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分かっていることを分からせてくれる映画『ブルー きみは大丈夫』

男も惚れる役者ライアンレイノルズの新作『IF(邦題:ブルー きみは大丈夫)』を鑑賞してきた。

大好きな役者。


本作は、日本ではその呼称にあまり馴染みがないだろうが…子どもが空想の中で生み出した友達=イマジナリーフレンド(劇中では"IF"と呼ぶ)を軸として、消えゆく彼らを助けるファンタジー映画だ。

ピクサー映画『インサイドアウト』に登場したビンボンや、かつてカートゥーンネットワークで放送していたアニメシリーズ『フォスターズホーム』なども、まさにこの映画と同じテーマで描かれた作品といえるだろう。

わたしはディズニーチャンネル生まれ、カートゥーンネットワーク育ちです。


…つまり、言ってしまえばこれといって目新しい設定があるわけでも、あっと驚く感動があるわけでもなく、それなりに多くの"物語"を知っている大人たちであれば、この作品の展開、オチ、感動ポイントはすべて分かっていて当然、そういう映画である。

しかし、この映画はそんな分かり過ぎていることを、わざわざ分からせてくれるのである。こんなにも純粋で、真っ直ぐで、人生観にぐっさりとその爪痕を残しにかかる映画を、わたしは久しぶりに観た。

今回のやかましい映画語りは『ブルー きみは大丈夫』を取り上げてみよう。

このポスター、すき。




***


IFに投影された等身大の"子ども"

「あれ?おかしいな。うざったるくないぞ??」

創造力豊かな子ども。天真爛漫な子ども。夢と希望に溢れた子ども。
そういうキャラクター設定の作品はこの世にごまんとあるわけだが、その約半数には「うざったい…」と思う瞬間があると言っても過言ではないだろう(いきなり最低な発言)

その点、本作である。
子どもの、いわゆる"子どもらしい"側面を物語の鍵としながら、スクリーンに映るその姿にはまったくの嫌味がない。それはひとえに主演を務めたケイリーフレミングの美しい演技の賜物でもあるのだが、それ以上に映画そのものがどうやら「子ども」の本質を理解しすぎているのだ。

グッ。

子どもは確かに無力だが、馬鹿ではない。
子どもは確かに無邪気だが、怖いもの知らずでは決してない。
正しく怯え、切に葛藤し、考え、理解し、そして想像(創造)をする。
それが「子ども」という生き物であることを、この映画は恐ろしいほど分かっているのである。

そしてその驚異的な理解を、そのまま子どもを通じて観客に見せつけるのではなく、IFという不思議な存在に代替させているという点があまりにずるいのだ。

この世に存在する大人たちは、ひとりとして例外なく、かつては子どもである。そんな"かつての子ども"に向けて、君の本質はこんなものだったよ、と語りかけてくれるようにIFたちが躍動する様は、本作最大の見どころといってもいいだろう。

まじで、たくさん出てくる。
みんなとても個性的。

その中には確かにわめく者もいる。すぐ泣く者もいる。情緒不安定な者もいるし、異様に落ち着き払った者もいる。だがどれも、等しく「子ども」なのだ。姿かたちこそ、CG処理で作られた架空の生き物だが、その背景に間違いなく「子ども」がいる。彼らは何も教訓めいたことは言わないし、ただあるがままに在るだけなのだが、その尊さたるや皆までいう必要もないだろう。

子どもは自分が子どもであることを、誰よりも理解しているものである。
だからこそ、そこで生み出されたIFは、より高い視座で「子ども」を理解していることはもちろん、ある意味ではIFを生み出した子の分身として、またある意味では、他の誰も介入することができない、自分だけの理解者として、等身大の自分がそこに存在していると読み取ることができるのである。

そしてそれを裏付けるかのように、IFたちに魂を吹き込んだ声優陣も実に壮観だ。

エミリーブラント、マットデイモン、マーヤルドルフ、ジョンスチュワート、サムロックウェル、ブレイクライヴリー、オークワフィナ、ブラッドリークーパー、ジョージクルーニー、などなど。
ハリウッドの錚々たる役者たちが、摩訶不思議なIFたちに声を当てているのである。

何でもいいから、もう一度本作の出演者全員集めて、実写で何か映画1本作ってくれん??


映画史に残るような印象的な台詞はひとつもないというのに、彼らに投影された等身大の子どもは、観るものにとって必ず何かを訴えかけてくるはずだ。

ちなみに、エンドロールにて「ブラッドピット」の名を見つけ、わたしは思わず感心してしまったのだが…彼がどこに登場していたのか、未見の方はぜひ注目してみてほしい。


***


IFの視点で見る等身大の"おとな"

一方、IFそのものが等身大のこどもを表現していると捉えるならば、彼らを通して描かれる「おとな」の存在にも着目したいところだ。

本作に登場する最高すぎる大人、フィオナショウ。
(ペチュニアおばさんじゃないよ)


劇中の台詞を借りて、端的に言い表すならば、本作で語られる「おとな」の定義は「良いことも悪いことも享受する者」、これが「おとな」と言い換えることができるのだろう。

歳を重ねることでも、仕事をすることでも、自分を偽ることでもなく。良いことも悪いことも享受する(してしまう)者、これがある意味では「おとな」と言われているような気がするのだ。


本作では面白いことに、子どもがIFの存在を忘れる定義・瞬間を敢えて伏せているようなのである。明確なルールが語られず、IFの認知に特別な年齢や環境が起因している様子はない。なぜか自分より歳下の存在でもIFが見えない子がいたり、はたまた歳上の存在でもIFが見えていたりする。映画冒頭では、これが本作における詰めの甘さかな、なんて偉そうなことを思ってしまったが…どうにもそうではない気がするのだ。

本作の主人公、ケイリーフレミング演じるビーは、12歳なのになぜかまだIFが見える存在として彼らの手助けに当たる女の子である。
幼い頃に母親を亡くした上、今度は同じ病院で自身の父親が心臓の手術をするという展開から物語の幕が開ける様子は、フィクションとはいえあまりに辛く悲しく、ビーのその"大人びた"表情にこちらもまったく愁いを帯びてしまう。

またひとり、応援すべき役者ができました。


しかし、彼女が映画の中盤で語るそれは、母の死も、父の闘病も、受け入れたくない、もう見たくないという「おとな」への抵抗だったのである。本作のミソはここにあると、わたしは感じている。

つまり、主人公は自ら「おとな」になることを拒み続けた結果、IFが見える存在になり得ていたわけで、その気持ちを吐露しつつ、父の病室に向かったあとで途端にIFが見えなくなるというのは、あまりに秀逸な展開であった。

ラフィーキャシディ、イザベラヴィドヴィッチときて、ケイリーフレミング。この顔立ちの役者、わたし大好きなんだと思う。


劇中でそんなルール説明はされないが、わたしの仮説を正とするならば、IFの認知には「子ども/大人」の線引きがあり、その差は「良いことも悪いことも享受できる者」であるといえるのではないだろうか。ビーの場合は、両親の病がそのターニングポイントであり、それに伴ってIFの認知に変化が生じたと捉えるのは決して間違った見方ではないはずだ。

だが物語は、ここからさらに深いところへと駒を進めていく。
「おとな」になった者はそうしてIFが見えない存在になってしまうのだが、一方でIFそのものは決して消えることがない…というのである。

少しばかり話は逸れるが、ピクサー映画『インサイドアウト』に登場した、主人公ライリーのイマジナリーフレンド:ビンボンは、ライリーの成長に伴って、自身の存在も綺麗に消えること、これをひとつの「おとな」の形としていた。

これはこれで泣く。不憫ボン。


しかし本作では、IFが消えるとは限らないのだ。
もっというと、IFを創り出した本人が、その一生を終えたとしても消えないIFがいるという設定なのである。


この設定をヒントに考えるならば、「IF自体もおとなになる」と言えるのではないだろうか。


IFは子供時代の空想の産物、と表現されるが、本作においてはそんな"キャラクター性"よりも、もっと深い話で個々人の"精神性"である可能性が強い。

子供の頃に作られた自身の精神性は、「良いことも悪いことも享受したとき」=「おとな」になったタイミングで肉体から離れる。それはそれで我々にとっての適切で大切な成長のプロセスであることは間違いないが、当時の精神性がそのままないがしろにされてしまうと、ここでいう迷子になったIFになってしまうのかもしれない。

それを象徴するかのごとく、IFたちはIFたち同士で、セラピーを開催したり、芸術を嗜んだり、リハビリを行っているのだ。精神性は他の精神性同士で互いに高め合い、慰め合い、「おとな」になった肉体以上に、その成長に惜しみない努力を続けている。そんなシーンが託児所のようであり、ハローワークのようであり、老人ホームのようでもある演出は流石としか言いようがない。

健気なIFたち。


つまり、我々は「子ども」から「おとな」になったその先で、もう一段階先の「オトナ」に変わる必要があると、映画は伝えている可能性があるのだ。
よく言われるそれは「子供心を忘れた大人」とか「大人が童心を取り戻す」とかそういう類いの話だが、どうにもこの映画においては、忘れた童心を取り戻すという「大人 対 子供」の二者間での反復学習ではなく、IFそのものの成長を促しているようであり、その意味においてわたしは「おとな」から、さらに「オトナ」へ変わる物語と表現してみたい。

子ども視点のお話では大人になることを重視され、大人視点のお話では子供心を取り戻すことを奨励される、そんなストーリーはもう飽き飽きなのだ。

デッドプール、フリーガイと、現実社会に凄まじい角度で皮肉と愛を込めたメッセージを届けるライアンレイノルズが、なぜ急にこんな子供向けファンタジーに出演したのだろう…と疑問だったが、その優しい笑顔の裏で、とんでもない「大人の命題」を掲げてくれたようにわたしは感じてしまった。

惚れ惚れ。


ずばり、大人になって人生はストップではない。
「おとな」になってから「オトナ」になるための成長が必要なのだよ、と。
この厳しくも優しいメッセージが本作には込められていると感じられるのだ。

「子ども」から「おとな」になるための成長要因は、圧倒的な成功体験だったり、圧倒的な挫折経験だったり、不運や幸運、そういう外的環境から分かる要素が多分に強い。

だが「おとな」から「オトナ」への成長は内部的なものでしかない場合がほとんだ。『IF』はそんな成長の豊かさを見事に表現してくれる映画だと、続く考察を含めてわたしは言いたい。


***


ダサいんだけど上手い日本語タイトル

ここまでの話を踏まえて、本映画のタイトルである。

原題はたった2文字の『IF』という英単語が当てられた。
むろん「もし~ならば / ~という状況と(仮定)すると」という意味の接続詞である。

接続詞である以上、タイトルとはいえ『IF』だけでは、その意味を何も成さない。
何が「もし」なのか。
何を「仮定」しようとしているのか…。

イフ。


本記事のまとめとしては、可愛い妹分とともに本作を観に行って、恥ずかしげもなく隣で涙をすすったわたしのワケを、タイトルから紐解くこととしよう。


ずばり、「IF」に当てられる"もしも"の状況は、「きっと大丈夫」という非常にポジティブな仮定条件だと考えられるのだ。

前段では「IFもおとなになる必要がある」という考えを示してみた。
つまり、我々が良いことも悪いことも享受して「おとな」になるように、IFもまたかつての子ども=自身のパートナーに忘れられることを受け入れ、「おとな」から「オトナ」になる成長を見届ける必要がある、という話なのである。

言葉で書くそれは実に簡単だが、現実はそうでもない。
「おとな」が「オトナ」になるための努力や挑戦は、決して容易いものではなく、どうにかするしかない、やるしかないという内在的なストレスに打ち勝とうとする局面がほとんどだ。(まじ辛いよね、シンプルに病むよね)

そんなとき、「おとな」が掛けて欲しい言葉はなんだろう。自分の精神性が具現化したとしたら、なんて声を当てて欲しいだろう。少なくともわたしの場合は「大丈夫」という仮定である。根拠なんてなくていいし、筋や論なんて通っていなくても構わないから「きっと大丈夫」とパワーを送って欲しいものである。

どんな不安があろうが、どんな悲しみがあろうが「大丈夫、大丈夫」って言い聞かせるしかないときってあるよね。



そう思ったとき、悔しいほどに本作の日本語タイトルが上手いのである。(ダサいけどね?)
映画が伝えようとしているメッセージを程よく抽出した見事な副題なのである(いや、ダサいんだけどね??)

『ブルー きみは大丈夫』
このいかにもなタイトル…なのにやっぱり上手い。

この複雑な心境は『ワンダー 君は太陽』というタイトルの意味を考えたときとまったく同じ状況なのだが、やっぱり責めることができない。日本語特有の甘ったるい感じが拭えないのは悔しいが、この邦題(副題)を当てた担当の方に、わたしは惜しみない拍手を送りたい。

どちらも驚くほど心にぶっ刺さった映画。


なおここまで語っておきながら、「IF」が「イマジナリーフレンド」の頭文字じゃん。もしかしてそれだけのことじゃん。…と気付いてしまったことは、ここだけの話に留めておいて欲しい。(恥ずかしいよう~~)


だが、それでもやはり「もし~ならば / ~という状況とすると」という、二重の意味での「IF」であり、そこに「きみは大丈夫」というポジティブな仮定の意味が含まれていることを信じたいのだ。それは劇中、主人公ビーと、とあるIFがともに"ある状況を仮定した"ときの美しさに深い理由がある。

あ、待って。この写真で泣きそう。


そのIFは、どうやらパートナー自身に先立たれ、IFだけがこの世に残ってしまった存在という設定なのである。つまり、IFはIFとしての役目を完全に終えてしまったのだ。それでもそのIFは、誰よりも幸せそうに他のIFたちと暮らしを共にしている。
彼がなぜそうしているのか。その理由を語ることはない。
だが、彼は言うのである。目を閉じて、海のさざ波の音と、人々が往来する様子を想像すれば、今この瞬間もあの時と変わらないのだと。

劇中ではそのまま、ナットキングコールの名曲「L-O-V-E」に乗せて、40年代~50年代アメリカを彷彿とさせるビーチ沿いの移動遊園地のシーンへと移り変わる。おそらくこれは、本作のエンドクレジットで追悼があった俳優:ルイス・ゴセット・ジュニアという人物の実体験だったのだろう。
そう、彼こそがこの残されたIFの声を演じた張本人。パートナーが亡くなったのちも生き残ったIFの役を務めた役者は、実際の現実社会でもその一生を全うし、本作『IF』を最後の出演作として、この世を去ったというのである。

『愛と青春の旅立ち』で教官の役をやってた人です。


そんな彼のIF=残されたIFが、「もし~という状況とすると・・・」といって、自身の「こども」から「オトナ」までの成長を懐古するのだとしたら、その「もしも」のタイトルを潰すことなんで到底できるはずもない。

そして残されたIFが、「きみは大丈夫」と呟くのであれば、それが正解なのである。なんとも美しいタイトル、美しい映画ではなかろうか。


***



いかがだろう。
『IF(邦題:ブルー きみは大丈夫)』の紹介・感想語りであった。

日本の劇場公開から2週間ほど。
残念ながらあまり大きな話題になっている様子はなさそうだが…子供向け映画だから、ファンタジー映画だから、どうせ展開の読める映画だから、と食わず嫌いせずに観に行ってみて欲しい。

いや、記事冒頭の私見を繰り返すならば、確かに本作は節々のユーモアセンスを見ても明らかな子供向け映画だし、現実離れした超ファンタジー映画だし、ストーリー展開からオチまで寸分たがわず観客の予想通りを地で行く作品である。

CG技術の美しさだけ観に行くのでも十分すぎるくらい満足できる映画だけどね。


少なくとも本作を観るあなたが「おとな」なのであれば、どのシーンも、どの台詞も、どのメッセージも、既にどこかで見聞きしたものであることは間違いないはずだ。だが、分かっていることを分からせてくれる映画というのは、そう多くあるまい。

心穏やかに、こんな映画に人生の時間が使えるなら、そんな幸せなことはないだろう。

IF…もし…あなたも「オトナ」になろうとしているならば、わたしと同じように本作に助けてもらうのも悪くないはずだ。








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