見出し画像

"役立たず"という名の悪を問う、映画『デッドプール&ウルヴァリン』の話。

映画『デッドプール』シリーズの3作目であり、MCUシリーズの34作目となるデッドプール&ウルヴァリンが日本公開から1週間ほど経った。

マルチバースという風呂敷が広げに広げられたMCUの今後がどうとか、ディズニーに買収された20世紀FOXのこれまで云々‥‥とかいう、主人公デッドプールの"第四の壁を破る"芸当をネタに、映画の外から巻き起こる問題や考察ばかりに着目されているようだが…

個人的にはMARVEL映画始まって以来ともいえる、最高の主人公成長ストーリーであり、救済メッセージが描かれた作品だと感じ、(まさかのデッドプールで)思わず心にぐっとくるものがあった。

というわけで今日は、
ファン歓喜の小ネタや考察は一切抜きにして、『デッドプール&ウルヴァリン』という映画が伝えたこと、わたしが感じた等身大のヒーロー像について思いの丈を書き殴っておこうと思う。

映画の核心に触れるようなネタバレはしない"つもり"なので、ぜひ作品を観に行こうか迷っている方もこのまま読み進めてくれたら幸いだ。


***



3作目にして明かされた主人公ウェイド・ウィルソンの「核」

トニースタークが掲げる世界のため、キャプテンアメリカが叫ぶ祖国のため。そういう確固たる「核」を持ったヒーローの活躍を見るのは勿論わくわくするのだけれど、デッドプールことウェイド・ウィルソンがいう、自分の愛する人たちが世界の全て、という思想のほうが"何者"でもない我々からするとひどく共感に値するし、その結果世界を救えちゃったというオチに繋がるのが最高にカッコよくて痺れてしまうのだが、皆さんはどう思うだろう。

Fワード連発、軽妙かつ口数の多いコミカルなキャラクターで、その"恐れ"だったり"愛の在処"については、これまで巧みに隠され続けたデッドプールだったが、3作目にして遂に、彼の「核」ともいえるヒーロー活動の動機が明かされた。

それがまさかの9人の友達、それだけだったのだ。
しかしこれが、本作に大きな深みを持たせたことは言うまでもないだろう。

肌身離さずこの写真持ち歩いてるの🥺
(ユキオ、可愛い、すき。ネガソニ、格好いい、すき。)


これはややぶっきらぼうな言い方かもしれないが、わたしは身近な人の愛を裏切るような形で描かれる大義名分ストーリーが好きではない。
例えていえば、本作でウルヴァリンの役を演じたヒュー・ジャックマン主演のミュージカル映画『グレイテストショーマン』。これはどうにもハマれない作品だった。曲の素晴らしさ、演技力の高さには目を見張るものの、ヒュー・ジャックマン演じるP.T.バーナムの、愛すべき家族や仲間 と、世間一般の評価や成功 とを天秤にかける描写がどうしても苦手なのである。

同様に、作品全体としての盛り上がりがその"嫌味"を帳消しにはしてくれるものの、デッドプールから続く同じMARVEL作品群の中でも、『キャプテンアメリカ:シビルウォー』なんかは、キャラクター視点でみると到底好きになれない1本だ。
わたしはインフィニティ・ウォーのサノスとの決戦で、愛する人を殺されたことに対する憎しみが我慢できず、サノスの顔面を殴りにいったスターロードことピーター・クイルが大好き。ああいう愛を振りかざせるキャラクターが大変好みなのである。

その意味で、今作『デッドプール&ウルヴァリン』におけるデッドプールことウェイド・ウィルソンは、何かを天秤にかける余地もなく、彼にとっての全てはあの9人しかいない。それ以外に守るものがなければ、生きる意味もないとして再び物語が動き出すさまは、完全にわたしのハートを撃ち抜いた。

無論ヒーロー映画の規模としては笑っちゃうほど、ちいさい。
アントマン顔負けの極小サイズストーリーであるわけだが、その愛の深さと彼だけの正義哲学には、思わず目頭を熱くしてしまった。

日本版予告には「普通のヒーローに飽きてない?」というおちゃらけたキャッチコピーが当てられてもいたが、本作は確かに普通のヒーローとは違う、普通のヒーローよりもっともっと"普通"の正義感が「核」として、デッドプールを成しているのだろうと思わされたのだ。

***


敵は"虚無"にあり

しかしだからこそ、この3部作を通じてウェイドが感じ続けた恐怖は計り知れないものだっただろうと思う。

衝撃の『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』を皮切りに、MARVEL作品は「救える命と救えない命がある」という、かなりシビアな問題を常に根底に据えるようになったとわたしは感じている。

中でも顕著にそのメッセージが表出したのは『キャプテン・マーベル』の2作目にあたる『マーベルズ』だ。MARVEL世界における最強ヒーロー、キャプテンマーベルことキャロル・ダンヴァースに、何者でもなかったモニカと、ただの子供であるカマラを加え、彼女らにヒーローが背負うべき悲しき宿命を突き付けるのは、フィクションとはいえあまりに酷だろうと思った。
そしてある意味では、この宿命に対するアンサーとしてトムホランド演じるスパイダーマンのあのラストとか、トムヒドルストン演じるロキのあのラストなんかが、現在のMARVELにおける唯一解になっていることが見て取れるのだが‥‥

たった9人の友、それしかないウェイドにとってすれば、そんな綺麗事はどうでもいい。クソでも何でも構わないから、愛すべき友くらいは救わせてくれと、そう願うのが筋である。

そう思うと、今作の冒頭で"デッドプール"のコスチュームを脱ぎ、ヒーローではない、ただの人になることで自分を納得させる気持ちは痛いほど分かる。
何者でもなければ、何者でもない人たちとともに、何もせずその最期を迎えることができるかもしれない。知らぬが仏ではないが、誰もが「大いなる力には大いなる責任が伴う」という標語に向かって全身全霊闘えるとは限らない。人はそれを"弱さ"とか"逃げ"とかと好き勝手に言うものだが、当人にしてみればそれすらも1つの闘い方で、愛する人を守るための手立てだと信じてやまない、そういうものだろう。

しかし、映画はより深い深度でその本質をえぐり出してくる。
ずばり、敵は"虚無"にいる、という話だ。

虚無。


"虚無"とは、MARVELの世界ではドラマ『ロキ』で描かれた、現実から分離した世界のことである。神聖時間軸と呼ばれる、本来あるべき姿の世界にとって、危険をもたらすと判断された者が送られる先、それが"虚無"である。

SF的な視点でみても非常に面白い概念で、わたしはこの"虚無"の世界が今後もどう描かれていくのか楽しみでしかないのだが、今作におけるその世界は、どうにも自分の心の中に眠る"Nothing"、何者でもないと思い込む意識、もっとも強い言葉で表現するなら「自分は役立たずだ」と言い聞かせるその気持ちそのもののメタファーとして読み解くことができるような気がした。

これは少しばかりのネタバレになるかもしれないが、今作で描かれた"虚無"の世界は、これまでのMARVEL映画史における「役立たず」の集合地帯だと表現することができるだろう。
思えば『ロキ』のシーズン1でも、同じような描写があったわけだが、今作において特筆すべきは、"虚無"の世界を愛してしまった者、自分は端から"虚無"の世界で生まれたのかもしれないと思い込む者たちが、"虚無"の世界そのものを創り上げているとして描かれた点で、これは笑いと涙の両方が止めどなく滲み出てきてしまう"憎い"演出だった。

デッドプールとウルヴァリンは、ニコイチでこの"虚無"の世界と、リンクする現実の世界、ひいては自分たちの心そのものに問いを立てることで物語のフィナーレを迎えにいくと見え、そのラストにかけての怒涛の戦闘シーンは、まさに"自分自身"との闘いそのものとして表現され、またもやわたしの心は激しく揺さぶられてしまった。

"役立たず"が、自ら必要とされる役を見つけ、愛する人たちを救いたい、また愛する人たちに救われたいと願い祈る姿は、決して孤独で強くカッコいいヒーロー像とはかけ離れたものであるが、我々が目指す、いや、目指し得るヒーロー像としてあまりに優しいシンボルであった。

デッドプールが最後に決断した道がどんなものであったのかは、ぜひ劇場で見届けてもらうとして‥‥
"役立たず"という名の悪を問い、虚無から脱したい!自分も必要とされたい!と恥を捨てて叫ぶ今作は、不覚にもいろいろと学ばされるものがあった。

デッドプールなんかに泣かされるとは思いもしなかったが、映画『ナイトミュージアム』にはじまり、『インターンシップ』『フリーガイ』で名もなき男の成長と純愛を描き続ける監督ショーン・レヴィと、『X-MEN』シリーズはもちろん、『レ・ミゼラブル』や先述した『グレイテスト・ショーマン』で報われない男の深い心理描写を意図も簡単にやってのけるヒュー・ジャックマン、そして我らが『デッドプール』の主演ライアン・レイノルズ、このトリオのパワーを侮ってはいけないなと、再認識した作品であったことは間違いない。


MCUの今後、20世紀FOXのこれまで、アベンジャーズの行く末…そんな夢のクロスオーバーに向けた架け橋の1つとして楽しめる作品であることは言わずもがな、わたしはヒューマンドラマとして『デッドプール&ウルヴァリン』を高く評価したい。

本作がMCU初のR指定として封切られたその所以は、Fワードを連発するからでも、コカインの隠語を大量に含むからでも、卑猥な下ネタのオンパレードが繰り広げられるからでもなく、このあまりに"大人な"苦悩と成長、血も涙も見えない真っ赤なスーツの下でうごめく、"役立たず"という名の悪を倒す物語だったからかもしれないと、わたしはそんなことを思った。

マスクを被ったまま無言になるデッドプール。そこに映し出される彼の怒りや、恐れや、哀しみや、願望、そのすべてをたった1場面で表現したライアン・レイノルズの名演技を体感するだけでも、本作を観る価値は十分だろう。長いMARVEL映画の歴史の中で、『デッドプール&ウルヴァリン』が持つ意味の大きさはきっと計り知れない。

***


過去に書いた『デッドプール』の記事はこちら。


『デッドプール&ウルヴァリン』の公開直前、同じくライアン・レイノルズ主演で公開していた『ブルー きみは大丈夫』の記事もよかったら。


『フリーガイ』の記事も昔アップしてたみたいです。
(まだまだnote不慣れな感じが伝わってきます)


その他映画に関する記事は、こちらのマガジンにまとめています。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?