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2021年の終わりにむけて

よく聞かれる。「仕事忙しいの?」と。

仕事はそれほど忙しくない。忙しくならないよう、周囲の人々が配慮してくれているからだ。本当にありがたい話である。
「じゃあなにが忙しいの?」と尋ねられるといつも答え方に困る。僕がやっているのは、所謂、”仕事”ではない。収益の発生が確約されていれば、仕事と言うこともできようが、今取り組んでいるものは必ずしもそれには該当しないものであるだろう。かといって、趣味かと言えばそれも違うような気がする。楽しみながらやっているけれど、自由気ままに、自分の楽しみのためだけにやっている行為では決してないからだ。

なんだろうな。未だ仕事にならないもの。
僕はそれのことを、仮に、"未事"と呼ぶことにした。



2021年は、未事に向き合い続けた一年だった。

僕の言う未事というのは、オリジナルの長編映画制作のことだ。昨年末から本格的にプロットを開発しはじめ、一つできては、時代や世界の気分と照らし合わせて「これじゃない」と切り捨て、またゼロから考え直すということを繰り返してきた。客観的に見ればなにも進んでいない状態が続き、その他の仕事の締切に押し流されるようにして、明確な進捗が無いまま、夏が来ようとしていた。

いよいよまずいと思った僕は、スマホの電源を切り、ひたすら小説を読んだり、映画を観たり、人に会ったりした。描くべきテーマと、1900円と2時間を支払うに足る題材を探した。どうにかこれなら行けるかもしれないという僅かな希望が感じられた頃には、オリンピックは終わり、緊急事態宣言も明けた。社会が一部、平時に戻りつつあった。会社の仕事も、徐々に忙しくなりだした。



焦り、苛立っていた。

手元の地図の縮尺がバグっているのかコンパスが狂っているのか、歩いても歩いても現在地を知らせる点滅は一向に移動してくれないし、向かっている方角もいまひとつ判然としないままだった。再び会社に出社して仕事をするようになったから、実質、それまでより未事に向き合える時間は減っていた。しかし、そんな状況下であるにも関わらず、どうも未事には手が付かない。モチベーションが上がらない。このまま向き合っていて良いのか不安になった。

進んでいるのかどうかもわからない時間が長く続くと、存外、人間はあっけなく自信を失うのだなと気づく。

「自分ができることはこれだけなのか」と考え続ける時間を過ごすと、僕は、手軽にそこから抜け出せる方法を探したがる人間のようだ。今まで蔑んできた陳腐な承認欲求が自分の中に湧いてくる。自分のことなどよく知らぬ誰かに表面的に褒められようとしたり、好意や好感を手軽に受け取れる場所に足繁く通うようになる。自分はこれでも大丈夫なのだと思うために。

そのみっともなさに薄々気づきながらも、うまくバランスが取れないことにもどかしさを覚えた。服をむやみに買って装いを小綺麗にしてみたり、好感を寄せてくれている人に積極的に会うのは、自分の創作的な部分での”認められなさ”を埋めるための行為であったように思う。

とはいえ、それ自体がとてつもなく悪いことだとは思わない。ただかつて僕は確実に、そうありたくない人間のはずだった。

結局のところ、僕は思い上がっていた。自分は大きなことを成し遂げられると、自分にはその力があると、どうしてか、そう思い込み始めていたのだろう。けれど実際は、自分が思い込んでいた評価と、自分の実力の間には、大きな乖離があったのだ。そして、思っているより遥かに自分の歩幅が小さいために、かけている時間に対して進んでいる距離が短すぎると感じるために、その現実に納得ができず勝手に苛立っているだけだった。
点滅は、決して狂ってなどはおらず、冷徹にそのことを教えてくれていた。

ではどうするべきか、考えた。

そして、自分は、作業時間が減り、向き合う時間が断続的になると、簡単にペースを乱されてしまうような未熟さをまだまだ抱えた人間なのだということを、まずは自覚するべきなのだと思った。そう考え始めたら、開き直ることができそうだった。自分の現在地を見誤ってはいけない。出来たような気になってしまうと、出来ない自分を受け入れられなくなる。理由もないままなんとなくおだてられていたことで、自分への評価を見誤り始めていて、そして修正すべきタイミングが訪れただけであったのだろう。

「今頃本当なら」「きっと他の人なら」という無駄な仮定をせずに、「自分だから、こうなのである」ということに納得し続けるほかないのだ。きっと、その過程で感じる無力さと向き合い続けることでしか、進み続ける手段などない。



そのような時間を過ごすなかで、ぼんやりと考え始めたことがある。

ずっと「人生はRPGのマップのようなものだ」と考えてきた。歩き始めた当初は、マップは暗くて、全貌がわからない。けれど歩いていくと、通った部分が明るくなり、少しずつ道がわかってくる。ゴールと思しき場所への最短距離を歩めば、たどり着くのは早いかもしれないが、マップの明るい部分はきっと少ないままだろう。すると、どこの道とどこの道がつながっていたかわからないマップが出来上がってしまう。もしかしたら隠されたアイテムを取りそこねているかもしれない。だから、それよりも、迷ったり行き止まったりしてたくさん歩くことで、道の明るい部分を増やすことのほうが実は大事で、マップの明るい部分が多い人は、きっと強いのだと思う。という説だ。

要は「迷っても良い、遠回りは無駄じゃない」とかそういうことなのだけど、それだけだと同じところをぐるぐるぐるぐるしているときはやっぱり無駄のことをしているように思えて、不安になってくる。

だから最近、”マップ論”に加え、”洞窟のステージ論”あるいは”ダンジョン論”を唱え始めた。


洞窟のステージやダンジョンは迷いやすく、敵と遭遇する回数も増えがちで、クリアするのに骨が折れる。敵も結構強くてHPも削られる。基本的に回復ポイントもない。そこで勝負を避けて、迷うことなく最短距離でクリアすると、当然進むのは早い。しかし一方で、出会う敵にちゃんと向き合うと、獲得する経験値は増え、レベルは上がっていく。迷いまくってクリアした人のほうが、結果的に多くのことを習得しているのではないか。それが、遠回りすることの良さなのだと思う。


出口の見えない洞窟にいるような孤独な日々でも、ひとつひとつの困難にきちんと向き合うことは、必ず自分の糧になっていくはずなのだ。そう信じて、暗がりの中を手探りで進んでいこうと思う。


2022年には洞窟を抜けて、少し強くなったと思えるといいな。


未事を、ちゃんと仕事と言えるように。


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