松本窓

誰かのためのものではない、フィクショナルな私小説。

松本窓

誰かのためのものではない、フィクショナルな私小説。

    最近の記事

    ご飯を炊いたら、おにぎりを握ろう

    よくよく考えると、僕は素手でちゃんとおにぎりを握ったことがないのではないか。 小学生の時に母の真似をして握ったような、うっすらとした記憶はあるが、きちんとした形状のおにぎりを握るスキルが自分にあるという認識はない。つまりは、おそらく握れないのだった。 しかしそれは当たり前のことかもしれない。僕にとっておにぎりとは、他人のために握られるものな気がするからだ。僕がわざわざ自分の手を汚して、自分のためにおにぎりを握るわけがなかった。ラップでご飯を丸く包んだ、およそおにぎりとは呼べ

      • 2022年の終わりにむけて

        以前、「2021年の終わりにむけて」という文章を書いてから一年が経ったということが本当に信じられない。 それはきっと、1年という期間がもたらしうる変化と、実際に自身の進歩とか成長を比較した時、あまりに乖離があると感じるからだ。つまりそれは、僕が自身の成長や変化に納得できていないということだ。ずっとこんなことばかり言っているが、確かな前進を実感できないまま、時間だけが過ぎていくような、そんな日々を送っている。 9月に「夏。悩み、考えたことについて」を書いて、悩みは一旦の収束

        • 夏。悩み、考えたことについて

          はじめに。 これは自分の創作についての文章であるが、創作についての主張ではない。「クリエイターはかくあるべき」という強く外に表現されるものではなく、自分の心の中に湧いては消えていく思考をなんとか捉え、悩みの正体に向かい合い、文章というものに残すことでこの先しばらくは同じことに悩まされないようにしようという試みの趣旨で書かれるものだ。 だからこの文章は極めて個人的なものになる。超どうでも良い人もたくさんいると思う。というかほとんどの人にとってどうでも良いと思う。この先の未来

          • 2021年の終わりにむけて

            よく聞かれる。「仕事忙しいの?」と。 仕事はそれほど忙しくない。忙しくならないよう、周囲の人々が配慮してくれているからだ。本当にありがたい話である。 「じゃあなにが忙しいの?」と尋ねられるといつも答え方に困る。僕がやっているのは、所謂、”仕事”ではない。収益の発生が確約されていれば、仕事と言うこともできようが、今取り組んでいるものは必ずしもそれには該当しないものであるだろう。かといって、趣味かと言えばそれも違うような気がする。楽しみながらやっているけれど、自由気ままに、自分

            フルリモート映画をつくってみて

            世界が急変して、しばらくが経った。なんだか糸がぷつんと切れたように、元の生活に一斉に戻りつつある。 なにが必要でなにが不要かの選別や、それに伴う闘争は明確な収束を迎えないまま、何事もなかったかのように世界は形を変えていく様子に違和感さえ覚える。 結局、いつまでも閉じこもっているわけにはいかない。そうやって僕たちは、新たな生き抜き方を探りながら日常を再形成していくのだろう。 2020年5月 僕は誰とも会わずにリモートで映画を撮った。 ひと月で企画から編集までを行い、5/31に

            どこへも行けない僕たちへ(リモート映画作品キャスト募集)

            今日も陽が沈む。総武線がゆっくりと通る音、閉じられた釣り堀で喘ぐ鯉たち、風に揺れる木々。 斜陽に照らされ、木々の影がアスファルトの上に長く伸びている。 水面に反射した光が僕の網膜に届く。 ああ、なんてうつくしいのだろう。ずっと見ていたい。そう願っている。 まるで何も起きてないかのように、世界は変わらず美しくあり続けている。 ここ最近の日々は、一人旅に似ている。あのどこまで遠くへ行っても、自分を動かすのは自分なのだと痛感する瞬間の連続。決して僕以外の何も、僕をどこへも連れて行

            彼女について①

            愛とはなんであろうか。ここ数年、そんな問題にぶつかることが度々ある。 それを探るために誰かと色々な愛の話をしたいのだけど、どうにもむず痒い。そこで考えた。 気恥ずかしくて、恋人にすら滅多に愛など伝えられないが、宛先のないラブレターでならば愛を語れるかもしれない。 ふと、そう思いなんとなく書き始めてみている。 彼女の話をする。 彼女とは、まだ出会って半年くらいだ。ものを書く人で、彼女の紡ぐ言葉は等身大な誠実さを持っていて、好感が持てる。 人との関わり合いにおいて、年月という

            彼について①

            愛とはなんであろうか。 ここ数年、そんな問題にぶつかることが度々ある。実際にあった話かはもはや定かではないけれど、夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」とでも訳しておきなさいと生徒に言ったそうではないか。 さて、僕にとって愛の形とはどのようなものだろうか。言葉や行動に現れるものなのだろうか。それを探るために誰かと色々な愛の話をしたいのだけど、どうにもむず痒い。 そこで考えた。 気恥ずかしくて、恋人にすら滅多に愛など伝えられないが、宛先のないラブレターで

            満たされた日々の隙間に

            僕の実家は、田舎とも都会とも言えないような地味な首都圏のはずれの街にあって、僕は市内の普通の公立高校に通っていた。 高校生3年生になって初めて彼女ができた。元気で明るくて、優しくて、ありのままの僕を受け入れてくれて、そしてそれを好きだと言ってくれるような素直な子だった。僕にとってとても大切な存在になった。 その頃は受験期のさなかであったので、毎日一緒に帰り、たまにサイゼリヤなんかに行って、たらこソースシシリー風を食べながら勉強をしたりした。そんな何気ない時間がとても愛おしかっ

            出会うことのなかった日々たちに

            今日は久しぶりに映画に行った。 コンディションを整えて、ひとりで真摯に向き合うべき映画然としてる映画を久しぶりに観に行った。 厳しい、けれどありふれた貧困によって、幸せだったはずの家族の歯車が狂い徐々に離ればなれになってしまう物語だ。出口のないトンネルのように、薄暗い無機質な景色が延々と続いていく予感が、観客の心を苦しくさせる。抜け出せないつらく厳しい環境は変わらないまま、むしろ少し悪化して物語は幕を閉じる。白けるような嘘くさい希望を提示するでもなく、苦難を美談として描

            雨の日、珈琲屋で

            人々が、持てるものを惜しみなく使うことをある種の幸福の形と捉えているとするなら、平凡な僕の唯一持てる莫大な財産である時間を浪費することは、最上の贅沢なのであろうか。 何も大切なものなど落ちてないSNSを、まるで物乞いのようにうろついている。自己嫌悪や自己否定から逃がしてくれるエピソードを見つけては、その瞬間的忘却に消費されている。 いつもなにかを探している。なにかを見つけ、なにかに見つけられることを常に期待している。自分の存在を少しでも大きくしてくれるものを望んでいる。そう

            金木犀の香りに誘われて

            10月の終わりころ、その日は秋晴れだった。前日の雨で湿ったアスファルトには空が反射して、暗いブルーをしていた。 また今日も同じ場所に向かう。8時間前に同じ道を通ったときはあたりは真っ暗だったのに、今はうんざりするくらい世界は明るい。 僕は憂鬱だった。毎日同じことを繰り返して、進んだ実感がないまま日々の速度だけが早まって行く。そのことへの焦りすらなくなった自分に落胆しつつも、具体的にどのようなことをすれば良いのか分からず、そしてそれらに考えを巡らす情熱もいつのまにか失せてし

            金木犀の香りに再会して

            10月は、一年を通して春から最も遠い月だ。 私たちは、今後のさまざまな出会いに期待を込めて、春の訪れをしばしば希望と呼んでいる。では、春から最も遠く、今後あらゆるものが失われていく予感がする季節は、失望や絶望の色が濃いと言うことができるだろうか。 この春、初めて実家を出て私は東京で一人暮らしを始めた。大学2年生のときから望んでいた広告系の企業に勤めはじめて、もう半年が経った。あの頃、私はこれから始まる生活に胸を躍らせていた。初めて住む東京には、ちょっと歩けば行ってみたいごは

            (不)幸福勝負と想像力

            目に見えるものしか大切にできない私たちへ。 私たちは目に見える範囲でしか想像力を働かせることができない。 見えない範囲の出来事や見えない遠くの誰かまで配慮することができない。 そのことに自覚的であらねばならない。 よく、ネットなどで「誰々の気持ち考えてください」「〇〇と比べたら大したことありません」みたいな文句をよく目にする。きっとそれが彼らの本当の気分に近い文なのだろうけれど、前述のように、我々には想像力がないから、少し待ってみてほしい。いや、というより想像力という

            高円寺ではよく美女が降りる。

            僕は仕事でよく、中央線に乗る。 新宿駅を過ぎたガラガラの電車に揺られながら周りを見渡すと、稀に、雑誌やテレビで見かけてもおかしくないような美しい女性を見つけることができる。 白いふわふわした服を着ている人もいれば、髪を結んで真新しいリクルートスーツに身を包まれた就活生らしき人もいる。 そして、彼女らは決まって高円寺で降りるのだ。 まるでそこには美しい女性を吸い込んでいく力でもあるかのように、見事に彼女らは高円寺で降りてゆく。あるいは高円寺が人々を美しくする特殊能力を持

            シーサイド・フランス③

            しばらく僕はユウカと海沿いの道を歩いた。 ユウカは海をずっと見つめていたので、僕は尋ねてみた。 「海、好きなの?」 「うん、すき」 「どうして?」 「きれいじゃん」 会話は終わってしまった。美しさに理由などないのだ。理由が説明できてしまうものなど、大したものではない。僕も黙った。 そういえば最後の日、彼女は海に行きたいと言ったのだった。小さい頃、よく訪れた親戚の家の近くの海に。僕は、なんで?と尋ねた。彼女は黙って、それきり一言も発さなかった。それから彼女は姿を消した。