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介護施設のバザールとクラブ 介護施設の課題Ⅴ
介護施設には障がい老人たちと介護職員等の職員たちがおります。
この施設空間で織りなされる人間関係、社会関係がどのようになっているのか興味のあるところです。
1.「公-私」/「バザール‐クラブ」の区別
(1)入居者にとっての施設空間
入居者にとって、介護施設は基本的には共同生活の場です。
この共同生活空間はある意味、かしこまった公的な空間ですが、この公的空間だけでは入居者は息苦しくなってしまうのではないでしょうか。
介護施設での私的な空間は個室が考えられますが、この私的空間が他から隔絶された個室だけだとすれば、介護施設には人間関係が希薄な孤独な空間しかないということになってしまいます。
公的でもなければ、「孤」的でもない和気あいあいとした私的な空間が介護施設には必要だと思います。
(2)職員にとっての施設空間
また、職員にとって、介護施設は職場ですので公的なものです。
しかし、ベテランの多い職場になると、そこは、ため口が飛び交い、楽しげな、たわいもないお喋り空間であったり、中傷やゴシップが飛び交う空間であったりもします。ある意味、公的な空間が職員にとって私的な空間に変質していることもあるようです。
(3)「公」と「私」の区別
介護施設に入居者の和気あいあいとした私的空間(「場」)を創っていくためには、まずは、「公」や「私」という概念について整理した方が良いかなと思います。
私的領域・空間・場とは、他者に干渉されない「場」であって仲間同士が気儘に振舞えるリラックスした領域・「場」と言えるでしょう。
これに対して、公的領域・「場」は、他者に気を配る必要のある領域、場ということになると思います。
朱喜哲(哲学者)さんはリチャード・ローティ―((Richard McKay Rorty、アメリカの哲学者1931年- 2007年)の「バザール」と「クラブ」という概念を紹介してくれています。この概念も「公」と「私」という概念と密接に関連していると思います。
① バザールとは
公共空間たるバザールには、その場所に高いメンバーシップをもつ個店の店主や顧客もいれば、流れの行商に新規客、よそ者、そしてスリに至るまで、おのおのがいだく目的にいてまったく一致しないようなひとびとが無数に集まっています。
そこでは、内心がどうであれ、商売上の必要性やせいぜいマナーの観点から、愛想笑いを浮かべ、社交的にふるまう必要があります。
バザールは市場という意味で、売り買いする雑多な人々が行き交う場所というイメージだと思います。
この「バザール」は公的領域・場で、当然、他人のことに配慮して、自らの発言や行動を自制したりしなければならない場です。人間はこのような公的な場・バルールだけでは息苦しくなってしまうと思います。このバザールに対してクラブとは次のようなものだと朱喜哲さんは紹介しています。
② クラブとは
・・・わたしたちは、そこから「退散」して駆け込むことのできる私的空間――基本的な価値観(善構想)を共有しており、したがって容易に共感でき、また共感されることによって安らぎを得ることができる――「メンバー制クラブ」があります。そこは、気心の知れた間柄ならではの直截で、たがいを慮った豊な会話がなされ、それぞれの人生観や心情にたちいった深いコミュニケーションが営まれうるような場です。
イメージは会員制クラブでしょうか?クラブには特定の知合いの会員しかいませんので、仲間内の、多少他人の悪口を言っても許される場ということでしょう。
③ クラブとバザールの混合
もちろん実際的には、「バザール」か「クラブ」かではなく「バザール」100%から「クラブ」100%までのグラデーションがあると思います。例えばバザールの要素が25%で、クラブ要素が75%とか・・・
介護施設では、私的な場であるクラブと公的な場であるバザールを適宜、適切に混ざ合わせる工夫が必要でしょう。
私は、施設の公的な行事や外部の人たちとの交流などが介護施設にバザール性をもたらすものだと思っています。
コロナ禍以降、介護施設は地域社会から隔離され、施設全体としてのバザール性、公的な領域、公的な場が乏しくなってしまいいました。
入居者たちからは、クラブという親密な場も、バザール的な社会的・公的な場も剥ぎ取られ、アガンベンの言う「剥き出しの生」の棲家、「孤」の棲家となってしまっているのかもしれません。
施設の閉鎖性が強まったせいで、職員たちにとっては、より濃厚なクラブ、私的な空間、私的な場になってしまったのではないかと、危惧しています。
2.家庭的・家族的介護は介護施設のクラブ化
さて、介護施設で入居者にとっての「クラブ」はありえるのでしょうか。
介護施設には「バザール」しかないとすれば、人間関係的に安らぐ場がないということになってしまいます。入居者は24時間、365日、職場にいるようなものです。これでは、休まるところがなくなってしまいます。
入居者は職員たちの職場の居候ということになってしまいます。
そこで、模索されているのが家庭的・家族的介護施設です。
入居者が、より安らぐことができるようにと「家庭的」介護を模索する施設があります。介護施設を家庭的にすることで「クラブ」化しようとしているのです。
家庭的・家族的な介護を謳い文句にしてる介護施設は多いと思います。これは、介護施設を「クラブ」化しようということだと思います。
この施設の「クラブ」化の落とし穴は、本来的に非対称的な関係性(抑圧的、権力的、暴力的)にもかかわらず親密な関係性に意図的に転換しようとすれば、それはDV (domestic violence)的な関係性となり、職員たちがabuse/虐待に鈍感な親爺化する怖れも出てくるということです。
問題は、介護施設での家族メンバー、「われわれ」に入居者が入っているのか、ということです。
「われわれ/やつら」関係のなかで入居者は確実に「われわれ」として認識されるのか、「やつら」化する恐れはないのかということが気になるのです。
例え家族介護を標榜しているとしても、職員が「われわれ」と認識しているのは自分たち職員だけで、入居者は「われわれ」の中に含まれていない怖れがあると思います。
ようするに、介護施設で職員が「わたしたち」と言ったときに、その「わたしたち」に入居者は含まれているのか?、ということなのです。
家庭的介護施設は、ただ単に、職員同士の気軽なため口、悪口が飛び交う慣れ合いの空間にすぎなくなる怖れもあるのではないでしょうか。
もちろん、東浩紀(評論家・哲学者)さんの次のよう「家族」という概念には再定義の可能性が有り、この再定義された「家族」概念を用いて家族的介護について、じっくりと考えていきたいと思っていますが・・・
家族とは閉じた共同体だと考えられてきた。けれども本論では、家族を、閉ざされた人間関係ではなく、訂正可能性に支えられる持続的な共同体を意味するものとして再定義したい。
訂正可能性に支えられた「家族」、つまり「われわれ」の範囲を拡大していける「家族」の在り様やその条件について非常に興味のあるところです。
3.言葉遣いに乗っ取られる
「バザール」と「クラブ」では当然、言葉遣いが異なってくるでしょう。「バザール」では仕事用の礼儀正しく、丁寧な言葉を遣いとなりますし、クラブでは砕けた言葉遣い、馴れ馴れしい言葉遣いになるのが当たり前です。
そして、人は言葉遣いに乗っ取られることがあると、谷川嘉浩(哲学者)さんは次のように指摘しています。
朱さんの「言葉遣いに乗っ取られる」って、自分も経験あるのでよくわかります。政治学ではよく、軍隊用語を使うんです。動員とは戦略とか。ああいった話に触れ続けると。たとえば人間を数字として扱う発想に慣れちゃうんですよね。
・・・そのボキャブラリーに乗っ取られているということなのかもしれません。目の前の人がみえなくなっていしまうんですね。
介護現場での言葉遣いは、ひょっとして、指示・命令口調や、終助詞の「~ね」を多用するパターナリスティックな言葉づかいが多いのかもしれません。
終助詞の「ね」については以下をご参照願います。
朱喜哲さんはローティの哲学の中心テーゼを「人間は受肉したボキャブラリーである」としています。
「受肉」は英語でincarnation、神であり聖霊であるところのキリストが人の形をとって現れたことを意味します。これと同じように、物理的な存在ではないことばづかいや語彙が、具体的な姿形をとって現れたのが人間であり、文化であり、社会なのだ、ということです。
さて、介護現場でよく使うボキャブラリー(語彙)はというと、思いつくままに列挙してみます。
「ニンチ」「BPSD」「作話」「妄想」「易怒性」「暴力的」「失禁」
「弄便」「~できない」「ダメになった」「落ちた」「転倒」「リスク」「誤嚥」「頑固」「わがまま」「ハラスメント」「拘束」「ADL」
「自立度」「アセスメント」「ケアプラン」「カンファ」「サ担会議」
「訴え」「ニーズ」「食介」「陰洗」「水分補給」「支援」「療養」
「リハ」「与薬」「疼痛」「軟便」「血便」「導尿」「摘便」「褥瘡」
「栄養摂取」「食形態」「食箋」「評価」「要介護度」「自立度」etc
介護現場のコミュニケーションは、専門用語、業界用語で埋め尽くされています。介護を生業としているので当然と言えば当然ですが、このボキャブラ―が介護に関わる人たちを規定し、形作っています。
これらのボキャブラリーをよくみると、記述的、科学的、客観的なボキャブラリーが多く、入居者を対象化する、客観化する、評価するボキャブラリーです。
これらのボキャブラリーが受肉し、職員たちはヒトを対象化、客体化する人間として立ち現れるのだと思われます。
ここに、入居者の主観、実存が蔑ろにされる危険性が潜んでいるような気がします。
4.職員に必要な複数の「クラブ」
職員にとっての介護施設は原則的には「バザール」に他なりません。
本来、職員にとっては「バザール」であるべき介護施設を職員にとっての「クラブ」にしてはいけないのだと思います。介護施設は職員にとっては「バザール」、職場という公的空間なのです。
ですから、職員たちは職場の外に「クラブ」が必要です。
朱喜哲さんは、人には複数の「クラブ」が必要だとし、これは公共的な課題でもあると指摘しています。
哲学者リチャード・ローティは、多様な人が集まる「バザール」と、メンバーシップのある「クラブ」に喩えて、パブリックとプライベートの話をしているんですね。それでいうと、人は自分のクラブを複数持ちうるということが大事な点だと思います。クラブそのものは私的なレベルの話ですが、誰にとっても「自分のクラブ」が複数あるようにすること自体は、公共的な課題です。
職員にとっての「クラブ」が職場の人たちとの飲み会だけというのは、少々寂しいことだと思います。職員にとって必要な「クラブ」とは、趣味とか、ボランティアとか、社会活動とかの職場とは異なるボキャブラリー、言葉遣いの「クラブ」が望ましいと思います。
三宅香帆(文芸評論家)さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社)2024年4月30日が、発売1週間で累計発行部数10万部突破ベストセラーになっています。
三宅香帆はさんは、明治期から現在までの読書傾向、ベストセラー、仕事と労働史をとおして、労働のあり方につい提案してくれているのですが、全身全霊で働くことを美化するのではなく、「半身で働く」ことの大切さを説いています。
介護の仕事で「半身で働く」のは困難だと思いますが、職場以外に複数の「クラブ」に参加し、職場で使わないボキャブラリー、言葉遣いに触れ、ボキャブラリーを豊かにすることは、介護労働者にも必要だと思うのです。
以下のnoteも併せてご笑覧願います。
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