介護・人間関係論Ⅴ.見る事と見られる事 ~眼差しの暴走~
1.介護職員は見る専門家
介護職員は介護の専門家として入居者を客観的、科学的に観察し、評価し、適切な目標を立てて、計画的に介護サービスを提供するように訓練されています。実際に、実行できているかどうかは別問題[1]としても介護職員は当事者を客観的、科学的に見る専門家なのです。
この客観的、科学的に見ることの問題点は別の機会に考察してみたいのですが、ここで指摘したいのは、彼ら・彼女らは、見ることに一所懸命のあまり、自分たちが入居者から見られているということをあまり意識できていないということです。
2.介護職員は当事者の環境を形成している
介護は介護される人(当事者)と介護する人の相互行為ですので、当然、入居者も介護職員の表情、態度、行動を見ています。
「今日の職員は機嫌が悪そうだな。」
「今日の、夜勤は嫌な奴だな。」
「あの職員がいると雰囲気が悪くなるな。」等々
入居者は職員を見ていますので、職員の表情、態度、行為等々は入居者の環境を形成していると言えます。
自分たちの表情、態度、行動が、入居者者に影響を与えているということをしっかりと受止め、認識する必要があります。
今日、入居者の山田さんが昼食を食べなかったのは、食欲が無かったからではなく、介助する職員の態度が悪かったからかも知れないし、介助方法が悪かったかも知れません。
山田さんの食欲が無いのは、口腔内の問題があるのかも知れないし、消化器の疾患かも知れないし、疲労や薬の副作用かも知れません。
または、「山田さん、しっかり食べないと死んじゃうよ。食べるの?食べないの?食べないのなら下げてしまうからね。後でお腹すいたと言っても知らないよ。」と職員に脅されて気分が悪くなり、食欲が無くなってしまったのかも知れません。
当事者の行為や気分は彼らの内因的な要因だけではなく、職員の表情、態度を含めてた外因的な要因も深く関係しているということを再認識する必要があります。
3.見られていることの忘却
介護現場での視線、まなざし、見ることについて考えるとき、サルトル[2]のまなざしの哲学的議論は参考になると思います。
サルトルによると、相手を見る、相手にまなざしを向けるということは、相手を客体化(一方的な働きかけの相手)するということです。
人は、他者を見ることによって、自分が主体で、相手が客体であるという関係(主体-客体関係)を成立させます。
要するに、見る私(職員)が主役ということです。
しかし、入居者も介護職員を見ているのです。この場合は入居者が主役です。
さて、介護職員が入居者から見られているということを忘却してしまえば、介護現場は常に介護職員が主役であって、当事者は客体に過ぎないということになってしまいます。
介護現場で見ることに憑りつかれた職員は、介護施設の主役となり、客体化された入居者を蔑ろにする怖れがあります。
これは、個々人の倫理の問題ではありません。介護現場のパノプティコン的構造[3]がそうさせるのです。介護の非対称的な関係がそうさせるのです。
介護職員が常に、「自分たちは入居者から見られている」ということを意識することは、当事者の尊厳にかかわることす。
4.ファッションが大切なわけ
私は、職員が入居者に観られているということを意識するうえで、職員のファッションがとても大切だと思っています。
鷲田清一(哲学者・大阪大学名誉教授)さんはファッションについて次のように指摘してます。
ファッションは自己表現であり、他者からどう見られているかを強く意識するものです。ファッションの基本は、他者目線ということでしょう。
ファッション好きの方は、そうでない方の2倍は鏡を見ているように思います(冗談です)。
ファッションだけではなく、身嗜みをきちんとするということは、他者の目線を意識するということにつながります。
制服にも良い点はありますが、私は、服の方が良いように思っています。それは、ファッションセンスを磨けるからです。
職員が当事者(入居者)に見られる存在であることを強く意識してもらうために、職員のバックヤードに鏡を置いて、職員がサービスヤードに出る前に自らの表情、身だしなみをチェックする習慣をつけることを、私は、推奨したいと思います。
職員は入居者の前に出る前に、自分の表情、身だしなみをチェックし、ニコリと微笑んで、自分の微笑みを確認してから入居者の前に立つべきでしょう。
[1] 多くの介護施設で施設サービス計画などが形骸化しているのは周知の事実。
[2] サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre 1905年~1980年)フランスの哲学者
[3]パノプティコン(panopticon:一望監視施設)のような構造。
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