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介護・人間関係論Ⅵ.パターナリズム


1.相互関係を毀損するパターナリズム

 パターナリズム(paternalism)は温情的父権主義、温情的庇護主義と訳されています。
 パターナリズムとは当事者(お年寄り)のために、お年寄りに代わって、お年寄りにとって善いと思われることを、介護職員などの第三者が責任を持って決め、実施することです。
 これは善意に基づく行為ですので、パターナリズム的な行為を行っている者は、自分は善き行いをしていると信じています。

 高齢者介護におけるパターナリズムは、お年寄りを保護の対象とし、子供扱いしてしまいます。

 パターナリズムにより、自分たち、プロの職員が責任を持って判断し、実施しようとするため、お年寄りの言うことに耳を傾けなくなりがちです。
 パターナリズムの症状が進めば、お年寄りの存在さえ無視するようになるかもしれません。
 その結果、お年寄りの願いや思いをないがしろにし、お年寄りの尊厳、自尊心を傷つけてしまうことになります。

 そして、介護が介護される者(お年寄り)と介護する者との相互行為なのですが、パターナリズムは、必ず、相互関係を一方的な関係へと変質させ、毀損《きそん》してしまいますし、介護関係における関係の非対称性、権力関係を、職員自身に対して隠蔽することにもなります。

 良い介護か否かを判断するのは、介護を受ける当事者(お年寄り)に他なりません。
 この当事者の主権、主体性を決して蔑ろにしてはいけないのですが、パターナリズムという病は当事者の主権、主体性を蔑ろにしながらも、介護者のプライドをくすぐり、快感を与える麻薬のようなものなのです。

 良い介護を継続して行うためには、いつの間にか忍び寄ってくるパターナリズムとの戦いが必要です。

2.パターナリズムは虐待の温床

 パターナリズムはabuse/虐待の温床でもあります。

 パターナリズムにより職員は当事者(お年寄り)を子供のように庇護すべき存在としてぐうするようになります。そこには母親、父親のような優しさがあるのですが、子供でもない者を子供扱いし、お年寄りの主体性、自尊心を傷つけてしまうことになりかねません。
 そして、お年寄りの主体性、自尊心を傷つけることに鈍感となり、慣れてしまうことで、abuse/虐待の遠因になってしまうのです。

 子供扱いするということは、本来、平等であるべき関係性を大人と子供という上限関係にすることで、相手の話、訴えに真摯しんしに向き合えなくなります(子供の話を聞いても仕方ない)。
 そして、相手の話、訴えを無視し、やがては、ネグレクト(neglect;放置)、abuse/虐待に繋がっていく怖れがあるのです。

 職員が疲れ果てている時、精神的に追い詰められている時、イライラしている時、しつこく訴えてくる当事者(お年寄り)に対して、一線を越えて罵声を浴びせかけたり、暴力をふるったりするようになり、abuse/虐待がエスカレーションしていきます。

 まさに、パターナリズムは虐待の母なる大地、温床でもあり得るのです。

3.パターナリズムの色はパステルカラー

 気分、感情,情動,思考等は表情に現れます。誰でも、日々、相手の表情から感情などを読み取っています。
 パターナリズムも、表情と同じように、しっかりと目で見ることができます。なにげない行為の背景に無意識があるように、無意識的な行為、表現をとおして、パターナリズムを垣間見ることができるのです。

 例えば、パターナリズムは色に現れます。日本の介護施設の内装等の色合いや職員の制服等の色合いに、パステルカラー(Pastel Color)、淡い色が多用されています。

Pastel Color

 このパステルカラーはデパートの売場で言えば、ベビー用品売場の色調です。パステルカラーには、柔らかく軽やかな印象や、心身を和ませる癒し効果があると言われています。
 例えば、ファッションにパステルカラーを取り入れると、愛らしさや親しみやすさを感じさせることができるのだと言われています。

 介護施設でパステルカラーを多用するのは、無意識に母親みたいな優しさ、柔らかさを強調したいからでしょう。この母親みたいな優しい気持ちは自然に当事者(お年寄り)を子供扱いするようになります。

このパステルカラーにパターナリズムの萌芽ほうがを疑うことができます。

 パステルカラーを多用している介護施設で、飾りつけやレクレーションや接し方が子供仕様の場合、その介護施設は確実にパターナリズムに感染していると言えるでしょう。

 色には心理的効果や主張がありますが、パターナリズムに感染している経営者、管理者、職員は無意識にパステルカラーを選択してしまうのではないでしょうか。

パターナリズムは目に見えるのです。

4.子供じみた飾りつけ

 介護施設でよく見かかるのは、幼稚園や保育園のような幼稚な子供じみた飾りつけです。とても、大人のための飾りつけとは思えないような飾りつけがあまりにも多すぎるのです。

子供じみた飾りつけ

 何故、子供じみた飾りつけになるのでしょうか?

 このような飾りつけは、パターナリズムの無意識的な表出なのです。
 当事者(お年寄り)のことを保護すべき人たちとして、いとおしく思い、大切に思い、優しい気持ちで一所懸命、残業までして飾りつけした結果、子供じみた飾りつけになってしまっているのです。
 もちろん、職員は善意に溢れ、一所懸命であることは強調しておかなければなりませんが・・・

 しかし、残念ながら、このような子供じみた飾りつけは、お年寄りたちにふさわしいものでしょうか?
 大いに疑問が残るところです。

 いずれにしても、この子供じみた飾りつけは、職員が当事者を子供かのように扱い、接している証拠、つまり、パターナリズムの証拠なのです。
 
 介護施設の飾りつけは、施設の職員たちの無意識・欲望を表しています

 パターナリズムは目に見えるのです。

5.子供仕様のレクレーション

 介護施設、デイサービスセンター等で行われているレクレーションにもパターナリズムが影響しています。

 多くのレクレーションが子供じみていると思います。レクレーションで用いられる用具、レクレーションの内容やルール、司会等々、全てが、子供仕様が多いのです。

子供仕様のレクレーション

 子供のころは、紙で人形を作って遊ぶことができます。紙で将棋の駒を作って遊ぶこともできます。子供は素晴らしい想像力の持ち主です。

 しかし、大人はその豊かな人生経験から物の価値、本物を知っています。
 大人は将棋盤や将棋の駒の出来栄できばえ、質感も含めて遊びを楽しむものです。ですから、大人のレクレーションの用具は質の良い本物の方が良いに決まっています。

 レクレーションが子供仕様である原因は、職員達のパターナリズムにあると思います。ですから、一所懸命に子供じみたレクレーションを行っているのでしょう。せめて、司会くらい大人仕様でお願いしたいものですが・・・

 レクレーションや行事が、子供仕様か、大人仕様か、常に注意を払う必要があります。

パターナリズムは目に見えるのです。

6.終助詞「ね」「よ」について ~聞こえるパターナリズム~

⑴終助詞「ね」

 介護施設等の 職員はよく語尾に終助詞の「ね」を付けます。「山田さん、お菓子を食べでください」「山田さんトイレに行きましょう。」などというように。

終助詞「ね」

 この終助詞の「ね」や「よ」についての学問的議論はそれなりに興味深いものがありますが、私はこの介護現場での「ね」の使い方が非常に気になるのです。あくまでも私の個人的感覚ですが・・・

 「ね」は「聞き手を同調者としての関係に置こうとする主体的立場の表現」とされています。
(滝浦真人2007.2.28『終助詞「か/よ/ね」の意味機能とコミュニケーション機能』麗澤大学言語学研修センター第31回研究セミナー発表)

 この終助詞「ね」は、関係が非対称的な介護現場では「聞き手は同調して当たり前」「あなたは、よくわかっていないかも知れないけれど、私が責任をもって言うのだから、当然、同調するよね」という教育的、指示的なニュアンスが強くなっています。

 また、「ね」を語尾に付けると、子供に何かを言って聞かせるような柔らかく優しい感じにもなります。つまり、語尾に「ね」を付けるのは優しい気持ちで相手に接しようとしているからでしょう。
 
 しかし、それは、まさしく、相手を子供扱いしている表れです。
 終助詞「ね」にはパターナリズム的心情が見え隠れしているのです。

 例えば、普通、目上の人に対して「お茶を飲んでください」「事務室に行って下さい。」などと言ったら、失礼でしょう。
 目上の人に対しては、たぶん、「お茶を召し上がって下さい。」「事務室においで下さい。」でしょう。
 目上の人にだけではなく、同僚に対しても、普通は「ね」は付けません。「お茶を飲んで下さい。」「事務室に行って下さい。」でしょう。

 「ね」を語尾に付けるのは、決して悪気わるぎがあるからではありませんが、そこにパターナリズムが潜んでいないか、立止まって自らの心根こころねを内省する必要があります。
 終助詞の「ね」をとおして、パターナリズムを醸成じょうせいしていくことにならないように細心の注意が必要です。

(2)終助詞「よ」

 介護現場で、お年寄りに対して、「指示形、禁止形、教育調」で応答する職員がいます。たまにですが・・・

 「ご飯食べなさい。」「起きなさい。」等々、終助詞「よ」は聞き手に対して、話し手の意志や判断を強く押し付ける表現です。
(前掲論文参照)

 もちろん、介護現場での終助詞「よ」の使用の背景にも、相手が子供のように「庇護しなければならない者」という思い込み、決めつけがあるのです。
 終助詞「よ」もパターナリズムを表すものなのだと言えるでしょう。
終助詞「ね」に比べるとあまり、優しい表現とはいえませんが・・・

(3)終助詞「か」

 私は「ね」や「よ」を「か」に変えた方が良いと思っています。

 終助詞の「か」には、質問や疑問の意の他に、勧誘・依頼の意も表す。
 そして、「か」は話し手(職員)より聞き手(当事者;お年寄り)に主導権を与えるニュアンスがあると思われるからです。

 「トイレに行きましょう」は、確かにトイレに行くことを勧めていますが、行くかどうかを決めるのは聞き手ということになります。
 これに対して、「トイレに行きましょう」は話し手に従って聞き手がトイレに行って当たり前だというニュアンスがありますし、「トイレに行け」に至っては強制以外のなにものでもありません。

「終助詞は話し手の心的態度の表現形式」と言います。(前掲論文参照)

 終助詞の「ね」や「よ」は職員の心的態度をつまり、パターナリズムを表していると思います。

 いずれにしても、職員の声がけに耳をそばだてなければなりません。

 パターナリズムは聞こえるのです。

7.パターナリズムに抗する当事者概念

 介護業界には、介護サービスを利用する者を、利用者、利用者様、ご利用者様、お客様、ゲスト、入所者、入居者、ご入居者、ご入居者様、レジデント等々様々な呼称があります。

 私は、介護という事象を考える際には、上野千鶴子[1]さんの当事者(the party involved)という概念が、介護を分析的に検討する上で有効な概念だと思っています。
(参照:上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』太田出版 第3章 当事者とは誰か 及び 中西正司・上野千鶴子2003『当事者主権』岩波新書)

 社会的弱者である障害を持ったお年寄りはパターナリズム(温情的庇護主義)により、当事者能力を奪われてきました。
 この奪われてきた自己決定権を主張するために当事者主権という用語が作られたと言います。ある意味、当事者とは、パターナリズムと戦うための概念装置のようなものでもあります。

 当事者(the party involved)とは、「ニーズの帰属する主体」と定義されます。つまり、当事者とは、自己のニーズを充足されるべき権利の主体であり、ニーズの帰属先であると言うことです。

 以下の文章は、当事者とニーズについて包括的な関係性を明示してくれていて感動的でさえあります。

上野千鶴子 2011年『ケアの社会学』

『当事者とはニーズの帰属する主体(ニーズの帰属と主体化)と定義されている。当事者とは「問題を抱えた人々」と同義ではない。問題を生み出す社会に適応していまっていては、ニーズは発生しない。ニーズとは、欠乏や不足という意味からきている。私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるのではなく、つくられる。ニーズをつくるというのは。もうひとつの社会を構想することである。

(上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』太田出版 p80)

 「ニーズはあるのではなく、つくられる。」「ニーズをつくるというのは、もうひとつの社会を構想すること」であるならば、「当事者という概念装置は、パターナリズムに抗して、もうひとつの介護、もうひとつの介護施設を構想すること」につながらないでしょうか?

 当事者という概念装置は、介護の問題を考えるとき、「お年寄りが権利の主体であることを忘れるな」と迫るものです。

 念のため記しておきますが、なにも、今まで「ご利用者様」と呼んでいたものを「当事者様」と呼べということではありません。
 介護について考えるとき、「当事者」という概念を使用した方が問題の所在、検討の方向性をはっきりさせることができるということです。

 より良い介護を目指す際に、いつの間にか忍び寄ってくるパターナリズムを意識し、駆除していくことがとても大切なのです。


[1] 上野千鶴子(1948年~)は、日本のフェミニスト・社会学者。専攻は、家族社会学・ジェンダー論・女性学。東京大学名誉教授。

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