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もっとはやく、出会いたかったよ。


そのとき、私は京都駅から三十三間堂までの道をひとりで歩いていた。

イヤフォンを着けずにある程度のところまで歩いてきたとき、音楽が流れてこない耳も、ひとりであるということも、まったく寂しいと思っていないことに気がついた。

それはなぜかと問うた時に、常に頭の中には思考が流れているからだということに気がついた。

ああ、空の青が綺麗だ。木々の緑が美しい。
これで道は合っているか?京都の歴史ある街並みがすきだ。車のブーンッという音も、自転車のチリチリッという音も、ひとが生きている感じがする。無意識にスマホカメラを構えてカシャッとさせている。

実際はもっと違うことも考えているけれど、そんな風にして、自分と対話していたら、寂しくなんてない。この対話の繰り返しでアイデアが生まれたりする。

私はこうやって人から排斥される寂しさを紛らわせてきた

という以前に、自分の中を言葉で満たすことは私にとって自然なことで、それによって周りの音が聞こえなくなることも自然なことで。それを無視しているだとか、ぼーっとしているだとか、誤解して受け取られて避けられることも多かった。


気づけば三十三間堂の目の前にいた。

「関西に行きたい」「ドットちゃんに会いたい」と言ってくれた、ビジコンを通して出会った東京の、2人の同級生に会うために。


***


女子の友人と、奇数である3人で会うなんて、普段の私なら絶対にしない。

奇数で会ったら、私がハブられる。

これまでの経験上、気づいてしまったそのむなしさを避けるようにして、これまで1:1とか、クラスレベルの大人数とか、譲歩して偶数の4人・6人とかでしか遊んでこなかったし、基本1:1でしかひとと仲良くなれなかった。


なのになぜだろう。


2週間前、初めて画面越しに会った彼女らは私が関西出身・関西在住だ、と知った瞬間、「私、関西好きなの!」「関西行ってみたい!」とストレートに伝えてくれた。警戒心がないようで、強めな私は「来て来て!」とノッたけれど、頭では口約束で終わるんだろうなぁ諦めていた。

思えば「来て来て!」と口から出た瞬間から、私は彼女らに期待していたのだろう。心の中ではあなたたちと仲良くなりたい、そうなれたら嬉しい、と。私はちゃんと思っていた。

私の心の声を汲んだかのように、彼女たちはそれを口約束で終わらせず、ほんとうに叶えてくれた。

1人は前日入りして一人旅をして、もう1人はバイト終わりに新幹線で前日の夜に、寝るだけのためにホテルに着いてまで来てくれた。

そんな2人に応えるかのように、ほんとうはライブ授業で大学に行く必要のない1限のはじまる前に、彼女らと落ち合うのにアクセスがいいという理由で大学へ行き、1限終了と同時に定期範囲外である彼女たちがいる地へ向かった。



初めて会った彼女たちは、1人は想像通り背が高くて、シルバーのアイシャドウがよく似合う、オーストラリア人の女性、もう1人は想像よりも背が低く(珍しく私より低かった)、淡いブルーのシャツがよく似合う韓国人の女性であった。2週間前、画面越しに5日間ビジネスコンテストのアイディアを練り合わせたときと同じように途切れさせることなく話をし、そのときよりもラフに、安心感を抱いて、色んな言葉を交わした。


「また1人だけ置いてけぼりにされたら」「会って全然楽しくなかったら」という焦りや不安からくる【やっぱり遊びたくないかもしれない症候群】は、会って少しで消えた。私たちは古くからの友人かのように、三十三間堂を拝観し、ハンバーグやグラタンやオムライスを食べ、高台寺までの道を散策し、その付近で抹茶スイーツの玉手箱を食べ、高台寺を拝観し、そこから京都駅までの道のり(最短3.1km・45分)を歩き、京都駅の地下で酒を飲み交わした(1人は熱いお茶だけど)。


国宝の観音像とか風神雷神像とか、
2人ともすごく喜んで興味持って見てた。
彼女たちのリクエストのハンバーグ定食。
学割で10%OFF。おいしかったぁ。
抹茶の玉手箱。おいしかったぁ。
高台寺
高台寺の竹林もめっちゃ喜んでたなぁ。
韓国の彼女が薦めてくれた美味しいビール。
名前を忘れないようにメモをした。



(型にはめるわけではないけれど)"ああ、外国の人って日本を感じるこんなところ(寺、大仏、観音像、和スイーツ、竹林、などなど)で喜ぶんだな"、とか、"犬夜叉とか一昔前のアニメが原点になるくらい、日本アニメの影響力って偉大なんだな"、とか。彼女たちといると常に新しい発見がある。

それらは「ちがい」や「異文化」とも言えるけど、その言葉のニュアンスが持ちうる「排斥」や「境界」を意味するわけではない。

"育った環境の違い" というのは変えようのない事実。それは「私と韓国の彼女とオーストラリアの彼女がそれぞれ違う」ということが「デフォルト」であり「自然」であるということだ。

私はその「自分と違うことがデフォルトである」という状況に対して安心を抱くのだ(ということを知った)


日本人は「自分と同じことがデフォルトである」という状況が好きな気がする。しかも、自分と違えば、同調圧力を使って排斥しようとする。「自分と同じ(日本人)なのに、なんでわかってくれないの。」と。

私はその排斥によって傷ついてきた人間だし、自分を傷つけた人に対して「なんでそれが人を傷つける良くないことだとわからない?」と思ってきたし、そう思う自分に嫌になることもあった。それは、同じであるということを無意識に前提・デフォルトとしていて、違いを認められなかったからだということに気づいていた。



日本文化を好む外国人である彼女たちと、そういうわけではない私はちがうけれど、代わりに私は日本史が好き。日本文化と日本史は通ずるところもあるから、少し関心を寄せてその"好き"に寄り添うことができる。

そんなふうに「違うことがデフォルト」ならば、その中に、心地良く知覚しやすい"同じ"を見つけたら、ただ同じであること以上の喜びがある。そこを通してつながることができる。



彼女らと接していて知ったことのもう1つは、彼女らは政治やジェンダーといったことに強い問題意識を持っていて、それに対する自分の意見を他人と共有することを厭わないということだ。

会話していると自然とそういう話に発展して、意見交換や議論がはじまる。だけど彼女らは、決して自分の意見を押し付けたくて言っているわけではなくて、ただ思ったことを言っているだけだし、議論を楽しんでいるのだ。


おちゃらけた話も、真面目な話も、スムーズに切り替えができてどちらも楽しめるところ。

私の話をちゃんと最後まで聴いて、真面目に考えた言葉を選んで自分の考えを話してくれるところ。

(中略)

キミのそういうところ、好きだな。


この文章は以前、noteで大学のカレに対する気持ちを綴ったときのものだけど、彼女らに対しても似たような気持ちを抱いた。


相手への好き嫌いを抜きにして、相手の意見だけをフラットに見て、議論とその他を別物だと考えられる。

意見を語ることを「真面目」「意識高い」「すごいね」と言わない。

議論を(他人との仲を引き裂くような)良くないこと・自分への非難と捉えず、議論を議論として楽しめる。


政治やジェンダーという問題に、彼女らほど関心があるわけではないけれど、そういう環境に私は居心地の良さを感じ、好きだと感じる。

何かに対して自分の意見を考えること、それを他人と共有することは自然なことで、「ただ言っているだけ」な状態で、真面目だからやっているわけでも、偉いからやっているわけでもない。


その言葉に対して明確に賛成してもらえたのは、初めてで、同志に出会えたようで、私にとってなによりも嬉しいことだった。




こんな気分がいい日には、帰りたくないなぁとか、次彼女たちに会えるのはいつになるんだろうとか、切なくなってしまう。

だけど私たちはハグでお別れし、「また冬休みに必ず会おう。(出会いのきっかけとなった企業の)最終選考が終わったら、絶対に会おう。」と、「会うまでにzoomしよう。LINEもしよう。」と、約束した。

だからきっと、私たちはまた会うだろう。
末永く付き合えたらいいな。
願わくば同僚として。


もっとはやく出会いたかったな。
彼女たちに。彼女たちのような世界に。
彼女たちと自然体で肩を並べている自分に。


そんなことも思うけれど、まずは。

彼女たちとの最高の出会いと再会に、乾杯。




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