昧にして卑しき形にこね上げられた愚作(もしくはもっとも臆病にして盲従的なる秀作)の典型にすぎずして、すなわち、ただ飯を喰らい、糞を作り、ひねもすカネの後を追い、あるいは追われるようにして、生き血を絞られるだけ絞り取られるばかりの、あてがいぶちの命であった。

「人は食うために生くるにあらず、働くために生くるにあらず、カネのために生くるものにあらず...」――惜しむらくは、戦後日本に限らず、おおよそいつの時代の、どの地に生きる人種民族の者であっても、このひと言をば自分の身をもって知る人間とは、まったくもって圧倒的な、あまりに圧倒的な少数派である。

それではいったい、非力なる、あまりに非力なる醒めた人の子たちとは、この資本主義や共産主義、デモクラシーやグローバリズムといったレギオンどもの横行跋扈する悪しき時代にあって、孤独な、あまりに孤独な己の心身をば、いったいどうして守っていったらいいというのだろうか――?

はっきりと言っておくが、

この世のユダヤ教キリスト教の、そんな醒めた人の子らをばなおもって蜘蛛の糸にからめ取り、最後の血漿の一滴まで啜り尽くし、殺し尽くす目的と意図とのみをもって編み出された、偽預言者と偽りのユダヤ人たちの数多の悪計陰謀の類について、神の知恵をもって看破し、糾弾し続けるこの私の文章などは、

そのような「どうしたら」という問いかけに対し、実に単純明快な回答をくり返し示唆している――あるいは、そうしようとして日に日を継ぎ、夜に夜を継ぐ、戦いの記録を書き綴っている。

けっして我田引水するわけではない。

さりながら、「食べるためでも、働くためでも、カネを稼ぐためでもなく生きる」とは、

とどのつまり、

信仰によって生きるという生き様(もしくは死に様)のことであり、そして、ただそれに尽きるのである。

それでは、その信仰たるは、また、なんのことであるのだろうか――?

「実に、信仰は聞くことに始まり...」という言葉とおりに、キリストの言葉、神の言葉を、虚心坦懐に聞き、そのとおりに聞き従うことこそが、「どうしたらいい」という懊悩煩悶のための、神からの回答なのである。

それゆえに、

アダムとエバに始まり、アベルにせよ、エノクにせよ、ノアにせよ、アブラハムにせよ、ヤコブにせよ、ヨセフにせよ、モーセにせよ、ヨシュアにせよ、ダビデにせよソロモンにせよヨシアにせよ、イザヤにせよエレミヤにせよエゼキエルにせよ、だれにせよ、

彼らはそれぞれの時代における、それぞれの十人十色の人生にあって、神の言葉を聞き及び、その言葉に聞き従い、時に聞き従わずして愚かな失敗を犯し、それでもふたたびもって立ち上がり、

しかりしこうして、

ただひたぶるに食べ、働き、カネを稼いであてがいぶちの命を繋ごうとするのではなく、

これを戦後日本的な生活様式に当てはめて翻訳するならば、「金、時間、健康、家族、友人」ばかりを追い求め、ヨキンとネンキンそれ以外の真善美を知らず、知ろうともしない人畜ライフをばやり過ごそうというのではなく、

いわんや、ユダヤ教キリスト教のようなたかが人の宗教の、宗派教義神学といった蝮の卵をかえしたり、くもの糸を織ったりして、その卵を食べる者を殺し、着物にもならない織り物をもって、裸の王様のように巷をねり歩いてみせたりすることもなく、

信仰によって、ただ信仰によって、

あるいは、けっしてあてがいぶちではない、一茎一花の自分に向かって語りかけられた、神の言葉に聞き従って、ただ神の言葉に聞き従って、

それぞれの地の、それぞれの時代の、それぞれの共同体の、それぞれの家の、それぞれの人生のための、「生」をまっとうしたのである。

さりながら、

そんなふうに生きて、そんなふうに死んだ人間から学べることなど、実はそう多くない。

死んだ人間の名や功績なんぞを崇めたてまつることとは、ひっきょう、猿真似であり、よって、往々にして時代錯誤であり、マトハズレであり、空を打つ拳闘であるからだ。

死んだ人間は、もはやどこまでも、すでに死んだ人間でしかない、

がしかし、

今も昔も、生きているのは神であり、しかも、永遠に生きているのもまた、神ただひとりである。

よって、

信仰とは、今を生きる神の言葉を聞き、聞き取り、聞き分けて、聞き従い、

そのようにして、今を生きるための言葉を自分の歯で食み、自分の舌で味わうという行為のことなのである。

そして、それは、おおよそすべての地、すべての時代、すべての人生において、すべてを失ったり、すべてを奪われたり、身も命も心も霊も、すべてをかけなければならないような、可視不可視の戦いのことでもあるのである――こちらでそれを望むと望まざるとに関わらず。


それゆえに、

あてがいぶちの命を繋ぐだけの愚かな、あまりに愚かなお前たちが、聞こうが聞くまいが、ここにはっきりとくり返しておく。

当代の資本主義や共産主義、デモクラシーやグローバリズムがそうであるように、その黎明期はいざ知らず、現代のユダヤ教キリスト教とは天上の悪の霊と、その手先たる人間どもが、この世でも来る世でもけっして赦されることのない悪と罪の限りを尽くすための、預言書にはっきりと書き表されたバビロンのことであり、

それゆえに、この時代の、この国の、この私のために与えられた神の知恵であり、かつ、諄々と語りかけられる神の言葉とは、

「離れ去れ、離れ去れ。
彼女の罪に巻き込まれることのなきように、
今日、己を聖別せよ」

――これである。


心も耳もかたくなで、耳にも心にも割礼を受けたことのないお前たちには、どんな神の言葉が与えられているのか知らないし、知りたくもない。

それでも、

たとえば、海を割る信仰を持っているのは、この私である。

海を二つに割るほどの、真の信仰を与えられたのも、この私である。

なぜとならば、そのような海を割らねばならないような地の、時代の、人生の、命のための、あてがいぶちではない神の言葉を与えられた者こそが、この私であるからである。

お前たちは、これまでどんな言葉を聞いて来たのか。

当代の資本主義や共産主義、デモクラシーやグローバリズムののたまうプロパガンダや、法改正や、報道や、常識や、良識や、巷の噂話や、世の中の決まりごとの類が、ほんとうに今を生きるための神の言葉だと思うのか――

そんなしょせん「人」にすぎない支配者たちの編みだした、小賢しくも悪辣非道なる「嘘」と選ぶところのない、ユダヤ教キリスト教における、ありうる限りの宗派教義神学と、そんな豚の寝言にも如かない戯言たわ言世迷言をば修学した偽預言者や偽りのユダヤ人どもとが高座から垂れ流すお説教が、今を生き抜くための信仰だと思うのか――!

お前たちはこれまでずっと、お前たちのための腹と脳みそを神とし、悪魔のひき臼を偶像礼拝し、蝮の卵を喰らい、くもの糸を身にまとって巷を行進する裸の王様だった。

これまでもそうだったように、これからもそうであるし、そのように生き続け、そのように死に、そのように裁かれて、それゆえにただ永遠かつ完全かつ不可逆的に滅び去ってゆくのである。

それが、当代の資本主義や共産主義、デモクラシーやグローバリズム、ユダヤ教キリスト教といったマトリックスの中に生まれ落ちた時にあてがわれた、あてがいぶちの命を継ぐために人畜となり、自らなり続け、終生なり果ててゆくことを選び続けた、お前たちの選択と決断の結果だからである。


だから、もう一度はっきりと言っておく、

この地、この時代、この国、この人生の、この私のために与えられた私の信仰は、海を割る。

怒りと妬みに駆られたお前たちは、私と私たちの後を追って、狂いまわったように、海の底へ足を踏み入れる。

がしかし、救いと祝福の海を渡り切るのは、私たちだけであって、

お前たちはお前たちが足を踏み入れたその時、風が起こり、水が返り、裁きと滅びの底へと沈んでゆく。

その時、夜が明ける。

長い長い夜が明けて、もはや二度と、わたしたちを訪うことがない。

わたしたちは、もはや永遠に、お前たちの姿を見ることのないように、夜も闇も、見ることがない。

これが、あてがいぶちではない、一茎一花の私のために与えられた、必ずそうなるという神の言葉であり、

それゆえのわたしの信仰であり、希望であり、力であり、救いであり、歌であり、命であり、永遠の時代なのである






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