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金木犀の香りに再会して

10月は、一年を通して春から最も遠い月だ。
私たちは、今後のさまざまな出会いに期待を込めて、春の訪れをしばしば希望と呼んでいる。では、春から最も遠く、今後あらゆるものが失われていく予感がする季節は、失望や絶望の色が濃いと言うことができるだろうか。

この春、初めて実家を出て私は東京で一人暮らしを始めた。大学2年生のときから望んでいた広告系の企業に勤めはじめて、もう半年が経った。あの頃、私はこれから始まる生活に胸を躍らせていた。初めて住む東京には、ちょっと歩けば行ってみたいごはん屋さんがたくさんあって、実家を離れたことで時間を気にせずに友達と遊べる。そんなことが、そんな些細なことが、私の人生を希望で満たしていた。

夏が、秋に変わる瞬間を明確に語らないように、私達の感情もその変化を声をあげて知らせてはくれない。
今の会社に就職して、3ヶ月くらい経って、自分が決定的にこの仕事に合っていないことを、あらゆるシーンで痛感した。毎日の仕事はきつく、自分がやれていると実感できることなどほとんど何もなかった。かつて私は何ができると思っていたのだろうか。それらは随分前に、見失ってしまっていた。
学生時代は飲みたくもなかったお酒を、家の近くのコンビニで買ってほとんど毎日飲んでから寝るようになったのは、まだ夏が終わりそうもなかった頃からだった。案外、人間は簡単に変わってしまうのかもしれない。私達は変化したくてしているわけではない。自分の意志なんかより、もっと大きくて強大な流れが私を押しやっていく感覚が、ずっとある。
そうやって、かつて立てた誓いや決意、意気込みなどを無意味だったなといつしか冷笑するようになってしまった。忘れたくなかった気持ちを失うのが簡単だと知れたのは、大人になれた証拠だろうか。

今日は、帰りの南北線に揺られながら窓ガラスに映った自分の顔を見て、想像以上にくたびれているのに気がついた。今週は、取引先との飲み会が多かった。自信に満ちた彼らの言葉や視線を否定せずにくぐり抜けることで必死だった私は、まるで感情の外側に笑顔をつくっているうちに、それが張り付いたまま筋肉が硬直してしまったような顔をしていた。あの頃、体育館を駆けずり回っていた私はこんな顔をしてはいなかったはずだ。
今日はそんな自分に気づいたので、少し抵抗するつもりで、お酒は飲むまいとコンビニ前を通らないようにいつもと違う道で帰る。車通りの多い道を離れて住宅街に入ると、あたりはしんとしていて、まるで別の世界に踏み入れてしまったかのように錯覚する。普段は歩かないから気づかなかったけれど、道の脇には川が流れていた。川と言っても用水路を小綺麗に舗装したような、人工的で無機質なものだった。それでも、点在する街頭が水に反射して、きらきらとしたゆらめきが私の目に届いて、それを美しいと思った。
ゆらめきをたどって川沿いを歩いていると、柑橘系の甘くて、少しツンとした匂いが私の鼻に届いた。

あ。金木犀だ。

私が上を見上げると、小さいオレンジ色の花を控えめに咲かせた金木犀の木が佇んでいた。

私は、昔からこの香りが好きだった。私の育ったギリギリ首都圏と言えないような田舎町では、秋になるとどこからともなく漂ってくる。小学生の頃の私は、金木犀の香りを見つけては、それを辿ってあらゆる場所に行き着いた。平気で30分くらいは歩いて、隣の学区の家の軒先までたどり着いてしまったこともある。
随分長い間、嗅いでなかったような感覚があった。そもそも近頃は嗅覚というものがどこかぼんやりしていて、今さっき思い出したように働き出したとさえ感じられた。

金木犀の香りに再会して、私は多分今までで、きっと一番好きだった人のこと思い出していた。

彼は、どちらかと言うとクラスではおとなしくて、いつも休み時間は音楽を聴いたり、タイトルも知らないような本を読んでいた。友達が少ないわけではないと思うけれど、人と執拗につるんだりはしなかった。彼にはなんとなく、他人には入らないでほしい領域があるように思えたし、その領域を持つ彼の横顔はミステリアスでとても魅力的だった。いつも澄ましているくせに、話しかけると元気に喋ってくれるところも、みんなは敬遠したけど、可愛くて私は好きだった。
ある日、彼に告白された。私が前に付き合っていた人と別れて、多分一ヶ月くらい後の出来事だった。最初好きだと言われたのは、なんとなくやりとりを始めたメールでだった。シャイな彼らしいなと思って、笑ってしまった。でも多分、ずっと前から私は彼のことが気になっていたと思う。異性として、というより人間として。彼の見つめる先の世界はどのようなものだろうと思いながら、彼の視線や言葉一つ一つに興味を持っていた。
それで、私は彼と付き合うことになった。

当時、私はバスケ部で、ほとんど毎日夕方まで部活をしていた。彼は部活には入っていなかったけど、読みたい本があるからとか、勉強したいからとか何かと理由を付けて私を待ってくれていた。その心遣いが嬉しかったので、私は特に詮索せずに彼のやさしさに甘えて、一緒に帰ってもらっていた。彼はいつも自転車を押して、高校の最寄り駅まで私の隣を歩いた。
彼とゆっくり話せるのは、ほとんどこの帰り道だけだったから私はうきうきして、つい身体を弾ませてしまう。

夕暮れの風が、カーディガンの繊維の隙間を抜けて、少し肌寒さを感じさせる季節のことだった。民家の前を通ると、秋刀魚を焼いているような香ばしい香りがした。
「もうすっかり秋だねえ」なんて彼が言う。年寄りみたいな語り口だねなんて言いながら、ひとつの季節や瞬間を慈しむようなその優しい声が心地よかった。
それから、秋を感じさせるものってなんだろうという話になった。
「えーと、柿」
「じゃあ栗」
「かぼちゃ」
「ハロウィン」
「さつまいも」
「ねえ、食べ物ばっか。紅葉」
「銀杏」
「臭いよね。うちの近くに銀杏の木があってさあ、いつも息止めて通ってる」
「わかる。でも美味しいよ」
「え、私はちょっと苦手かも。えと、マフラー。早いか」
「コスモス」
「あ、金木犀」
「金木犀?」
「うん。金木犀。あの匂い好きなんだ」
「へえ。うん、いい香りだよね」
「でも、まだ今年は一回も出会えてないなあ」
私は夜空を見上げ、息を鼻から大きく吸ってみる。金木犀の香りは届いてこない。

「じゃあ、探しに行こうよ」
「え?」
「金木犀の匂い、探しに行こう」
彼は私を自転車の荷台に乗せて、夕暮れの街を走った。部活の後はいつも真っ直ぐに帰っていたからなんだか少し後ろめたくて、でも彼が壊れかけの銀色のママチャリを漕いでどこか遠くに連れて行ってくれるような気がして、とても楽しかった。
誰かの家の庭先に、名前のない公園に、知らない小学校に、金木犀の香りを探して私達は自転車を走らせた。交番の前では荷台からするりと降り、何事もなかったかのような顔をして歩いて通り過ぎる。また、私を荷台に乗せながら彼がいたずらっぽく笑う。私も笑顔になる。そういうなんの変哲もないやり取りが、あの頃の私にはとても幸せなことだった。
「どこまで行くの?」
私が聞く。
「どこへでも」
お母さんからの心配のメールを、スカートのポケットに感じながら、私はその言葉の頼もしさにまた嬉しくなる。

その日、金木犀の香りは結局見つからなかった。きっと連日の台風や大雨で散ってしまったのだと思った。
そして自転車は、私の家の前の曲がり角までたどり着いた。お母さんに見つかったら大変だからここでサヨナラだ。平気な顔をしてるけれど、見つからないかな大丈夫かななんて正直ドキドキしていた。
またねといって、彼が私を見つめる。それから自転車を挟んで、私達は初めてキスをした。彼の唇が私の唇に触れる。自転車を漕ぎ続けて火照った彼の熱い息が、秋のひんやりとした空気に混ざる。彼は照れたように笑って、黙っていた。
「来年、また金木犀の香り、探そうね」
この先、どうなるかなんてわからないけれど、そのとき私はまた彼とこうして見つからないものを探したいと願った。誰かがとなりに居てくれれば、大丈夫だと思った。
そんなことを考えて、私は角を折れて家へと歩いた。振り返ると、彼がずっと手を振ってくれていた。ゆるやかにカーブする道を彼が見えなくなるまで私は何度も振り返った。それで彼を見つけ、また笑顔になった。

それからしばらく経って、彼は私に突然別れを告げる。私にとってはとても悲しい出来事で、誰かを愛するということであんなに泣いたのは後にも先にも、あれきりかもしれない。

あの頃の私たちからすると、手に入る見込みのないことに期待をすることをやめてしまった自分は情けなく映るだろうか。
彼はあの頃の私の、思い切りの良さや誰かを巻き込む力をすきだと言ってくれていた。わがままで諦めるという選択肢を持ち合わせていなかっただけの私は、実は周りの人たちがそれに付き合ってくれることを知っていた。みんなの優しさに甘えて、巻き込まれてもらっていたのだ。私はずるい人間だな、と思う。彼はこんな私を見たらがっかりするだろうか。

でも今はきっと、日々、諦めてしまっている。

しばらく金木犀の木の下で、そんなことを思い出していた。
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。
いつもより秋の空気を冷たく感じる気がした。

そうか、わたしはきっと、孤独なのだ。あの頃、自分が強いと思えたのは、彼がいて、友達がいて、私のことを見ていて期待してくれたり、喜んだりしてくれる人がいたからなんだ。だから私はなにかが出来るような気がしていたのだ。本当は、私は私だけでは、なにもできなかったのだ。そんなことに、ようやく気がついた。

今ならまだ、拾い直せる。きっと自分が想像しているよりもずっとずっと、私の進度は遅いだけなのだ。うまくいかないと思うのは、それだけのことなのかもしれない。そのことにうんざりするのではなく、愚直に目の前のことに向き合うことが今は大事なのかもしれない。停滞していて、日々失うものばかりだと思っていたけれど、一方で私はできることも確実に増えているのだと思い直す。お酒の注ぎ方も、荷物の送り方も、メールの書き方もなにも知らなかった。思い返せば思い返すほどそれらは小さなことで情けなくて笑ってしまいそうになるけれど、きっと私はまだその程度なのだ。ついつい出来るようになったことを過小評価してしまうが、その積み重ねが今の私には必要なのだ。
春や夏からすると、一年の終わりが見えてくる秋は少しもの寂しい季節だ。でも秋は、一年の敗者復活戦なのかもしれないと思った。その年出来ていないと感じたことに、金木犀の香りや秋刀魚の味、赤や黄に染まった葉を見て、向き合い直せる時間なのだ。このままで良かっただろうかと、立ち止まらせてくれる季節なのだ。

家に帰ってあったかいココアでも飲んで眠ろうと、私は歩きだす。
背中には、オレンジ色の花をつけた金木犀が私を見守るようにして立っている。また悩んだら、ここに立ち寄れる。そう思える場所を持てている私は、さっきより少しだけ強くなった気がした。

また来週から私は私なりの速度で、進んで行けば良いのだと、そう思った。

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