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道長って結局どういう人なの


気高き貴公子・道長 

 歴史学を専攻した身としては、ながらく大河ドラマや歴史小説にはあまり触れないようにしている節があった。それは架空のものであり、娯楽であり、そして先入観を自身に植え付けるものとなりかねないからだ。
 だが、今では毎週日曜日に大河ドラマ『光る君へ』を楽しく視聴している。やはり戦国よりも平安貴族の日々に興味が惹かれるのもあって、まだまだ続くことにもなんらマイナス感情はない。
 ところで、はや30話を越えたところではあるが、当初から感じていたのは、道長の貴公子としての性格についてである。
 藤原道長といえば「この世をば」という和歌でも知られる摂関政治の代表格にして、藤原氏の最大権力を誇った時代の人であろう。

 ともすれば尊大かつ傲慢な“お貴族さま”といったイメージがなされるが、青年期から壮年期に関するこれまでのエピソードにおいて、道長は民を想い、藤原という家を高めることのみに執心な人とは違う、左大臣としてあるべき姿を示し続けている様子。
 すると、やはり絵画などではふくよかな印象のある道長の姿と、現代人である我々の勝手な「道長=最高権力者=傲慢」というレッテル貼りがなされていたのではないだろうか。
 ちなみに、道長への最大のレッテルは、関白に就任したことが無いのに、「御堂みどう関白」と呼ばれていることだが。

『紫式部日記絵巻』Wikipediaより。
一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。
一般に道長というと、この絵が紹介される。

御堂関白記を読む

 そういう疑問を抱きつつ、毎週平安にこころを旅出させている僕は、気軽にその真意へと至れないかと思案し、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス日本の古典」シリーズより刊行されている『御堂関白記』(道長の日記)を購入・読了した。
 このシリーズは、原書にある文章の完訳ではなく、ピックアップする形で翻訳している。
 全体像や重要な記述に関する解説をその分、付け加えていることで、なるほど初心者にとっても古典の入り口としてはやさしいものとなっている。
 
 ちなみに『御堂関白記』は国宝であるのみならず、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)にも指定されているほどの第一級史料だ。
 1000年代の、最高権力者の直筆の日記が残る国は決して多くないことも理由のひとつだろう。
 さて、当時の貴族は日記を書くことを習慣としている。それは僕を含め、今の時代になされるような私的な記録・告白・思索ではなく、むしろ代々受け継がれることをその目的としていた。
 その理由は、家柄によってその職は決まっていたからだ。摂関家という言葉もあるように、先例をその家の子孫が体得できなければ、貴族社会においては愚か者として評される。

画像は公式Xより。
当時の日記は具注暦とも呼ばれる。
暦の上での行事事の注釈とともに、その日の出来事などを記す。

 だが『御堂関白記』を読んでみると、解説もされているのだが、ある二点の特徴が浮かび上がる。
 ひとつは、後々、読まれることを意識していないかのような記述である。具体的には、簡素すぎる内容であったり、道長にとっての政敵の名は登場するが、そこになにがしかの教訓があるかと言えば、いささか怪しい。
 第二に、漢文の稚拙さ
 学者ではないので、万巻の書に明るい必要はない。だが、当時の貴族社会では漢詩も読むreadし、詠むwrite
 にもかかわらず、文法がおかしな部分が多々ある。大臣クラスの家であれば、平安時代にはさほど学問は必須ではなかったのだろうか。
 
 確かに、ドラマ内でも、幼い頃から青年期にかけて漢学が苦手な様子が描かれていた。
 幼い頃の不勉強が、61年の生涯において、変わる事の無かったことを思えば、なるほど勉強はしっかりとしておいた方がいいらしい。

摂関政治はやがて院政へと受け継がれる

 さて、御堂関白とは道長のことだ。彼は後に出家するので、入道としての呼ばれ方がなされもする。
 彼は当時の上流貴族らしく奈良の金峯山寺への巡礼も行っている。それに、晩年は法成寺を建立するなどの事業もあった。
 現在の研究においては、これも道長の権力・権威をより固めるものとして有効であったことは議論されている。
 摂関政治とは、単なる役職であることを越えて、天皇の外戚であることで、より力が強まる、という方向へ時代は動いていった。
 道長が「この世をば」と歌うに至ったのは、三代の帝にそれぞれ、道長の娘が入内している上に、息子は摂政であるなど、朝廷のトップが道長一家で占められていたからである。教科書などでは政略結婚として多々扱われているので、記憶に残っているところであろう。
 
 さて、時代が進むと、より縁戚の近さという意味で、摂関よりも上皇が力を持つ時代がやってくる。その上皇が、出家することによって、王家としての権威だけでなく、仏教勢力の上でも頂点に立つ(法皇)にいたるのが、院としての存在であり、世に言う「院政」のはじまり。
 道長の時代であれば、出家をすれば直接に朝廷へ関わることはできなかったことが分かるものの、院の庁という場が整理されたことで、命令系統として「院宣」が発給されるようにもなり、実権を発揮し得る土壌が成立した。

院政といえば、第72代・白河天皇からはじまる。
ドラマで扱われている地点から系譜を示すと以下の如し。
花山帝→一条帝→三条帝→後一条帝→
後朱雀帝→後冷泉帝→後三条帝→白川帝

 その体制をある意味ではつくったのが、道長といえるかもしれない。
 摂政や皇后、天皇の外祖父。そんな彼は出家したといっても、鎌倉の隠者のように、俗世間との関わりを断たんとしている訳ではない。

 法成寺という寺を建立することによって、引退し、無官となっているにもかかわらず、その存在感を発揮し続けてきた道長という存在には、天皇の神格に引けを取らない。
 むしろ、道長の強味とは、一言にどういった人物かを示せない部分が、天皇の如く、朝廷のトップに長らく君臨させたのではないだろうか。
 もし、単に大胆な人物であれば、それによって失敗もしくは足元をすくわれたであろう。また反対に、裏工作ばかりしていたとしても、それでは人心がついてことない。そこにこそ、道長という歴史的事象を読み解く意義が解される。

 

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