見出し画像

映画熱が冷めきっていたので『デッドプール』で蘇生しました。

年明け1月下旬ごろから今日まで、実は映画館に足を運んでいない。
なんならNetflixやDisney+といった配信すらも、特に再生ボタンをタップする気になれなかった。

特別映画が好きじゃない人からすれば、だからなに?ということなのだが、先日同じく映画好きの友人にこの話をしたら、ひと言…「大丈夫?」と返ってきて、我ながらさすがに大丈夫じゃないよな、と思ったので、ひとり静かに映画リハビリを始めた次第だ。

その貴重な1本に選んだ作品が、MARVELのR指定アクション映画『デッドプール』である。
無論今年7月、待望のシリーズ続編『デッドプール&ウルヴァリン』の公開を控えているため、それに向けた復習の意味を込めてのセレクトだが、これが予想以上に良い選択だった。

というわけで今さらにも程があるが、俺ちゃんこと、デップーこと、『デッドプール』のやかましい映画語りをしてみようと思う。

そして何より、わたしと同じように最近映画熱が冷めているなと思う映画ファン、いや、映画に限らず好きだったはずのものに夢中になれていないなと思う方、何だか分からないけどモヤモヤっとした日々を過ごしている全ての方へ、一旦『デッドプール』でも観てみたら?というご提案を、僭越ながらさせていただきたい。

わたしとともに、ギャルマインドもとい、デッドプールマインドを心の片隅に置いておこうではないか。


***


悪いヤツは悪い

わたしの最近の疲れ、ひいては映画熱の冷めに繋がった原因のひとつに、過度な"個性尊重"の波に呑まれたことがある。
いや、個性は非常に大切である。それを否定する気は毛頭ない。しかし、悪いヤツには悪いヤツなりの正義が~…という言い分に、今のわたしは少々疲れてしまった。
もちろんそれが昨今のダイバーシティの弊害ではあるのだが、今は正義というものがない。だからここでいう"悪いヤツ"も、一体何の基準で?という話になるのだが。だが、だが、、、悪いヤツは悪いじゃん、と言いたい。その個性も尊重してくれよ、と思ったり思わなかったりする。

その点『デッドプール』である。
悪いヤツ、皆殺しである。
ここでいう"悪いヤツ"は、主人公デッドプールこと、ウェイド・ウィルソンにとって不都合なヤツ。なんて自分勝手な…と思うが、その一貫した筋の通り具合が実に爽快だ。

だからもちろん、この映画は社会派なんてものとは程遠い。
お世辞にも綺麗な映画とは言えない。正直学べることはゼロに等しい。

だが、数多ある映画のその多くが、「社会」だの「世界」だの「時代」だのと、その主語をどんどん大きくしていく一方で、本作は「デッドプール」というチンケな主語で、その枠組みから1mmもズレることなく2時間駆け抜けてくれる。これがどれほど気持ち良いものか、皆さん想像でき得るだろうか。

正義とか、良いヤツとか、悪いヤツとか、偽善ぶるなよ。嫌なもんは嫌なんだよ。悪いヤツは悪いんだよ。そう言って銃弾ぶち抜く映画の美しさたるや。結局これはタランティーノや、エドガーライトや、ジェームズガンの作品でも同じことが言えるわけで、たぶんわたしは映画にそういうものを求めている節があるのだろうと思う。


***


その音を奏でているのは誰か

Juice Newtonの「Angel Of Morning」、Salt-N-Pepaの「Shoop」、Neil Sedakaの「Calendar Girl」、DMXの「X Gon' Give It To Ya」
どれも本作の中で使われる印象的な楽曲たちである。

MARVEL作品は、とにかく劇中でキャラクターたちが流す音楽のセンスが良い。中でも『デッドプール』は格別だ。
特に本作では第四の壁を超える芸当の延長として、デップー自身がその曲を流していることが分かる。つまり、映画を観ている我々観客だけに聴こえている音、というわけではなく、劇中の登場人物たちも観客と同じノリでその音を聴いている、という構図になっているのだ。

これ、映画を楽しむ上でわたしはかなり重要な視点だと思っていて、映画で流れている音楽が「どこから流れているか」を認識するだけでも、非常に多くの楽しみを見出すことができる。スクリーンの中の出来事と、スクリーンの外の出来事とが、リンクできるほぼ唯一の鍵、それが「音の出どころ」というわけだ。

つまり言い換えれば、我々観客はただ椅子に座って張りぼての映像を観ているだけに過ぎなくとも、その中でド派手に悪いヤツらをなぎ倒していく最中で、同じ音楽を聴いていることが分かると、それすなわち画面の中のアクションを追体験していることと言えるわけだ。

さらにこのロジックでいえば、映画を観ていないときでも、劇中デップーが聴いていた曲を流せば、それは彼と同じテンションに自分を持っていくことができるとも考えられ、直接的に自分の士気を高めることができる、そういうわけなのである(どういうわけ)。

要するに、作品への没入という意味でも、作品をメタ的に楽しむという意味でも、とにかく二重の面白さがこの映画には詰まっている、ということだ。そしてそれは、"映画の楽しみ方"を格段に広げる、その視野の広さを提供してくれているとも捉えることができるわけで、第四の壁を越えるというデップーのスーパーパワーに、まんまと救われた人がここにいるという話なのである。

***

この世界を救うのはユーモア

彼の能力は、不死身であること、第四の壁を越えること、銃の扱い・剣裁きの凄さ、というものが挙げられるが、他のスーパーヒーローの追随を許さない最大の特長は、ユーモアである。

言葉遊び。ゴシップ。自虐。ネットミーム。ズレ。間。下ネタ。風刺。ボケ。ツッコミ。本作は漏れなくユーモアのオンパレードである。

そしてこれらはすなわち、知識の豊富さ、教養の高さ、知的好奇心の刺激(とそんな大層なものではないが)、そういったものにも間接的に繋がるわけで…改めていろんなことを知ろう、インプットをしにいこう、映画をまた観ようと、そんなプラスの気持ちを呼び起こしてくれる、その引き金の役割を(思った以上に)はらんでいたのである。

そこまでアカデミックな話をしなくとも、ピンチのときにユーモアのある切り返しができるのは、単純にカッコいい。
大切な彼女が目の前で泣いているときに、ともに涙を流せる優しさも大切だが、泣き顔から笑顔に変えさせることができるパワーの凄みは計り知れないだろう。

もっといえば、そもそもこの映画の脚本、それ自体がユーモアなのである。
映画の始まりは、「これはヒーロー映画ではなく、ラブロマンスだ」というボケから幕開けるわけなのだが、これに対する最高感度のユーモアとして、映画の幕引きは、本当に「ラブロマンス」だったというオチに繋げていることがわかる。

”See? You don’t need to be a superhero to get the girl. The right girl will bring out the hero in you.”
「ほらね?彼女を手に入れるためにスーパーヒーローになる必要はない。彼女の存在が君の中のヒーローを呼び起こすんだ。(意訳)」

『デッドプール』はこの台詞とともに幕を閉じる。
これだけふざけた映画であるにも関わらず、そのオチは「本当にラブロマンスだっただろう?」という伏線回収に繋げる、2時間の壮大なユーモア仕掛けでまとめあげてくれるのだ。総じて感じられる、このキレの良さ、安定感、洒落感、ドキドキ感、ただただ文句なしの良い映画ではないか。

いや、"良い映画"というのは語弊がある。もっとも適切な表現を当てるなら"ケチの付けようがない映画"といったところだろう。

それもこれも、映画を通して1秒たりともダレることがない、さく裂するユーモアセンスのそれによるものだ。この映画が、誰かの「共感」や「理解者」となることはまずない。だが、そんなものをすっ飛ばして、「楽しい」「カッコいい」「面白い」「粋である」という感情に引き摺り上げてくれることは間違いない。デッドプールに助けられるなんて、まったく幸運なことである。


***


さて、そんなわけでご無沙汰だった映画熱、その再燃は『デッドプール』によって無事達成されたように思う。
少なくともわたしは今、7月に公開を控えた『デッドプール&ウルヴァリン』が楽しみで仕方がない。
それはひとえに、大好きな忽那汐里の活躍を、久しぶりにスクリーンの大画面で観ることができるから、もとい…大好きなデッドプールの変わらぬユーモアセンスを期待しているからに他ならず、彼の美学に真っ直ぐ向き合うため、わたしももう一度姿勢を正さなくてはと、そう思えるようになったのだ。

空腹を満たすためには、食す。
不安を和らげるためには、自信を付ける。
映画熱の再燃には、映画を観る。これしかないのだろう。

チミチャンガの時間まで、もう少し。
連休明け、五月病なんて言葉も囁かれる今日この頃。何かスッキリしない悩みを抱えている人は、一旦『デッドプール』を観てみるのも悪くないのでは。

Let's F***ing Go!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?