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「じゃない」ほうの私を愛して


早期内定をもらって「早く就活を終えることができてよかった」と思う一方で、いろんな人と就活の話をする中で芽生えたもう1つの感情は「ああ、また私は "普通の人" のレールから外れてしまった。」だった。

3月1日時点で24卒の内定率は30.3%らしい。

一般的には「もう内定取ってる人が"こんなに"いるんだよ!」と焦らせる文脈で使われる言葉を、その3割に自分が含まれていることに優越感を抱くでもなく「ああ、一般的には今からが勝負なんだな」と、どこか虚しさを感じながら見つめている。別に今合格している会社に不満があるわけでもない。なのにこんなことを思うなんて、やっぱり私は普通"ではない"んだと思う。




本来であれば3/1に本選考の情報が解禁されるはずの仕組みで、今就活で忙しいことは遅くもなんともなくて至極真っ当なことで、そういう人がマジョリティであることは何もおかしくない。そんな"普通"である彼らが、自身の焦りや苦しみは、同じ時期・同じ空気感を味わった自分たちにしかわからない、と思ってしまうのも、きっと自然な感情。


"就活をした"という点がいくら同じであっても、「私もそうだったよ」とか、「私はそれで大丈夫だったからあなたも大丈夫だよ」とか、軽々しく言えない、言ってはいけない、という気がしてしまう。

だけど本当はきっと、言ってはいけない、のではなくて、「翠は早くから動いたからそれでも大丈夫だっただけでしょ」とか「翠は真面目だもんね」とか、"あなたは私(たち)とは違う" と明確に線引きされる言葉を放たれることを、一方的に恐れているだけなのだと思う。



***


私は「"普通の人生"なんておもしろくない」と普通から離れることを求めていたくせに、「変わってるよね」と排除されることは誰よりも恐れていて、そんな圧倒的矛盾を抱える自分をずっと "普通だ" と思いたかった。

多様性が叫ばれるようになったおかげで想像しやすくなったであろうジャンダーの悩みや心身の病を抱えたことがあるわけでもないし、”天才”のように何か一つ頭抜けた才能を持つ代わりに他が疎かになるようなことがあるわけでもない。面倒なしきたりや相続問題に巻き込まれる由緒正しいお金持ち家系に生まれたわけでもないし、反対に衣食住や学費に不自由したこともない。幼少期は女優になりたいと言っていたのに、なんだかんだ民間就職もできた。

金銭感覚やスペックといったなんらかの前提に関しては私が生きる環境において周りの人と同じくらい、という”普通”の文脈を生きているはずなのに、私の一言は、行動は、考え方は、集団の中でなぜかマイノリティになってしまう。そして、同じ文脈を共有している分、こういう中途半端な ”ズレ” は1番受け入れられない。盛大な”変わってる” は 即 ”おもしろい”・”すごい” になってくれるのに、”ズレ” は ”揃えろ” と言われてしまう。


私は盛大な”変わってる”に吹っ切れるほどの個性も才能もないし、”ズレ”を揃えられるほどの器用さも従順さも持ち合わせていなかった。なにより”あるがままの自分”を受け入れる強さも勇気も、それを育てる心も持っていなかった。



”普通”ではない私は、わからないことが怖い。

”周りに合わせられる”あの人、
”平気で他人を傷つける”あの子、
”思い通りにならないとわかるとすぐに縁を切ろうとする”あの人、
”世の中のトレンドや付き合う人に合わせて趣味嗜好が変化する”あの子、

彼らはどういう人なんだろう。どういう思考回路を持っているんだろう。


意図せずズレてしまうから、私のズレた感覚のまま”普通”である彼らとわからないまま接してしまうことが怖い。

だからいつも”仮説”を持って接していた。

それは”偏見”かもしれない。私なりの彼らへの”評価”かもしれない。
私は彼らを”嫌っている”のかもしれない。

あくまで”仮説”だから。ちょっとしたことで”気が合いそうにない”が”仲良くなれそう”にまで、柔軟に形を変えることだってある。


とにかく
自分の目に相手がどう映るか、
相手の目に自分がどう映っていそうか、
その上で私は相手にどう接していけばいいのか、
わからないことが怖かった。



***



だけど。最近気づいたことがある。


普通”ではない”、マジョリティ”ではない”
からといって、即
”変わっている”、”マイノリティ”
になるわけではないということ。


”ではない”からといって
即、反対側に当てはめなくていいということ。


”ではない”という中途半端な”ズレ”を持った人は、案外たくさんいるかもしれない、
というより、誰しも”ではない”部分を持ち合わせているものなのかもしれないということ。



”ではない”の先でどこかに当てはめないままにしておくのは、不安定で不安を感じるように見えるけれど、”〇〇ではないだけ” という発想を許せるとそれだけでいろんなことに寛容になれた気がした。

この世には、わからないことを理解するための粘り強さや努力が必要な場面もあるけれど、わからないことをはっきりさせず曖昧なまま抱えておく寛容さが必要な場面もあるのだと思う。



だから私は、普通”じゃない”方の私も愛せるようになっていきたい。

私から見て普通”じゃない”人のことを、愛せるようになりたい。


そんなふうに思う。















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