ファン。

 「ふぅー」

 ステージの袖で大きく息を吐く。何度経験しても、本番の前は緊張する。

 ステージでは、男女混合のスリーピースバンドが演奏している。ボーカルの女性が二人の男性ミュージシャンの演奏をバックに力強く歌い上げ、会場を熱く沸かせていた。

 この盛り上がりに、これから一人で出ていく自分を想像すると少し心細くなり、緊張も大きく感じる。
 
 こういう時は、客席からは見えないように会場を覗く。自分の味方を探すのだ。
「…あ」
いつも、僕のライブに来てくれる女性を見つけ、少し安心する。
 その女性は、ステージ近くの盛り上がる集団から少し離れて、フロアの端の方で静かに聴いてくれている。
 ギター一本だけを持ち、僕の言葉が伝わることを願いながら歌っている僕には、そういう聴き方をしてくれる人の存在は、とても嬉しい。

 もちろん、別の出演者のファンである可能性もあるが、別の場所でライブをした時も来てくれていたので、僕のファンだと思っている。もし違ったとしても、勝手にそう思い込むことで、心の拠り所としていた。

 バンドの演奏が終わった。三人が、大きな拍手を背にステージから降りてくる。「おつかれさま!」とハイタッチで迎える。
「次、たのんだよ!」
ボーカルの女性からエールをもらい、ステージに飛び出た。

 マイクの前に、ギター一本だけを持って立つ。それまであんなに心細かったのに、ここに立つと力が湧いてくるから不思議だ。
 ちらりと、あの女性を見る。目が合った気がして嬉しくなった。
「…逆じゃないか?」
普通は、ファンがアーティストと目が合って喜ぶものだ。しかし、そんな呑気な事を考えたことで、気持ちがリラックスした。

 演奏を始める。僕の言葉が届くように。僕の気持ちが伝わるように。丁寧に、言葉を紡いでいった。

 「最高だったよ!」

ステージから下がると、あの女性ボーカルがそう迎えてくれた。その一言に、安心する。

 ライブが終わり、会場を出る。「今日も良かったぞ」とライブハウスのオーナーが見送ってくれた。

 ライブの興奮の余韻を感じながら、帰り道を歩く。熱くなった体と気持ちに、夜の涼しい空気が心地よかった。

 歌い終わった後の拍手。僕の歌に耳を傾けてくれるお客さんの目。ステージを降りた時の仲間たちの歓迎。そして、あの女性の笑顔。

 それらを思い出し、胸にあたたかいものを感じていた。

 「…あれ?」

 その時、僕の前を、あの女性が歩いていたのを見つけた。こういう時、いつも困る。
 街で自分の知り合いを見つけた時もそうなのだが、声をかけていいのか、それとも、知らないふりをしたまま追い抜いた方がいいのか考えてしまう。
 
 声をかけて相手の時間を奪うのも気が引けるし、そのあと話題が続かなかったら気まずくなる。だから、気づかないフリをして通り過ぎようかとも思うのだが、追い抜く時に相手に気づかれれば、無視した嫌なヤツだと思われかねない。

「…あっ」

 対応を迷っている間に、その女性の上着のポケットから何かが落ちた。女性は、気づかずに先に行ってしまう。
「あの、落としましたよ」
少し声を大きくして言うが、届かなかったようだ。慌てて、落ちたものを拾う。それは、白いハンカチだった。そして、女性に追いつき、「すいません」と肩をたたいた。

「うあっ!」

彼女は声を上げて驚き、振り返った。彼女の目が、まっすぐに僕を見る。
「あの、落とし物です」
そう言って、差し出す。彼女はまだ気持ちが落ち着いていないのか、驚いた顔のまま、僕の顔とハンカチを交互に見た。そして、事態を把握すると「あぁ」と返事とも言えないような声を出した。
 そして、両手で大事に受け取ると、何度も深く頭を下げた。申し訳なさそうなその様子に、「いえ、そんな」と僕も曖昧に返す。
「…じゃあ」
なんだか気まずくなり、そそくさと立ち去る。
「後ろからいきなりはまずかったかな」
驚かせてしまったこと。そして、それをうまく謝罪できなかったことを後悔した。

 そして、あの彼女の反応は、決して嬉しそうではなかった。それを考えると、僕のファンだというのが勝手な思い込みだったということを裏付けている気がする。

 次のライブで、あの女性の姿を見たとき、どんな顔をすればいいのだろう。そう思い、寂しくなった。

 次のライブの日。その日も、僕の出番はあのスリーピースバンドの次だった。心細さは感じるが、客席は覗けなかった。

「今日もたのんだよ!」

女性ボーカルからエールをもらい、ステージに立つ。
「…あ」
ぱらぱらと散らばるお客さんの中に、あの女性を見つけた。フロアの端っこに、いつものように静かに立っていた。
 そして、目が合う。微笑んでくれた。その笑顔に安心する。すると、白いハンカチを小さく振った。その様子を見て嬉しくなり、微笑みが浮かんだ。微笑みと言えるほどの小さな笑顔じゃなかったかもしれない。
 力が湧いてきた僕は、演奏を始める。いつもよりも、上手く歌えた気がした。

 「おい、ファンレター来てるぞ」
ライブハウスを出ようとしたところで、オーナーに呼び止められる。
「よかったな。かわいい子だったぞ」
そして、ニヤニヤと笑いながら手紙を差し出してきた。
「ありがとうございます」
そう受け取る僕も、ニヤニヤと笑っていたに違いない。

 ファンレターなんてもらうのは初めてで、ドキドキした。いつもの興奮の余韻にそのドキドキが加わり、どうやって家に帰ったかわからない。それぐらい、僕は嬉しかった。
 家に帰り、すぐにそのファンレターの便せんを開き、手紙を読んだ。

「先日は、ハンカチを拾っていただいてありがとうございました」

その一文で、あの女性だと気づいた。嬉しくなって、読み進める。

「そして、親切にしていただいたのに、お礼も言えずに申し訳ありませんでした」
そんなことありません、と、心の中で返事をする。
「でも、あなたのファンである私は、とても嬉しかったんです」
そこを読んで、嬉しくなる。あの女性がファンであることは、僕の思い込みではなかったのだ。それを知って、心が跳ねる。

しかし、次の一文で、その気持ちが落ち着いた。

「私は、耳が聞こえません」

書いてあることが信じられなかった。三回ほど読み返してから、次を読み進める。

「なので、実際には、あなたの奏でるギターの音も、歌声も聴こえていません。これを伝えると、冷やかしで来てると思われるかもと思って、今まで言えませんでした」

 予想もしなかった内容で、少し頭が混乱する。しかし、次の一文は、はっきりと頭に入ってきた。

「でも、あなたの歌は全部伝わっています」

嬉しさと、少しの疑問を持ちながら、読み進める。

「あなたの歌い方は、口の動きがとてもわかりやすくて、とても言葉がわかりやすいんです。だから、歌詞は全部わかります。その、とても、言葉を大事に歌われてる姿が大好きで、ファンになりました」

 僕は、とても嬉しくなった。僕が歌う上で一番大事にしていることを、あの女性は理解してくれていたんだ。そこが伝わっているなら、それが、耳を通してか、目を通してかは、大きな問題ではない。

「突然、こんなことをすいません。もう来るなと言われるなら、諦めます。あなたの優しい歌が、たくさんの人に届くことを願っています」

手紙は、そう締めくくられていた。

 次のライブの日。
開場前に、ライブハウスの前で待つ。彼女が来てくれることを願っていた。
 彼女が現れる。小走りに駆け寄ると、少し緊張を浮かべた。
「いつもありがとうございます。これからも応援してくれたら嬉しいです」
 そう書いたメモを見せる。彼女は、安心したように笑ってくれた。
 その笑顔を見てから、返事を書いた手紙を渡す。彼女が、便せんを開いて手紙を読む。
 手紙には、突然驚かせしまった事への謝罪と、お礼はあの時にちゃんと伝わっていたこと、それから、手紙をもらって嬉しかったこと、自分の歌が伝わっていることが嬉しいことを書いた。
 手紙を読んだ彼女が顔を上げ、小さく微笑んでくれた。
 その笑顔を見て、手に持ったメモをめくる。
「今日も、楽しんでください」
そう、書こうとして、手を止めた。代わりに、口を大きく動かして言う。

「今日のライブも、楽しんでください」

彼女は、「あい」と返事をして、微笑んでくれる。その笑顔で、自分の気持ちが伝わったということを伝えてくれた。

 ライブが始まる。スタンドマイクの前に、ギターを一本持って立つ。
 会場のはじっこに、彼女の姿を見つけた。
 
 僕は歌う。

僕の歌が届くように。僕の言葉が伝わるように。


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