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2022年の終わりにむけて

以前、「2021年の終わりにむけて」という文章を書いてから一年が経ったということが本当に信じられない。


それはきっと、1年という期間がもたらしうる変化と、実際に自身の進歩とか成長を比較した時、あまりに乖離があると感じるからだ。つまりそれは、僕が自身の成長や変化に納得できていないということだ。ずっとこんなことばかり言っているが、確かな前進を実感できないまま、時間だけが過ぎていくような、そんな日々を送っている。

9月に「夏。悩み、考えたことについて」を書いて、悩みは一旦の収束を迎えるかに思われた。しかし、そう簡単にはいかなかった。人間の感情は案外コントロールが難しく、すべきことはわかっていても、積極的に創作に向き合いたいと思えなかったのだ。そういう時間が長く続いた。これほど積極的になれないのなら仮にこれらを本業にしたとしても、この先延々と苦痛が続くだけなのではないか?という恐ろしい予感が、一番の脅威であった。愛すべき表現行為が、とても億劫なものになりかけている自分を、軽蔑せざるにはいられなかった。


今までは、とりあえず目の前の表現行為が楽しくて、それをやり続けていれば良いと思っていた。いくら稼ぐとか、どれだけの人に見てもらうとか、大きな予算の仕事をするとか、有名な誰かと仕事をするとか、そういった具体的な目標はなかった。あまり興味がなかった。「表現行為を職業にしてひとまず生活する」ということも、遠くない未来に叶いそうであるという意味合いに於いて、”目標”という大それたものとして掲げるにはやや近すぎる到達点であり、なんか違うなと思っていた。

ただ、自分の美意識に沿うような表現ができていれば満足であった。
そうなのだ、自分の美意識を形にするのが好きであったのだ。

それは「夏。悩み、考えたことについて」で主に触れたことである。美意識に沿わない表現行為が僕にとっては全く楽しくない行為であるらしいということに気がついたのだった。

最近はそのことをより強く感じるようになった。それはなぜか。


今年の前半は、ただもうひたすら自身の創作に向き合った時間であった。
後半は、思うように進まない創作から逃げるように、とりあえずは目の前のことをやっていた時間であった。

その後半には比較的時間ができたので、最近世間で話題になっているような作品を観る機会もあった。しかしながら、それらには本当に全く、心惹かれることが無かった。「ああ、自分の感性というのは本当に人と違うんだな」と強く思わされる。

社会人になってからは、観客に向けて作品をつくることが前提で表現をすることが多くなって、結局は多くの人に愛されるものが正しいのだと思い始めていた。どれだけ意義深い作品も、優れた表現も、誰にも見つけてもらえなければなんの価値もないと思うようになっていた。そして、その「人に見られない」ということの最大の原因は、「作品が描いているものが魅力的でなく、大衆にとって価値がないから」だと思っていた。だから、多くの人に楽しまれるために、「届け方」や「表現の仕方」ではなく、そもそもの「題材」や「テーマ」から、大衆が価値を見出すものに設定されるべきだと考えるようになっていた。

ただ、その考えは本質的に間違っているのだと思った。前述のように、僕は世間で流行っているものを全く面白いと思っていない。泣けると話題の流行りのドラマも、評判の良いアニメも、大ヒットした映画を観ても、そこで描かれているものに心が動かされないこともある。それらが、自分のことは遠くの感情まで導いてくれないなと感じる。

じゃあなにも全く感じない人間になってしまったのか?と不安にもなったが、そうではないらしかった。その期間に観たものでも、ハマったものがある。それは『北の国から』というドラマである。今更僕が紹介するまでもないほど有名なタイトルだ。あのドラマには、ちゃんと心惹かれたし、確かに「こういうものが自分は好きなんだ」と自信を持って言うことができた。

つまりは、自分の好きなものと、今世の中で流行るものにはこれまた大きな乖離があるということのようだった。2022年に『北の国から』がサイコーなんだよ!と居酒屋でジョッキ片手に叫んでいる僕が、”今世間にウケるもの”なんて作れるわけは無かった(『北の国から』のすごいところは、ちゃんとかつてどメジャーだったことではあるのだが、現在誰も話題にしないという点で、”今世間にウケるもの”にはカテゴライズされないであろうという意図である)。


また別角度で、僕がかつて夢中になったものを作り続けた人の言葉を目にする機会があった。
その人たちは、「40人のクラスでいうと端っこの方で誰とも分かり合えないと感じて、ひとりぼっちでいる2、3人を世界中から集めたいと思った」と語り、多くの人に愛されようという想いではなく、誰かひとりにとって特別な体験になれさえすれば、そっちの方がきっと価値があると信じて疑わずにやってきた、と話していた。涙が出た。こういうことなんだ、と思った。かつて僕を救ってくれた彼らは、今でも多くの人に愛されているけど、それは、「多くの人に愛されるために」表現をしているからというわけではなかった。わかっていたはずなのに、僕は本質的には全然わかっていなかったのだった。こうありたい、と素直に思った。


だから、やはり何度も思い至って、また見失って再び心に決めたのは、「もう自由に生きよう」という半ば諦めのような決意であった。結局、僕は人と感性が違って好きなものも嫌いなものも違うし、できることもやりたいことも違う。僕なりに正しいと思うことで誰かを傷つけたり、誰かに気に入られることなく憎まれることだってあるかもしれない。でも、もうどうでもいい。僕が苦しいので、どうでも良くなった。表面上でうまくやれるような、心通わせた気になれるような、そういうコミュニケーションはもう良い。向いてない。重たくなって、苦しくなるだけだ。全然知らない、わかり合えない誰かのために作品をつくれない。僕がかつて勝手に助かったように、ただそれを求めてくれている人の存在を信じて、自分の良いと思うものをつくることにした。かっこいいと思う生き方をすることにした。相手の求めるものなんて、僕には全然わかんないんだから。それで誰にも届かないなら、仕方ないということなのだ。本当に、それだけのことなのだ。何度も口にしているし、わかったような感じでこうして言葉にしてきたけれど、ようやくちゃんと、それを心の底から思えそうな気分になってきた。


その上で、これまでは思い描いてこなかったような、具体的な目標も今年は立ててみようと思う。ありたいようにあるために、自分を理想的な姿に近づけるための時間を過ごすのだ。なんだか、そういう生き方は胡散臭いな、と思っていたのだけど、心のどこかでは、自分がこのままでいられるための理由を探していただけのような気もする。理想を追い求め、「このままではいけない」と思いながら生きることは、それほど楽なものではないからだ。でももう良いのだ。もう良い。本当の意味で繋がってくれる人だけがいれば僕はもう良いし、そういう人たちとはこれまでの人生ですでに出会えている。だから、もう良い。


具体的な目標は、まだ思いついていない。本来であれば、”今年の抱負”などと銘打って年の初めに発信されるべきものであるかと思うが、まだ情熱を向けられるような「ちょうどよい」目標が見つかっていない。近々固めて、機会があればお伝えさせていただくことにしようと思う。

ひとまずは、もう少し自分の本心に従って生きることで、多分少し感じ悪く思われることもあるだろうなと思ったので、その決意だけここに記すことにした。

なんか、「明日から俺は俺らしく生きるから!みんな、嫌いにさせたらごめん!」という、学生時代のイタめの投稿みたいになってしまったなと思いながら、まあ、でも今思ってることだしなと思って、2022年の締めとする。

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