恋文供養人 第1話「先輩」
***
ギィと不快な音を立ててドアが開く。
「いらっしゃいませ」
相変わらずオールバックが最高にキマっているマスターが、カウンターで頭を下げた。中高生たちに「これがお辞儀だ!」と言いたくなるような、見事なお辞儀だ。
「どうも」
右手を上げて挨拶し、ジャケットをハンガーにかける。カウンターが6席、テーブル3つに椅子がそれぞれ2つずつ。やはり客の姿はない。僕がこのバーに通うようになって丸1年。他の客と居合わせたのは、たった一度きりだ。
「どうぞ」
奥から2番目の席に座った瞬間、水割りが出てきた。通い始めた頃は「今日こそは違うお酒を注文するぞ」と意気込んでいたが、結局はいつも出てくる水割りを黙ってすする。おそらく、それがこのバーの暗黙のルールなのだろう。そのルールを破る勇気は、僕にはない。いや、そもそもこのバーに水割り以外の酒は置いてあるんだろうか。映画とかドラマのイメージなら、カウンター正面のボトル棚にウィスキーのボトルなんかがズラーっと並んでいるような感じだが、このバーは全く違う。並んでいるのは……片方だけの靴、サングラス、小さな飛行機のおもちゃ、空の瓶など、ガラクタのようなものばかり。
店内BGMはなく、僕とマスターの間に、怖いくらいの静寂が流れている。僕は水割りのグラスを弄びながら、エベレストを小さくしたような氷が解けるのを、意味もなくじっと見ていた。薄暗い照明が、時折マスターが磨いているグラスに反射してきらきらと光る。
「そろそろよろしいですか?」
僕は「もちろん」と答えた。これ以上静寂と沈黙が続いたら、窒息してしまいそうだ。
マスターは奥から1枚のレターケースを持ってきて、カウンターの中央に置いた。そして、手の平を広げてレターケースの上に重ねる。
「読ませてもらいますね」
小さく呟き、マスターは目を閉じた。さて、何が飛び出すか。息を殺して待つ。
「潮の香りがします。海の近くに住んでいたんですね。これは……中学1年生の女の子。サッカー部のキャプテンに宛てた手紙です」
「中学1年か……早いな」
心臓がぎゅっと縮まるような気がした。今までの出会いで、かなり若い部類に入る。手紙の内容はどうあれ、それだけで十分辛い。
『先輩、大好きです』
グラスの中の氷が「カラン」と心地いい音を立てる。
「ストレートだなぁ」
「以上です」
「え? それだけ?」
思わずマスターの顔を見る。
「多分、これ以外はあとで書くつもりだったんでしょう」
「なるほど、書き終えないまま……か」
突然、入口の方から女の子が歩いてきた。足音はしない。
マスターが「どうぞ」と促すと、女の子は僕の左隣に、1つ席を空けてにちょこんと座った。白いTシャツにハーフパンツ姿。ショートボブがよく似合っている。Tシャツから日焼けした腕が覗いている。間違いない。運動部だ。
「もしかして、陸上部?」
「うん。短距離」
「かなり速そうだ」
「全国大会出た」
「そりゃ凄いな」
女の子は胸を張った。
「お兄さんは何部だったの?」
「僕は小学校から高校まで、ずっと吹奏楽部だよ」
「へぇ、楽器ができる人ってカッコいい」
「はは」
僕は頭を掻いた。カッコいいなんて言われると、さすがに照れる。チラッとマスターを見ると、少し微笑んでいるような、無表情のような、どちらでもないような顔をしてグラスを磨いている。
ふぅーっと大きく息を吐く。
「死因は?」
僕は遠慮なしに聞いた。
「それを書いてて、アイスを買いにコンビニに行ったら、帰りに信号無視のトラックに……」
「そうか……気の毒に」
それ以上かける言葉がない。慰めの言葉なんて、むなしいだけだ。
「陸上部の練習場所って、サッカーコートのすぐ隣なの。100メートル走って、ゆっくりスタートラインに戻るの。ゆっくり歩きながら、いつも先輩の姿を探してた。『上がれ上がれ!』って叫びながら、サッカーボール追いかけてる先輩を。『上がれ』の意味、私はよく分からないけど……」
「ああ、攻撃に回った時に言う言葉だね。『攻めろ!』みたいな。反対に、守りに転じる時は「下がれ」って言うみたい」
「へぇ、そうなんだ」
今の説明が通じたのか心配になった。自分の口下手を呪いたくなる。
「先輩とは全然話したことないの。小学校が一緒ってだけで。でも、小学生の時も、よくグラウンドでサッカーやってた。サッカーの日本代表選手になって、ワールドカップに出るんだって言ってたみたい」
「日本代表。ワールドカップか……」
中学、高校と吹奏楽に明け暮れていた僕は、将来のことなんて何も考えてなかった。もちろん吹奏楽コンクールで全国大会に出場したいという夢はあったが、中学の時は関東大会で銀賞を取ったものの、高校では県の地区予選大会をギリギリで突破し、県大会で銅賞という、いまいちな結果だった。
「その先輩、大学の時にサッカーをやめてしまったようですね」
マスターがいきなり会話に入ってきて、しかも誰も聞いてもいない情報をブッ込んできた。僕はマスターに、努めて冷静に言う。
「マスター、その情報、今いる?」
「必要ありませんでしたか?」
「必要あるかないかじゃなくて、誰も聞いてないでしょ?」
「それは、失礼しました」
マスターはまたしても仰々しくお辞儀をした。
「どうしてやめちゃったの?」
女の子が聞く。実を言うと、僕も気になっていた。日本代表になって、ワールドカップに出場するという夢を抱いていた青年がサッカーをやめてしまうには、相応の理由があるはずだ。
「試合中に足を怪我して、選手生命を絶たれてしまったようです」
「そんな……」
今にも泣きそうな顔の女の子に何も言うことができず、とりあえず水割りの入ったグラスを口に運ぶ。味を楽しむ気分じゃないが。
「今は仕事の合間に少年サッカーチームのコーチをしているみたいです。未来の日本代表選手を育てたい、と」
顔を上げた女の子が「そう」と言い、大きく頷いた。
「先輩は今、幸せなの?」
女の子が遠慮がちに聞く。
「ええ、ご結婚されて、お子さんが3人いらっしゃいます」
「そっかぁ。よかった……」
女の子は微笑み、椅子から立ち上がった。そのまま2、3歩下がる。
「ありがとう」
そう言って、女の子は消えた。手を振るのが間に合わず、中途半端に上げた手を下ろす。体を正面に戻すと、マスターはボトル棚に置いてあったサッカーボールを持っていた。そのまま「よっ!」と蹴り上げると、サッカーボールは天井に当たる直前にすっと消えた。
さっきの女の子の顔を思い浮かべて、「あのサッカーボールと一緒に成仏できますように」と願う。
再び静寂が戻った。
「中学1年かぁ。何してたかなぁ」
「あなたにとっては、最近のことでは?」
「いやいや、全然最近じゃないって。僕は25歳だよ? まぁ、大昔ってほどでもないけどね」
――25歳。
自分で発した言葉に引っかかる。四捨五入したら三十路じゃないか。IT業界で働きたくて専門学校に行ったものの、就職活動では内定ゼロ。アルバイトしていた古紙リサイクル会社に泣きついて雇ってもらい、気が付けば6年目になった。働き始めた頃は心の中で毎日「さっさと転職決めて辞めてやる」と思っていたのに。
「あ、1つ思い出した」
「聞きましょう」
「中学3年の時、1年の子からバレンタインチョコをもらったんだよね。その、手紙付きで」
「手紙と言うと? いわゆるラブレターですか?」
「そう。『本間先輩のことが好きです』って」
「なるほど。それで、お返事は何と?」
「返事は……しなかった。ホワイトデーのお返しもしなかったよ」
「なぜですか?」
「だって、あの時は自分が他人から、しかも女子から「好きだ」なんて言われるのは初めてだったし、一体どうしていいのか分からなくて。同じ吹奏楽部の、仲のいい先輩と後輩じゃダメなのかなって……」
思春期真っただ中の女子が、男子に「好きだ」とストレートに伝える。きっと後輩は、ものすごい勇気を出して、ものすごいエネルギーを使って、その気持ちを手紙に託したことだろう。僕はその勇気とエネルギーを受け止めることも、返すこともしなかった。いや、できなかった。ただ怖気づいただけだった。
「返事をしないって、ズルいし、薄情だよね」
「返事をするかしないかはあなたの自由ですから、別にいいのでは?」
「でも、手紙を出したらやっぱり返事はほしいでしょ? 何かしらの返事はするべきだったって後悔してる。」
「『何かしら』というのは?」
「そんなの分かんないよ。分かんないから返事しなかったんだから」
「そうですか。失礼しました」
僕は水割りを飲み干した。
「おかわりは?」
「いや、いい」
「では、そろそろ閉めましょうか」
僕は立ち上がった。
「ジャケット、お忘れなく」
「ああ、分かってるよ」
危なかった。言われなかったら忘れて帰っていたかもしれない。
「またのお越しを」
深々と頭を下げるマスターに、「ああ、また」と言い、ドアを閉める。その瞬間、辺りは暗闇に包まれた。
時刻は深夜零時を少し過ぎている。街の光がやたらと眩しく感じるのは、バーの中の照明が暗かったせいなのか、それとも現実世界に戻ってきたからなのか、よく分からない。
「陸上部、か」
アスファルトの上でクラウチングスタートのポーズを取る。
「よーい……スタッ!」
4月の夜風を切って走る。口の中に、かすかに残る水割りの味を楽しみながら。
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