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100年の孤独/放哉に想う〈Vol.14〉 孤独の鍵が開いたとき

児等が帰りしあとの机淋しや

尾崎放哉全句集より

1918(大正7)年、放哉33歳のときに作られた句です。この年の2月、師の荻原井泉水への書簡に「これからの俳句は『芸術より芸術以上の境地を求めて進むべきだ』」と抱負を書き送っています。大正4年末からこの時期まで、師の井泉水が創刊していた自由律俳句誌『層雲』への投句や、句会にも積極的に参加していたようです。しかし、翌8年に発表句は途絶えることとなります。
自由律俳句に込める情熱が高まる一方、本業の会社勤めは、酒癖の悪さから職務専念義務を果たさず、3年後の大正10年10月1日に辞職したことが年譜にあります。そして、年譜はこう続きます。「後に知友宛ての手紙には『最早社会に身を置くの愚を知り、社会と離れて孤独を守るにしかず』と書いている。」――”孤独の鍵が開いた”そんな印象を受ける記述です。

このとき放哉と妻・馨との間には子どもはいませんでした。
句には、そのことへの淋しさが少なからずあったのかもしれません。


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