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介護・人間関係論Ⅲ コミュニケーション行為としての介護


1.「偽会話」はメタ・コミュニケーション

 介護は当事者(介護される者)と職員(介護する者)との相互行為であるため、介護は対面的なコミュニケーション行為を必須とします。
 しかし、コミュニケーションもままならない当事者(お年寄り)の介護にあっても「介護はコミュニケーション行為といえるのか。」という疑問を持つ人もいるかも知れません。

 認知症介護の現場で良く使われている用語に「偽会話ぎかいわ」というのがあります。「偽会話」とは、認知症高齢者同士の間で、一見会話をしているようだけれど内容としては噛み合っていないものを指します。

例えば、次のような会話です。

Aさん「昼ご飯食べたましたか、」
Bさん「爪が伸びてしまって爪を切りたいんですよ。」
Aさん「お腹すきましたね。」
Bさん「そうそう、昔、私、マニュキュアしてたんですよ。」

 そして、この「偽会話」は会話の流れ・内容は支離滅裂なのに、同調的・迎合的な雰囲気をお互いが一方的に作り上げて、情緒的に良好な交流をしていると思われます。

 私は、認知症介護でよく知られるこの「偽会話」は内田樹[1]さんが紹介しているローマン・ヤコブソン[2]の「メタ[3]・コミュニケーション」「交話的機能」だと思います。

『人間はいろいろなかたちのコミュニケーションを行うけれど、その中には「コミュニケーションのやり方を指示するコミュニケーション」というものがある。「メタ・コミュニケーション」とか「コミュニケーションのコミュニケーション」とかとか、さまざまな術語で表現されるけれど、要は、そこで語られているメッセージの「コンテンツ[4]」ではなく、そこでメッセージが行き来しているという「コンタクト[5]」の事実確認が優先するようなコミュニケーションのことである。これをローマン・ヤコブソンは「交話的機能」(fonction phatique)と名づけた。』

内田樹 2004「他者と死者―ラカンによるレヴィナス」

 

内田樹 2004「他者と死者―ラカンによるレヴィナス」(海鳥社)

 内田樹さんはヤコブソンの具体例を示していますが、これが実に微笑(ほほえ)ましいのです。

『交話的コミュニケーションの一例としてヤコブソンは「新婚夫婦の会話」をあげている。
「さて」と青年は言った。
「ええ」と彼女。
「着いたよ」と彼。
「着いたのねえ」と彼女。
「そうさやっと来たんだよ。」と彼。
「ええ」と彼女。
「うん、そうさ」と彼。
 彼らの間を行き来することばはただ一つの「欲望」しか運搬していない。それは、「私たちの間にはコンタクトが成立している。」という事実を確認したいという欲望である。コンタクトが成立していること、相手のことばを聴き取ったことを相手に伝える最も確実な方法は相手の言ったことばを繰り返すことである。』

(引用;内田樹2004「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」海鳥社 p35、36)

 以上、紹介した交話機能、メタ・コミュニケーションも立派なコミュニケーションの一つです。

 ならば、認知症の方のメタ・コミュニケーションを「偽会話」と呼ぶには少々抵抗感があります。
 なにしろ「偽」ではないからです。メタ・コミュニケーションのメタ(Meta)には超越したという意味もあるので「超会話」くらいにしたらどうでしょうか。

2.コミュニケーション障害はインペアメントかディスアビリティか?

 障害には、本人自身の問題であるインペアメント(impairment)と、本人ではなく社会環境に問題があるディスアビリティ(disability)の二種類があります。
 熊谷晋一郎さんは自閉スペクトラム症[6] (Autism Spectrum Disorder 以下「ASD」と略す。)の診断基準が「社会的コミュニケーションの障害」となっており、そのコミュニケーション障害が周囲の環境とは切り離された本人自身の固有の問題であるインペアメントだとされていることに異議を唱えています。
 同氏は、ASDは他者関係における障害が根本にあり、他者関係における視覚触発(他者の眼差しのようなものを感受する現象)を受け取れないことが障害の基底にあるという、一般に流布(るふ)している説を紹介しています。要するに、ASDはコミュニケーション障害が根本にあり、それはインペアメントだということです。

 しかし、同氏は、ASDの基底にあるのは定型発達者[7]いわゆる健常者との知覚等の認識の「解像度」の違いだとしています。
 ASDの人の知覚認識は高解像度でそれをまとめ上げるのが困難で時間を要するのだと。
 この辺の議論はとても面白いのですが、その議論はさておき、要するに、熊谷晋一郎さんはASDのコミュニケーション障害はインペアメントではなくディスアビリティ(社会環境に問題がある障害)だと主張しているのです。少々長くなりますが以下に紹介します。

「コミュニケーション障害は、インペアメントなのかそれともディスアビリティなのか。素朴に考えてディスアビリティですよね。なぜなら、気心の知れた相手なら発生しにくいけれど、相性の悪い人とならコミュニケーション障害は発生しやすいからです。あるいは共通前提がない人や、文化的背景が異なる人であれば発生しやすく、そうでなければ発生しづらい。他者は私にとっての環境の一部です。そして、環境である他者と私の間に発生する相性の悪さであるコミュニケーション障害は、・・・ディスアビリティだと考えられます。」

(参照:國分功一郎・熊谷晋一郎2020「<責任>の生成-中動態と当事者研究」新曜社 p213,216,217)

 さらに同氏は、ディスアビリティとしてのコミュニケーション障害の例を次のようにあげています。

 「横暴な上司との間にコミュニケーション障害があるとか、問題のある職場の中で周囲とのコミュニケーションがうまくいかないとか、家父長的でDV 傾向のある夫とのコミュニケーションが取りづらいなど、コミュニケーション障害といっても本人より環境の側にこそ変わるべき責任がある場合はあります。」

(引用:國分功一郎・熊谷晋一郎2020「<責任>の生成-中動態と当事者研究」新曜社 p52,53)

 ここから学ぶべきことは、当事者(お年寄り)にコミュニケーション障害があったとしても、それはインペアメントではなくディスアビリティ、つまり、環境や受取側の問題という側面が大きいということです。

 ASDといえばコミュニケーション障害(インペアメント)というレッテル貼り[8]がなされていますが、そのレッテルには問題があります。高齢者介護でも同じことです。コミュニケーション障害とレッテルを貼られた人も受取側に問題のあるディスアビリティかも知れないのです。

「偽会話」つまり、メタ・コミュニケーション自体も、通常のコミュニケーションではありません。「偽会話」しかできない当事者はコミュニケーション障害があると判断されます。その結果、職員がその当事者とのコミュニケーションを諦(あきら)めてしまう恐れがあるのです。しかし、メタ・コミュニケーションもコミュニケーションであることを忘れてはいけません。

介護は対面的なコミュニケーション行為を必須とするわけですが、コミュニケーション障害を有する当事者への介護では、コミュニケーション行為は成立しないと考えるのは早計です。  

 私が介護における当事者のコミュニケーション障害にこだわるのは、職員がコミュニケーション障害を理由として、当事者とのコンタクト(情緒の交換を含む)を取らなくなることを恐れるからです。
 コミュニケーションの相手とみなされなくなった当事者は、もはや交流できる人(当事者)ではなくなり、Abuse/虐待の対象になりかねません。それが怖(こわ)い。

3.「声がけ」が介護を変える

(1)コミュニケーション困難者とのコミュニケーション

 介護は対面的なコミュニケーション行為なのだが、介護の現場にはコミュニケーションもままならない当事者(お年寄り)もおります。
 「コミュニケーションができないのだから仕方がないだろう。」と決めつけて、黙々と介護している職員も多いのです。
 しかし、認知症の「偽会話」でも明らかですが、コミュニケーションもままならない当事者であっても、メタ・コミュニケーションをとおしてコンタクトを成立させる可能性はあります。

 介護は対面的なコミュニケーション行為を必須とし、当事者と職員が同じ時間、同じ空間を共有し、「共にある」こと、それ自体が手段であり目的なのです。であれば、メタ・コミュニケーションをとおしてでも「共にある」ことを交歓[9]することは必要最低限のことでしょう。

 職員はたとえ認知症でコミュニケーションが困難だと思われる当事者だとしても、メタ・コミュニケーションを試みるべきでしょう。それが相互行為としての介護、相互コミュニケーションとしての介護の本質に係わることなのですから。

(2)「声がけ」はコミュニケーションの端緒

 介護の基本に「声がけ」がある。介護行為の事前オリエンテーションを「声がけ」といいます。介護行為の前にこれからどのような介護行為をするのかをアナウンスしたり当事者に協力を求めたりするのです。

例えば、「車椅子に乗りましょう」「服を着替えましょう」「ご飯を食べましょう」「お風呂に入りましょう」「頑張って立ち上がりましょう」「右手を上げましょう」「口を開けてください」「ゴックンと飲み込んで下さい」等々。

 そもそも、「声がけ」とは、声を掛けること。作業などで、互いに声を掛けて注意を促し合うことです(weblio辞書参照)。要するに、「声がけ」は呼びかけ、連絡等を意味し、コミュニケーションの端緒たんしょ[10]となるものです。

(3)意識がハッキリしない人への「語りかけ」

 また、「声がけ」は「語りかけ」だともいえます。
 語りかけるということは、相手に対し能動的・積極的に話しかけること、働きかけること、関係していくことです。

 介護現場において、寝たきりで意識もあるのかどうかわからない当事者にベッド周りを整理整頓するときに、「〇〇さん、今日はいい天気ですよ。ご機嫌はいかがですか。これからベッドと床頭台を綺麗にしますので、お邪魔します。」と「声がけ」「語りかけ」する介護職員がいます。
 これは、当事者の返事を期待して「声がけ」「語りかけ」しているのではありません、当事者を人として認め、コンタクトを取ろうしている行為なのです。

 このような行為を見て、相手から返事があるわけないのに、無駄なこと、意味のないことだと思う人は、介護に向かないでしょう。

(4)「声がけ」は自分を変える

 「声がけ」では自分が発した「声がけ」を自分で聞くことになります。
 みずからが発した優しいトーン[11]の「声がけ」が自分を優しい者、当事者の隣人[12]にすることがあります。

 例えば、自分が歌った歌を、自分で聞いて自分が癒されることがあるように、発した声は自らの環境となり、自らを変えることがあるのです。

「声がけ」は介護が相互コミュニケーションであることによって要請されているものであり、「声がけ」は、ただ単に相手への働きかけのみならず自分へ影響を与えるものでもあるのです。

(5)「声がけ」が聞こえてこない介護施設

 残念ながら、省力化・効率化に邁進(まいしん)している業務計画至上主義の介護施設ではこの「声がけ」が聞こえてきません。職員たちは黙々と淡々と無言で素早く介護しているのです。
 人は犬や猫や小鳥などのペットに「声がけ」・語りかけをするのに当事者(認知症や寝たきりで意識のハッキリしていない人)には「声がけ」すらしないのです。これでは当事者は「物」同然でしょう。

 介護の基本である「声がけ」もしなくなった自信満々の介護職員は当事者(お年寄り)とのコンタクト・交流、傍(そば)にいることを拒否しているのです。それはもはや介護ではありません。
 より良い介護を目指すのであれば、まずは「声がけ」してみることです。その声が当事者(お年寄り)を変え、職員を変え、介護を変えるのです。たぶん、「声がけ」は介護職員が思っているよりもはるかに重要なのです。

4.コミュニケーション行為の省力化・効率化は可能か?

 介護は当事者(介護される者)と職員(介護する者)との相互行為であるため、介護は対面的なコミュニケーション行為を必須とします。ですから、当事者と職員が同じ時間、同じ空間を共有する、つまり、「共にある」ことそれ自体が手段であり目的となります。

 介護のコミュニケーションとしての性格は、他の家事サービスの場合には成り立つような省エネ化、省力化、効率化となじみません。
 もちろん、介護ロボット、各種モニタリング機器などを用いることで介護者の腰痛予防やある程度の省力化はありうるでしょうが、基本的には、コミュニケーション行為である介護が省力化、効率化できるとは考えにくいでしょう。
 介護においては、省力化、効率化が困難なのは介護の本質にかかわることです。

 最近のAI[13]やロボット、ICT[14]の導入による人員配置基準の緩和を求める大手介護企業の主張は、介護の何たるかを理解できない人たちの戯言たわごととしか言いようがありません。
 経済思想家の斎藤幸平さんの以下の文章が十分すぎる反論になっていないでしょうか。

「ケア労働の部門において、オートメーション化を進めるのはかなり困難である。ケアやコミュニケーションが重視される社会的再生産の領域では、画一化やマニュアル化を徹底しようとしても、求められている作業は複雑で多岐にわたるため、イレギュラーな要素が常に発生してしまう。このイレギュラーな要素はどうしても排除できないため、ロボットやAIでは対応しきれないのである。これこそ、ケア労働が「使用価値」を重視した生産であることの証(あかし)である。・・・中略・・・例えば、介護福祉士は単にマニュアルに即して、食事や着替えや入浴の介助を行うだけでない。日々の悩みの相談に乗り、信頼関係を構築するとともに、わずかな変化から体調や心の状態を見て取り、柔軟に、相手の性格やバックグラウンドに合わせてケースバイケースで対処する必要がある。」

(斎藤幸平2020『人新世の「資本論」』集英社新書p313)

 また、上野千鶴子さんの次の言葉も真摯しんしに受止める必要があります。

「育児ロボットを考え付く人はいないのに、介護ロボットを考え付く人がいることは、このコミュニケーション行為としての介護の性格を無視した、高齢者差別のあらわれであろう。」

(上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』太田出版P139)

 理美容サービスにおいて、10分間で散髪するのは上等な理美容サービスと言えるのでしょうか。確かに廉価れんかな理美容サービスであって、それなりの存在価値はあるでしょうが、品質の高い、上等なサービスとは言えないでしょう。
 飲食業でも、注文すればすぐ食事が出てくるファストフードは廉価で存在価値はありますが、品質の高い、上等なサービスとは言えません。 

 省力化・効率化が原理的には相応ふさわしくない介護にあって、スピードを求める介護施設があります。
 業務計画至上主義の施設です。
 例えば、単位時間内に、なるべく多くの入居者の食事介助を行えば介護の省力化、効率化に繋がります。しかし、それは良い介護ではありません。食事介助のスピードを上げればそれは食事介助ではなく、もはや、えさ介助であり、不適切介護であり、abuse/虐待です。

そもそも、当事者(入居者)はスピードを求めていません。

 同じ時間と空間を共有し、相互コミュニケーションが必須の介護には過度な省力化・効率化は本末転倒なのです。
 介護において省力化・効率化を徹底的に推し進めようとするのは、ラーメン専門店がお客にインスタントラーメンを出そうとするようなものなのです。


[1] 内田樹(1950~)は、日本のフランス文学者、武道家(合気道凱風館館長。合気道七段、居合道三段、杖道三段)、翻訳家、思想家。

[2] ローマン・ヤコブソン(Roman Osipovich Jakobson 1896~ 1982)は、ロシア人の言語学者。ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学など多数の大学で名誉教授を務めた。

[3] メタとは「あとに」という意味の古代ギリシャ語の接頭辞。転じて「超越した」、「高次の」という意味の接頭辞で、ある学問や視点の外側にたって見る事を意味する。

[4] コンテンツ(contents)とは「内容」や「中身」のこと。

[5] コンタクト(contact)とは関係、交際、人との接触、連絡を取るということ。

[6] ASD自閉スペクトラム症は多くの遺伝的な要因が複雑に関与して起こる生まれつきの脳機能障害。症状としては言葉の遅れ、反響言語(オウム返し)、会話が成り立たない、格式張った字義通りの言語など、言語やコミュニケーションの障害が認められることが多い。

[7] 定型発達( typical development, TD)とは発達障害でない多数派の人々を意味する用語。

[8] レッテルを貼るとは、ある人物などに対して一方的・断定的に評価をつけること。(goo国語辞書)

[9] 交歓とは、人が集まってともに楽しむこと。互いにうちとけあって楽しむこと。

[10] 端緒とは物事の始まり。いとぐち。手がかり。

[11] トーン(tone)とは 音、音調。 色調。 物事全体から感じられる気分・調子。

[12] 隣人:ルカ福音書10章25節から37節に隣人についての善きサマリア人のたとえがある。イエスは律法学者の「隣人とは誰か」という隣人の定義についての質問に対し、「誰が隣人となったのか」という行為についての質問に転換し、外国人であるサマリア人が強盗に襲われて半死半生のめにあった旅人の隣人になったというたとえ話。「隣人」と訳されたギリシャ語は本来「近くに、そばに」を意味する副詞。

[13] AIとは、Artificial Intelligence(アーティフィシャル・インテリジェンス)の略称。Artificialは「人工的な」、Intelligenceは「知能/知性」という意味。AIとは『人間のような知能を持ったコンピューター』のようなもので、“自ら学習する”ことが大きな特徴。

[14] ICTとは「Information and Communication Technology」の略称で、日本語では「情報通信技術」と訳される。介護領域ではICT/インターネットの技術を活用して離れた場所から高齢者の状況を確認できるサービスなどが開発されている。



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