しゅうしん

”孤独の俳人” 尾崎放哉が残した名句は、いまもなお色あせることなく輝いています。『尾崎…

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”孤独の俳人” 尾崎放哉が残した名句は、いまもなお色あせることなく輝いています。『尾崎放哉全句集』を鞄につめこみ、「100年の孤独」をテーマに一句一枚の写真を撮りにでかけています。

最近の記事

100年の孤独/放哉に想う〈Vol.28〉 格子の外の大空も

公園のベンチに腰掛けていますと、親しげに寄ってくる鳩がいたり、突然ベンチに飛来してくる雀がいます。そんな動作から、ここで餌をやる人がいるのだと気づかされます。 家の近くの広場にも、日が傾き出したころに初老の男性がやってきてタバコをぷかりとやりながら、缶チューハイ片手に鳩や雀にパンくずをあげている光景を目にします。ちょっと侘しい感がなくはないのですが、生き物との触れ合いに、ある種ぬくもりを感じているのでしょう。 この句は社会人として生きた時代の放哉の苦悩を詠んでいるのでしょう

    • 100年の孤独/放哉に想う〈Vol.27〉 蓮の花の咲くとき

      まだ朝の暗いうちから蓮池の前で開花の瞬間を待っていました。 蓮の花が咲くときは音がする、という話を聞いたことがありました。しかし、それはまったく根も葉もない話なんだと思いました。 開花のときは、それはそれは静かなあり様で、自力というよりかは、花びらの重みで一枚一枚ゆっくりとほどけていく、そんな印象でした。 この句は、蓮華浄土の観想を秘めたものではなく、夏の朝光を斜めに浴びたただただ生命感あふれる姿を直截簡明にとらえたものだと感じます。

      • 100年の孤独/放哉に想う〈Vol.26〉 夕にしおれる木槿のように

        1922年(大正11年)、放哉37歳のとき知人の推薦で朝鮮火災海上保険株式会社の支配人となります。任地は京城(ソウル)、5月の時節でした。韓国の国花は木槿です。そのことが関係しているのかどうか・・・放哉の句のなかには、木槿を詠んだ句が割合多くあります。 新天地での生活も結局1年足らずで幕を閉じます。誓約させられていた禁酒が守れず、社長から解雇を命ぜられたからでした。 朝咲いて夕にしおれる木槿のように、放哉の居場所はもうどこにもなかったのでした。

        • 100年の孤独/放哉に想う〈Vol.25〉 静寂な水面のたたずまい

          1914年(大正3年)、29歳の放哉は東洋生命保険株式会社大阪支店に次長として赴任したと年譜にあります。そして住居は天王寺であったとあります。 就職して4年、将来を嘱望されていた放哉はそれなりの職位を得て、妻馨との新生活を送っていたことでしょう。 しかし、大阪転勤を機に潮目が変わってきます。新たな職場での人間関係に強く悩まされることになります。それが影響したかどうかわかりませんが、1年足らずで東京本社に戻されたあげく、役職は解かれ平社員となります。 年譜によると、東京に戻っ

        100年の孤独/放哉に想う〈Vol.28〉 格子の外の大空も

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.24〉 小豆島南郷庵を偲ぶ Ⅳ

          「放哉さんのお墓」と立札に書かれたその墓石は、あまり大きくはありませんが、良い石質だと素人目にも感じられました。そして正面には「大空放哉居士」、左側面には「大正十五年四月七日入寂」と流麗な文字で刻まれていました。帰り際、鮮やかな色の仏花に目が留まりました。 写真中央と右後方にあるピラミッド型に積み上げられた墓石は無縁墓です。四国遍路と同様、ここ小豆島にもお大師さんの信仰があり、南郷庵は小豆島霊場第58番札所西光寺奥の院でした。 かなり前になりますが、高知の五台山竹林寺に参っ

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.24〉 小豆島南郷庵を偲ぶ Ⅳ

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.23〉 小豆島南郷庵を偲ぶ Ⅲ

          当時放哉が過ごした南郷庵は古くていたんでいたようです。天井や壁の隙間から、ヒューヒューと風が吹き込み、ギシギシ、ミシミシとどこかしこが鳴り出す始末だと、入庵雑記には書かれています。 南郷庵(現「小豆島尾崎放哉記念館」)の裏手に廻ると、「西」の字の紋入り瓦が積まれていました(写真)。本寺の西光寺から一字をとった軒瓦でしょうか……木漏れ日のなかに100年の光陰を感じたのでした。 放哉は入庵雑記の最初のところで、奉供養大師堂之塔(石碑)についてこう書いています。 「此の発願主円

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.23〉 小豆島南郷庵を偲ぶ Ⅲ

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.22〉 小豆島南郷庵を偲ぶ Ⅱ

          いまから30年前の1994年(平成6年)4月7日の放哉忌に「小豆島尾崎放哉記念館」が開館しました。そう、ここは放哉が大正14年8月から8カ月間過ごした西光寺奥の院南郷庵です。そこを当時のままに復元したと同館のリーフレットに書かれていました。 全句集のなかでも詠まれている庵の大松は、1976年(昭和51年)に松くい虫によって枯れてしまい、その後、植え替えられて現在の松(写真)になったそうです。2代目とはいえ、四方に伸びた力強い枝ぶりに往時を偲ぶことができました。 南郷庵を訪れ

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.22〉 小豆島南郷庵を偲ぶ Ⅱ

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.21〉 小豆島南郷庵を偲ぶ

          小豆島土庄町に放哉の墓を訪ねました。 放哉終焉の地となった西光寺南郷庵は今、尾崎放哉記念館となっています。同記念館を扇の要に平地から高台へと共同墓地は西に広がり、その中腹辺りの一角に放哉の墓石はありました(写真)。 墓前にはワンカップの日本酒が3本と缶ビール1本、しおれかけた花と松葉が添えられていました。 そして放哉の句にならい、墓のうらに廻ってみました。 記念館配布の「放哉さんのお墓案内図」説明文にはつぎのように書かれていました。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.21〉 小豆島南郷庵を偲ぶ

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.20〉 束の間の眠りに誘われ

          病室の扉を開けたとき、聞こえてきたのはひどく苦しそうな母の息づかいでした。 ベッド脇に置かれた医療機器から幾本ものコードが伸び、先端は母の体に貼り付けられていました。機器は時折警告音を鳴らしていました。おそらく血圧や血中の酸素濃度が著しく低下しているに違いない、と思いました。  わたしは母の手を握り、祈りました。 病室で一人腰掛けながら、わたしは母を見つめていました。 寝不足のせいか、ついうとうとと頭を垂れて寝入ってしまいました。 しばらくすると遠くから波の音が聞こえてきま

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.20〉 束の間の眠りに誘われ

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.19〉 病を得て時を知る

          写真の米アンソニア社製の時計は100年間、時を刻み続けています。1900年前後につくられたといいますから、放哉が生きていた時代、ひょっとして同社製の時計をどこかで見ていたかもしれません。 人は病を得て時を知る、ということをこの句から感じます。無限の時の流れのなかで、ゼンマイを巻けば時計の針が限られた時間だけ動くように、人もまた限られた生命をどう生きるか――。その一端をうかがわせるような文章が『尾崎放哉 随筆・書簡』(放哉文庫 春陽堂)のなかにあります。それは明治39年、放哉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.19〉 病を得て時を知る

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.18〉 子どもと自然が響き合う

          寄せ返す波の動きにあわせ、子どもたちの足もせわしなく、前へ後へ行ったり来たり。ころがる波との戯れは、多くの人が幼いころに経験されたことでしょう。そんな光景を詠んだと思われる一句に、子どもと自然の小さな響き合いを感じます。 この句は、大正5年(1916年)放哉31歳のときの作品です。明朗快活な印象さえありますが、これから先、放哉は”死の陰の谷”を歩むことになります。ただ、その間に作句されたものこそ放哉を放哉たらしめていく自由律俳句だとされています。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.18〉 子どもと自然が響き合う

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.17〉 強い光と深い陰影

          美術館の入口へ向かう通路の途中で、ふとガラス越しに見えたブロンズ像(写真)。それは、アメリカの彫刻家 ジョージ・シーガルが1983年に制作した『Rush Our(ラッシュアワー)』という作品でした。都市の群像に漂う孤独と孤立、そして人間疎外を十全に物語っていました。 句は、放哉が保険会社に勤めていたころの風景を詠んだものでしょうか。ときは大正ロマン、大正デモクラシーと呼ばれた時代でした。活況を照らしだす強い光は、同時に深い陰影を落としたことでしょう。シーガルの作品のように。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.17〉 強い光と深い陰影

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.16〉 うつろの心をもつ人は

          とある駅構内で人型ロボットがインフォメーションの受付に立っていました。物珍しさに人の足は止まり、施設案内を利用している人たちがいました。50年前ならともかく、100年前には想像もつかない光景だと思います。世の中はいま、人手不足や出生率低下など、やせ細る日本社会の問題に対し、官民挙げて取り組みだしたところです。 「うつろ」を空ろとするか、虚ろにするかでニュアンスは違ってきますが、あとにくる助詞の「の」からすれば、やっぱり前者のほうが妥当であるように思います。 からっぽの心を感

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.16〉 うつろの心をもつ人は

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.15〉 海は母そのものでした

          放哉は山より海が好きでした。「~海を見て居るか、浪音を聞いて居ると、大抵な胸の中のイザコザは消えて無くなつてしまふのです。~」、そして放哉は、海が荒れて、乗った船が微塵に砕けても怖くはなく、むしろ、自分はやさしい海に抱いてもらえることに満足するだろう、と『入庵雑記』のなかで書いています。 放哉にとって海は母そのものでした。 つづけて『入庵雑記』にはこうあります。 「~母の慈愛――母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於ても、全力的であり、盲目的であり、且、他の何物にもまけ

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.15〉 海は母そのものでした

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.14〉 孤独の鍵が開いたとき

          1918(大正7)年、放哉33歳のときに作られた句です。この年の2月、師の荻原井泉水への書簡に「これからの俳句は『芸術より芸術以上の境地を求めて進むべきだ』」と抱負を書き送っています。大正4年末からこの時期まで、師の井泉水が創刊していた自由律俳句誌『層雲』への投句や、句会にも積極的に参加していたようです。しかし、翌8年に発表句は途絶えることとなります。 自由律俳句に込める情熱が高まる一方、本業の会社勤めは、酒癖の悪さから職務専念義務を果たさず、3年後の大正10年10月1日に辞

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.14〉 孤独の鍵が開いたとき

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.13〉 小さきものに目を止めて

          草も木もない橋の欄干の上を尺取虫は歩いていました。こうやって地を這うときが、この虫にとって一番の試練なのかもしれません。翅を得て好きなところを飛び回り、好きな相手を求めて宙を舞う。それまでは、ひたすら胴を持ち上げ前へ、前へと進みつづけるしか仕様がないのでしょう。 小さきもの、取るに足らないものに目を止め、放哉は句を詠んでいました。自らの孤独を確かめるように。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.13〉 小さきものに目を止めて