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ご飯を炊いたら、おにぎりを握ろう

よくよく考えると、僕は素手でちゃんとおにぎりを握ったことがないのではないか。

小学生の時に母の真似をして握ったような、うっすらとした記憶はあるが、きちんとした形状のおにぎりを握るスキルが自分にあるという認識はない。つまりは、おそらく握れないのだった。
しかしそれは当たり前のことかもしれない。僕にとっておにぎりとは、他人のために握られるものな気がするからだ。僕がわざわざ自分の手を汚して、自分のためにおにぎりを握るわけがなかった。ラップでご飯を丸く包んだ、およそおにぎりとは呼べない代物を弁当がわりに持ち歩いたことはあるが、どれだけ考えても、ちゃんと自分が握った記憶はないし、出来るイメージも湧かなかった。やはりそれは僕がおにぎりを握れないということなのかもしれなかった。ええ?ほんとに?俺おにぎり握れないの?嘘じゃん。

しかし、握れないというのも定かではないため、ご飯を炊いた際に、おにぎりを握ってみることにした。鍋で炊いたご飯は、水分をよく吸ってキラキラと輝き、けれど一つ一つの粒が崩れることなく個の存在を際立たせたままひしめき合っていた。
水で手を濡らし、塩を手に馴染ませる。自分の手に塩が着く感覚がなんとも嫌であった。どれくらい着ければよいのかもわからず、米の集合体に手を伸ばす。当然熱くて、火傷しそうになる。
そうかと思い、おにぎりを握るだけの米を茶碗に移し、しばらく放って冷ますことにする。ちょうど良い頃に手に米を取る。塩おにぎりだと味気ないので、鮭おにぎりにしてみることにする。切り身をそのまま皿の上に置いておいたので、鮭がおにぎりの中に入れるサイズになっていないことに気づく。左手の上には米が広がり、鮭が投入されるのを待ち構えている。ええい、ままよと思い、右手で鮭の切り身を素手で千切ろうとする。なかなか離れず、離れても骨を引っ付けて来やがるから苦戦する。ようやくいい感じのサイズの鮭を右手に捕まえることができた。眼下にはボロボロになった鮭がいた。そして引きちぎった鮭の身を左手の米の上に置く。包もうとするがうまく包めない。鮭がデカすぎたのだろうか。包んだ米には穴が出来、そこから薄橙の魚肉片が覗いている。今更米を足そうにも、今度は手に握れないサイズになるのでやめておいた。そのままなんとなくイメージの中のおにぎり握りの挙動を真似するように、空中に軽く投げるように握るが、全然おにぎりの形にならない。自分でおかしくなって笑いながら、収拾のつかなくなった肉片穴を、海苔で無理やり閉じた。
海苔が湿気て、なんとかいい感じにまとまる。
手がベタベタで大変に不快である。お湯で流し、手を拭いた。
少し時間を置いておにぎりに手を伸ばす。食べてみると、うまい。が、海苔でかろうじて保たれた米はすぐに崩壊し、件の魚肉片を覗かせる始末となった。慌てて全て平らげた。

ああ、やっぱり自分はおにぎりを握れないのだな。と思った。そして、料理をあまりしない僕でも作れる野菜炒め(切って炒めるだけ)や親子丼(切って焼いて卵かけるだけ)や、カレー(切って煮詰めるだけ)なんかよりも、全然難しいではないか、おにぎり、と思ったのであった。シンプルだが奥が深い。故に底知れぬ。などとわかったようなことを思ってみる。そして、案外簡単そうに見えて自分には出来ないことも多いのかも知れない、と思う。
ひとり暮らしをして10年も経とうというのに、俺はおにぎりの一つも握れないのかと情けなくなり、悔しくなった。
だけどまだバレていない。誰も俺がおにぎりごとにつくることができない人間などとは知らない。だから、練習しよう。米を炊いたら、キラキラの粒にうっとりしながら、おいしいおにぎりを握ろう。
まだまだ不格好だけれど、いつかきっと綺麗に握れるようになるのだと、そう胸に決めた。
シンプルに見えても出来ないことは多い。そういうひとつひとつを、隠れてこそこそ練習する最後のチャンスな気が最近はしているのだ。

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