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# 「自分で考えられる人」



たしか、1回目のときだったと思う。


無名人インタビューで、「なぜそんなに考えられるんですか」「なぜそんな風に(自分はまちがったことはしていない、と)思えるんですか」と訊ねられた。


そのときに何と答えたかは覚えていないけれど、あー、たしかになんでなんだろうな、と思った記憶はあって、ずっと心の中に残っていた。


パッと思いつくことは2つ。

1つは、自分を守るためにそうせざるを得なかったから。

もう1つは、納得しないと動けないから。


現に、noteで何度も同じテーマについて綴ってしまうのは、納得いく表現を探っているからだ。


#私にとって自然なこと

今回は私の、納得を求める癖 について。


***




幼稚園の卒アルの、将来の夢のコーナーには「女優」と書かれてあって、ずっと、私の夢だった。だけど周りからずっとバカにされたし、親には反対された。周りの声は、なってしまえば黙らせることができると思っていたから気にしていなかったし、むしろ他人の夢を否定するなんて何様なんだとか思っていた。だけど、親から反対される理由は考えた。実際にはもっと色々あっただろうけれど、当時は「学歴がないと世間体が悪いから」だと判断した。だから、親を不安にさせないために学歴を手に入れ、親のハンコなしに決断できるようになる20歳を東京で迎えるために、早稲田に行くことが小4のとき、目標になった。

きっとそのときが、中学に入るまでで1番自分で考えたことだと思う。



幼稚園とか小学校低学年ごろの私は、他の人が持っているものを羨ましがったり、他の人の真似ばかりしてみたり、父が言ったことの受け売りをしたこともあった。

だけど、他人の真似をするということは、他人に同調するということで、その結果、私の存在は忘れ去られるわけで、どんなにその他人がおかしいことをしていても許されてしまうということ。そんなことをしても、私は私を嫌いになるだけだったから辞めた。



小学校の頃から、何かの代表とかはよく引き受けていたし、別に苦ではなかった。


それは行事とか総合の時間とかで、やることが定まらないまま、椅子に座ってその空間に閉じ込められることの方が、人前に出て仕切ることよりも苦痛だったからだ。

他の人が仕切るときの「こうすればいいのに」「ああした方がいいのに」という違和感は拭えなかった。

だけど、それをいえば顔を顰められることはわかっていたから、他人事にして窓の外を眺めるしかなかった。そういった時間はラクかもしれないけれど楽しくなくて、「今、世界一無駄な時間を過ごしてる」という感覚が拭えなくて、嫌だった。


だから、それ以降もどんなに嫌な顔をされても、主体的に何かに取り組むことは辞めなかったし、そうした経験のおかげで、自ら考え、行動する力が身についたと思っている。


でも、そうしてきて本当に良かったと思う。


「私はまちがってなんかない」と、誰も言ってくれなかったから、自分で言ってあげないといけなかった。そのためには自分で、嫌になるほど考えて納得がいったこと、心の底から正しいと思えることだけをしていないとダメだった。


なぜあの人はそんなことをするんだろう。
なぜあの人はそう考えるんだろう。
なぜ私はこう思うんだろう。

それは間違っているかどうか。


嫌になるほどそんなことを考えてきたから、自己分析も人間観察も得意。


そこからさらに、じゃあどうすればいいか?を考えるようになったから、意見で終わらずにアイデアを出せるようになった。


ただ、それだけだと思う。



私は自分が考えられる人だなんて、思っていなかった。こんなことは当たり前だし、もっと考えられる人はいっぱいいるし、そういう人たちが自分より賢いと言われ、自分より偏差値が上の大学に行くのだと思っていた。


だけど、どうやら違うらしい。


簡単に人を傷つけ、裏切り、嘘をつくことに疑問を持たない人間がたくさんいると知った。

「リアルなコミュニケーションが不足している」課題の本質は何か?という問いを与えられて、「やはりリアルなコミュニケーションが不足していることだと思います」という人が、世の中には多くいるのだということを知った。

自分が何をしたいのか、今なにを考えているのか、どう思っているのか、がわからない人はたくさんいるということを知った。


全部、思考不足だなぁと思う。



でも彼らが悪いわけじゃない。

同調圧力の強い日本では、そうしていないと集団の中で生きていけなかった面もあるのだろうと思うし、むしろ私にはそれができなくて、その結果円滑な人間関係を作れなかったわけだし、それで困らずにこれた彼らの人生を羨ましくも思う。



だけど私は、変な人と言われても、自分の判断を信じていたいし、自分で目で見て、耳で聴いて、自分で考えたことを大切にしていたい。


ただ、それだけだ。




p.s.

「自分で考えられる人」は
「翠ちゃんってどんな人?」と訊ねたときの、彼からの私の評価です。

silentによると、「その人どんな人?」と聞かれて、属性じゃなくて性格とかその人の在り方について答えるのは、その人を好きな証らしい。

自分で考えられる人、と言ってもらえる人間で、よかったなと思います。




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