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本当の"一意専心"

「一意専心」
他に心を動かされず、ひたすら一つのことに集中すること

goo辞書

私は、大学生まで野球に打ち込んでおり、「一意専心」という言葉が好きだった。あらゆることを犠牲にして、一つの物事に打ち込む姿に、カッコ良さを感じていたんだと思う。

ただ、最近になって「一意専心」という言葉の捉え方が変わった。自分の中では、よりしっくり来る捉え方に変わった感覚があるので、noteに残しておきたい。


これまでの「一意専心」

「ある特定の分野にひたすら打ち込むこと」がこれまでの、私の「一意専心」の定義だった。

野球をやっているのであれば、ひたすらに野球の練習をすること。それが「一意専心」であり、目標を叶えるために必要なことだと考えていた。この考え方では、野球をしていない時間は「無駄な時間」ということになる。

「無駄な時間を極限まで減らして、野球の練習をする時間を増やす」

これが過去の私の「一意専心」だった。


新しい「一意専心」

では、今考える「一意専心」は何か。それは、「いつでも目的・目標を意識し続けている状態」

たとえ、直接的に野球とは関係ないことをしている時間でも「野球に活かせることはないか?」と考える姿勢が「一意専心」だと思う。

学生時代であれば、授業中、友達と話している時間も野球にどう生かすかを考えられている状態。

実際に当時の私は全くその意識がなかった。友達とのコミュニケーションの中に、相手の考えを読み解く力、次の発言を予測する力など野球に活かせるポイントはいくらでもあったはずなのに。

そう考えると、「無駄な時間」というものは一切なくて、そこにあるのは「時間を無駄にしている自分の意識」ということになる。どんなことからも学びを得ようとする貪欲ささえあれば、無駄な時間は生まれない。


こんなことを書いていると、あまりにも意識が高すぎて窮屈な生き方のように思えるけどそうじゃない。これこそが本当に楽しい状態なんじゃないかと思う。

なぜそう思うか。それは大谷選手を見ていて感じた。

大谷選手を、過去の「一意専心」の定義に当てはめるなら、投手か野手、どちらかに専念すべきと考えるのが妥当だ。ただ、新しい「一意専心」の定義であれば、「投手目線での打撃」「打者目線での投球」など、無駄なんてないことがわかる。

そして、そんな意識で毎日野球に取り組む大谷選手は、誰よりも楽しそうで幸せそうだ。だから、毎日24時間を特定の目的に使おうという考えは、決して窮屈なものではなく、誰でも実践できる幸せへの一歩じゃないかと考える。


少しの自制心と楽しむポジティブマインドさえあれば。

これからは自分の生き方でこのことを証明できたらと思う。



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