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理の夏休み。

 理の額を、汗がしたたる。尻のポケットからぶら下げたタオルを抜き出し、汗を乱暴に拭った。
「…ふぅ」
ビルの清掃のアルバイト。夏休み中のこの時期は繁忙期で、地獄のような忙しさだった。
 換気のために開けている窓も部屋の片面しかなく、風通しは悪かった。そして、その窓から直射日光が容赦なく部屋に入ってくる。しかも、電気代をケチったビルのオーナーから「冷房をつけるな」とお達しがあり、まさに蒸し風呂状態だった。加えて、ホコリを吸い込まないためにマスクをしているので息苦しく、何度も気が遠くなった。

 「はぁー」
たまらず、窓から頭を出してマスクを外し、大きく息をする。新鮮な空気を体に取り込んで少しスッキリしたが、その空気は生ぬるく、不愉快だった。
 ふと、下を見下ろす。浴衣姿の女の子が二人、楽しそうに歩いていた。どこかで花火大会でもあるのだろうか。そんなふうに想像する。
「夏休み、早く終わんねぇかなぁ」
楽しそうな女の子たち。ホコリまみれの自分。その差に、そう嘆いた。そして、再びマスクをし、仕事を再開した。

 「お前も苦労人なんだろうけどよ、大人になってからの苦労とはワケちがうぞ」
休憩中、社員のおじさんに声をかけられた。理は「そうですか」と適当な返事を繰り返すが、おじさんは構わず話し続けた。
「生きるために働いたりよ、家族のために色々我慢したりよ、大変だぞ」
「へぇ」
そう、適当に頷く。その「大人の苦労」というのを、俺は今してるんだ。
「一緒にすんじゃねぇ」
そう、心の中でつぶやいた。

 「はぁ~」
夜。バイト終わり。帰りの電車が駅に辿り着き、降りる。仕事で歪んだ体を「ん~」と背伸びをして縦に直した。
「よし、帰ろう」
改札を抜け、自販機で飲み物を買う。アイスのカフェラテ。カフェラテの甘味が、疲れた体に染みわたる。
夜だが、空気はまだ暑い。その暑さと喉の乾きですぐに飲み干し、缶をゴミ箱に放り込んだ。
「さて、帰ろう」
帰り道を歩き出した。

 「…ん?」
駅からの帰り。いつも通る公園の隣の道。その公園が賑わっていた。
「…あぁ、お祭りか」
その様子に、仕事中に見た浴衣姿の女の子を思い出す。
「ちょっと寄ってみるか」
家に帰ったところで仲の悪い両親がいるだけだ。理が公園に入った。

 公園に入ると、その人の多さに少し驚く。いつもは小さく見える公園が、その日は大きく見えた。
 お祭りを楽しむ人たちは、浴衣や甚平、デート用のおしゃれな格好ばかり。その中で、ホコリにまみれた作業着を着ている事に少しの居心地の悪さを感じたが、お祭りの空気は楽しかった。

 「かき氷でも食うかなぁ」
やはり、空気の暑さから冷たいものが食べたくなる。かき氷の屋台の列に並んだ。

「…たけぇな」

かき氷の、お祭りのイベント価格にそう思う。財布を開くが、残金が心もとない。
「やっぱりやめます、すいません」
屋台のおにいさんに頭を下げ、そそくさと立ち去った。

 「…はぁ」
人だかりを離れて公園の端っこのベンチに座り、お祭りを楽しむ人たちを眺める。みんな笑顔だった。

 人混みの中で、男の子と女の子が遊んでいた。女の子の手に持っている赤い風船が目立っていた。

 その様子に、懐かしさを感じる。そういえば、お祭りなんていつぶりだろうと思った。小学生の頃は友達と来た気がする。もっと小さい頃は母親と来たような気もするが、覚えていなかった。
「…帰ろう」
昔を思い出し、懐かしさを越えて寂しさと切なさを感じ始めた。こうなるとまずい。明日からも戦わなければならない。なのに、ネガティブな気持ちを持ってしまうと自分が弱くなる。そうなると戦いが辛くなる。この気持ちに飲み込まれる前に退散しよう。そう思い、立ち上がろうとした。
 
 「…ねぇ、おかあさん、どこ?」
そのとき、声をかけられた。目の前に、いちごのかき氷を両手に持った小さな男の子がいた。
「ん?」
「僕のおかあさん、どこ?」
「…はぐれたのか?」と聞く。男の子は、首を横に振った。
「おかあさんがいちご好きだからね、買いに来たら、いなくなっちゃった」
「それをはぐれたと言うんだ」と思ったが、子供に言ってもしょうがないと思い、飲み込んだ。
 「どうしたもんかな」と悩んだ。迷子の対応などしたことがない。一緒に探してあげるか。それともお祭りの運営スタッフのテントに行けばアナウンスしてもらえるか。そう考えた。
「おかあさん、どんな人だ?」
「とってもやさしいよ!」
テントに行こう、と決めた。しかし、この子の母親も探しているだろうし、そうなるとテントに行けば会える可能性は高いなと思った。

 「よし、じゃあ行くか」
「おかあさんとこ?」
「おかあさんがいるかもしれない所。もしいなかったら、呼んでもらおう」
「うん」
男の子の持つかき氷は溶け始めていた。
「急がなきゃなぁ…」
そう、つぶやいた。
「そうだね、おかあさん、心配してるもんね」
平然とそう言う男の子に思わず笑う。
「おかあさん、いつも言うんだ。『子供の心配しない親はいない』って」
理の顔から笑顔が消える。
「おにいちゃんも、ひとりなの?」
「ん?うん」
「じゃあ、おかあさん心配してるね」
そう言われて返事に困り、「お前のおかあさんは優しいな」と頭をなでた。
男の子は、「うん!」と笑顔になった。

 「かい君!」
二人の後ろから声が聞こえ、振り返る。男の子が「あ、おかあさん!」と笑顔になった。おかあさんは、若くてキレイな人だった。背が高く、スラッとしている。そのスタイルに藍色の浴衣がとても似合っていた。そして、とても優しそうだった。「優しそうな人」で探したら見つかっただろうなと理は思った。
「もう、どこ行ってたの!心配したでしょ!」
おかあさんがすぐに駆け寄る。男の子は「ね?」と理を見上げた。「そうだな」と小さく笑う。
「『ね』じゃないでしょ」
おかあさんの語気が少し強くなった。男の子が俯く。
「あの、怒らないであげてください」
理が言う。
「おかあさんが好きだからって、かき氷買いに来たんですって。今は、怒らないであげてください」
おかあさんが、男の子の両手に握られたかき氷を見る。ほとんど溶けてしまっていた。
「…もう」
それでも、おかあさんは嬉しそうに笑った。

 「でもね、かい君が悪い人に連れていかれたら、おかあさん、悲しいよ」
「おにいちゃん、悪い人なの?」
男の子が理を見上げる。
「あぁ、お前を誘拐するかもしれないぞ」
そう返す。
「ふふふ」
笑ったのは、おかあさんだった。理が「え?」と気にする。
「会社の名前丸出しで誘拐する人は、いないんじゃないでしょうか」
そう言い、理の胸元を指差した。作業着には、会社の名前がはっきりと書いてある。
「あぁ」
理が、恥ずかしそうに笑う。

 「すいません、お礼が遅れました。本当に、ありがとうございました」
おかあさんが理に深く頭を下げる。
「いえ、そんな。会えて良かったです」
「こんなものしかないんですけど…」
そう言って、小さな缶のリンゴジュースを取り出した。男の子が「僕も飲みたい!」と言うが、「かき氷あるでしょ」とたしなめられていた。
「ありがとうございます。のど乾いてたので嬉しいです」
男の子には悪いが、かき氷を我慢したことで喉はカラカラだった。理がリンゴジュースを受け取った。缶は汗をかいていたが、冷たくなかった。おかあさんも、必死に探したことがうかがえる。
「本当に、ありがとうございました」
「またねー」
二人はそう言い、おかあさんは頭を下げて男の子は手を振った。理は、それぞれに同じ挨拶を返した。
「行くよ」
おかあさんが手を引き、二人は歩き出した。おかあさんのスラッとしたキレイな後ろ姿に、松下を思い出していた。そして、浴衣姿もきっと素敵に違いないと想像していた。学校の音楽の先生である松下に、夏休み中に会えるはずもなく、一目会うことも叶わない。
 リンゴジュースの缶を開け、一口飲んだ。ジュースは、ぬるくなっていた。

「夏休み、早く終わんねぇかなぁ」


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