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大切なのは「架け橋」となる意識。戦場カメラマン・渡部陽一さんに聞く、戦争と平和

 今、世界を見渡せば、ウクライナやパレスチナ・ガザ地区をはじめ、深刻な戦闘が続いています。実は日本人も、意識しているか否かに関わらず、国の方針としてそうした戦いのどちらかの勢力に加担しているという現実があります。

 「戦後78年経ったから想像がつかない」では済まない関わりを、すでに私たちは持っています。では実際に戦場報道に携わっている現役のジャーナリストは、「戦争」「平和」についてどう考えているのでしょうか。独特な語り口でテレビなどさまざまなメディアに登場する、おそらく今、日本で一番有名な戦場カメラマン・渡部陽一さんにインタビューを行いました。

 渡部さんは今年、「世界中のすべての戦争犠牲者を追悼し、悲惨な戦争を繰り返してはならない」という平和の決意を新たにするという趣旨のもと行われた千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要の前日、9月17日に築地本願寺で平和をテーマに講演しました。ゆっくりとした口調から紡ぎ出される言葉には、実際の戦場を見てきた場数の分だけ説得力があり、今回はその時の講演も踏まえてお話を伺いました。

カメラマン・渡部陽一とは


 公式プロフィールによると、渡部さんは大学1年時、生物学の講義の中で、いまだ狩猟生活をおくる人たち(ムブティ族)がアフリカ中央部にいることを知り、「この目で彼らの存在を確かめてみたい」との思いを抑えられず、アフリカに渡航しました。ヒッチハイクで旧ザイール(コンゴ民主共和国)のジャングルを横断しようとしていたところ、ルワンダ内戦(※中央アフリカのルワンダ、ブルンジ、ザイールの3カ国で勃発したツチ族・フツ族民族紛争)に巻き込まれ、少年ゲリラの襲撃に遭い、間一髪のところで助かったといいます。

「日本からかけ離れたアフリカの森の中で理不尽な行いが繰り返されている」
「家族や友人に言葉で少年兵のことを伝えようとしてもまったく理解されることはありませんでした」
「言葉で伝わらないのであれば、好きな写真を使って伝えることはできないか、カメラを手にして現場に赴き、自ら見たものを撮影して写真を持ち帰る、一枚の写真の力で状況を伝えることができるのではと考えました」

 こうして渡部青年は戦場カメラマンとしての活動を始めるわけですが、仕事へのスタンスは「戦場報道とは生きて帰ること」としています。

 築地本願寺で行われた講演「へいわフォーラム」では、「戦場カメラマンというと、ひとりぼっちで危ない仕事をしてくるイメージを持たれていますが、実際は絶対に1人では戦地に入りません。必ずその国、その地域で生まれ育ち、現地のアクセントを使うガイドと通訳など最低4人で行動します。戦場では国家体制が崩壊しているので、取材はチームで行います。危機管理が1番。写真は2番」とも語りました。
 
 以下、同じく「へいわフォーラム」での渡部さんの発言ですが、「カメラマンの仕事、それは、世界中の子どもたちの声を日本のたくさんの方に届けることはもちろん、日本の子どもたちの声を世界の子どもたちに届ける『架け橋』となる写真を撮ることが、僕のカメラマンとしての仕事」とも語ります。そして一番強調したのは、「どの戦争でも変わらなかったこと。それは、『犠牲者は子どもたち』」ということでした。

渡部さんが考える「平和」とは?

ーー世界中で取材をされている中で、仏教者とお話しされる機会もあったと思います。その方々は戦争に関してどんなことを言っていたか、印象深いことはありましたか?
 
渡部 彼らが共通して発していた言葉は「寛容」です。寄り添う、思いやる、言葉で触れ合っていく、迎え入れる、一緒にいる。

しかしこの「寛容」の気持ちは、実は出会った仏教徒の方々も、イスラムの方々も、ユダヤの方々も、クリスチャンの方々も、ヒンドゥーの方々も皆、重なっている気持ち、核となっている土台だと感じました。戦争を望んでいる人はいない。でも戦いが起こってしまう。しかし出会ったほとんどの方々は穏やかで、柔らかく迎え入れてくれる。そして衝突や貧困、様々な線引きに対しては、「基礎教育を得ることで、柔らかな時間を引き寄せることができる」と言われていました。

――基礎教育というのは、渡部さんがへいわフォーラム(※築地本願寺で行われた講演)で紹介された、パキスタンの平和活動家で2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの言葉「戦争は武器を使って止めるものではなく、1本のペンと1冊の教科書があれば戦いを止めていくことができる。1冊の教科書と1人の先生がいれば、子どもたちの生活の環境を変えていくことができる」とも関係がありますね。
 
渡部 そうですね。マララさんはもちろんイスラム教徒なんですけれども、その考え方や基礎教育の土台は、仏教もムスリムもクリスチャンもユダヤも全くノーボーダー。仮に仕事やお金がなくても、家がなくて共同生活をしていても、今その地域でできること、例えば年配者が学び場を作ったり、仕事がなければ自給自足する考え方や、これまでの伝統を繋げる行為です。

 学ぶこと、生きること、共に暮らしていくことは、みんなが共有している思いであると、どの国でも感じました。戦争の犠牲者はいつも子どもたち。この現実は変わらないんですけれども、戦場であっても、ひとつ屋根の下、繰り返される家族と子どもたちの「日常」は、日本もウクライナもパレスチナも、パキスタンも変わらなかった。その根っこにあるのは、やはり「寛容」の気持ちであると思いました。
 
――また先日のご講演では、イラク戦争中に米軍に落とされた劣化ウラン弾の影響で、首の後ろに腫瘍ができ、爆撃の影響で薬もなく亡くなった男の子の話をされていました。

 そして今、現在進行形で、ガザ地区でイスラエルとハマスの武力衝突が起き、ガザ地区の病院などが空爆されている(※取材は2023年10月26日に実施)わけですが、一方でハマスが病院や学校の下に軍用の地下通路を作っている、そうした現実もあるようです。戦場に行って、こうした一筋縄でいかない事態の複雑さについて、具体的に感じたことを教えてください。
 
渡部 病院の下にハマスが地下通路を作っていることは、ほぼ間違いないと思います。どの戦争でもよく使われる戦術です。つまり、人間の盾を作り、あえて市民を前面に出すことによって攻撃態勢を防御して、より戦いを有利に進めていく。これは今回のガザ地区軍事侵攻に限らず、どの戦争でも繰り返されている現実です。

そうさせないために、世界各国が危機管理の情報共有をして、市民が回避できる人道回廊を作ったり、一時的な避難をできる非武装地帯を作ったりしようとしているんですけれども、これもまた戦争当事者は利用する。ウクライナへのロシア軍事侵攻で繰り返された現実です。

米軍の劣化ウラン弾の影響で首の周りに腫瘍ができた少年(撮影=渡部陽一)

――こうした事態になったとき、国際社会には何ができますか?
 
渡部 戦争という残虐な極限状態に立たされた時に、理論や数字、国連が掲げる憲章というものは通用しません。ウクライナ戦争の時に、国連常任理事国ロシアが平和協定に対して拒否権を発動しましたが、今回、イスラエルの攻撃に対する国連の停戦決議にアメリカが拒否権を発動した。

 当事国になるとこれまで言ってきた枠組みと全然違うことを言う。支援、戦闘の回避、休戦交渉というものが無視されます。これが現実の外交、軍事戦術です。この事態を避けるために、戦闘が起こる前の段階で停戦決議、監視団というものを展開しなければならないと思います。

――私たちにできることはあるのでしょうか。
 
渡部 このような状況で諸外国が対処するには、人道支援という戦争と真逆の入口から対抗していくこと。それこそ「寛容」の考え方を持ち込んで戦闘を停止させるやり方。今ガザの最前線で起きているような状況では、ウクライナ戦争の展開について私が予想しているように、もしかすると敢えて勝ち負けをつけないかも知れない。今まで繰り返されてきたこうした戦争の組み立て方を知った上で、人道支援を民間でも個人でも、国の外交、NGOでもどのように絡まっていけるのかというのが現代の戦争の現実との向き合い方だと僕は取材の中から感じています。

新時代の戦場カメラマン


――渡部さんはカメラマンとして情報発信をする重要性をどのように感じていますか?
 
渡部 現代の戦争というものは、ベトナム戦争や少し前の戦争のように、兵士が人間同士でお互い武器を取り合って向き合った、肉弾戦や人海戦術といった戦い方ではないんですね。

 ロボットやドローン、AIなど、情報が持つ力を管理した側が、戦争を優位に進められるんです。一方で私はカメラマンとして、写真を通じてたくさんの方の「架け橋」となれればと思っています。

  一眼レフで撮った1枚の写真を焼いてそれを見ていただくというよりも、今はライブでつながるオンライン上の世界を重要視しています。オンラインの世界では、ジャンルを問わず写真が常に呼吸をしているかのように巡り合っています。写真という1つの入口の中で、戦争報道や世界の音楽、世界のファッション、日本の文化の繋がり、様々な恋愛事情が、国や状況や宗教関係なく展開されています。これが、写真という情報の持つ力ですよね。僕自身がカメラマンとしてできる限り早く連動して、ライブでたくさんの写真を繋げて上げていくこと。これが僕が作れる「架け橋」であり、発信できるメッセージであると感じます。

――SNSも積極活用しているんですね。 
 
渡部 最初、SNSを全く知らなくて。そもそも「Twitter(現・X)ってなんだろう?」とずっと思っていたんですけど、カメラマンとしてフィルムを使ってアナログで撮って現像して届けて、キャプション付けたりしていると2週間とか3週間かかり、それが本来のリズムではあったんです。けど、いざTwitterやInstagram、TikTokをやってみると、爆発力が絶大で驚きました。僕が個人的に好きなベストショットを上げると、瞬時にドカンと風の力が跳ね返ってきて、「こんなにたくさんの人が写真を見てくれるんだ」とひっくり返りましたね。

――それは新たな「架け橋」となるのでしょうか?
 
渡部 もちろん新聞、雑誌、テレビ、広告というようなオフィシャルなものはありますが、それ以外の個人的なものはSNSで肩の力を抜いて、カメラマンとして好きなこと、ひきつけられたことをとにかくどんどん上げていったら、想像もできない入り口から、無限大のストーリーがすでに存在していたんですね。とにかく僕自身の「架け橋」というのは、戦略や戦術、プロモーション、そういうことをあまり考えず、オープンマインドで、スピード感を大事に自分が感じたことをどんどんライブで駆け抜けていく事なのかなと思います。

 これは、20年前、30年前の写真報道の繋げ方とは全然違います。僕は動きがゆっくりなタイプですが、現在は、スピードが持つ力の大切さを強く感じています。

おわりに

 
渡部さんは最新刊『晴れ、そしてミサイル』( ディスカヴァー・トゥエンティワン、2023年10月)の中で、「日本にいながらでも、平和のためにできることはあります。世界を知ること、世界とつながることです」と書いていました。情報の渦の中に飛び込んでいき、皆が「架け橋」の一員になる、それが現代の国際社会で平和をめざす道なのかも知れません。

 最後に渡部さんは、「渡部さんにとって平和とは」という問いに対し、「誰もがやりたいことをやれること。これが平和の絶対条件です」と答えました。それは「幸せ」とも言い換えられるかも知れません。戦場で営まれている小さな日常生活、その中にある小さな幸せを撮り続けてきた渡部さんならではの言葉と言えるでしょう。

今回は限られた時間の中でのインタビューということもあり、渡部さんが見てきた戦場の現実にあまり迫ることはできなかったかも知れません。けれども「もう少し渡部さんの言葉を味わってみたい」と思って著書を手に取っていただければ、記事執筆者としての望外の喜びです。
(聞き手・構成/星顕雄)
 
渡部 陽一(わたなべ・よういち)
静岡県富士市出身。明治学院大学法学部法律学科卒業。1972年9月1日生まれ。学生時代から世界の紛争地域を専門に取材を続ける。戦場の悲劇、そこで暮らす人々の生きた声に耳を傾け、極限の状況に立たされる家族の絆を見据える。イラク戦争では米軍従軍(EMBED)取材を経験。これまでの主な取材地はイラク戦争のほか、ルワンダ内戦、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦、アフガニスタン紛争、コロンビア左翼ゲリラ解放戦線、スーダン、ダルフール紛争、パレスチナ紛争など。ウクライナ戦争が始まって1年半で9回取材に赴いた。

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渡部陽一
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※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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