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善良さ を貫くための 傲慢さ をもって。


人は、自分の世界の中でしか生きられない。

人は他人になることはできないのだから仕方がない。

自分が持つ、ものの見方、考え方、そこから生まれる視点、それによってできたフィルター。そこからしか世界を見ることはできない。


それが初期値のままだと、家庭環境や社会的に望ましいとされてきたもので構成された、"自分"が反映されていないフィルターのまま世界を見ることになる。だから”勉強”して、新しい視点を得て、自分が心地いいものを知って、それを"自分の価値観"として織り交ぜながら、より自分にとって都合のいい、ものの見方を身につけていく。



恋愛


アプリや結婚相談所に頼る恋愛はしたくない。


昔からそう思っていた。他の人がするのは勝手だし、実際それで幸せになった人を知っている。だから、している人を見たからと言ってどうこう思うつもりはない。あくまで自分はしたくないというだけだ。

会ったこともない他人を、書かれた情報から推測して、スペックとかを比較して、相手を"選ぶ"なんて就活みたいで、それでなにがわかるのだ、と思ってしまう。どうしても人に失礼なことをしてる気がして嫌なのだ。

「結婚するなら2番目に好きな人と」とか「冷静に条件も見なきゃ」とかっていうけれど、その結果キスもしたくない人だったら、それって幸せなんだろうか。


ずっと、自分がこんな価値観なのは純粋で真面目で、悪く言えば少女マンガ脳だからなのだと思っていた。

だけど、もしかしたら傲慢なせいなのかもしれない、と、この物語を読み終えた今は思う。


学生時代に自然な出会って好き同士になれた人と、長年付き合って25歳前後に結婚する。その後、子どもを2人以上産みつつ、専業主婦にはならず、妻・社会人・母という3つの役割を全うする人生を送る。

それが昔から私の理想だった。


それは、長年付き合えるほど信頼している相手を、自分が愛し続け、相手からも愛され続けていることが素敵だと思うから。


同時に、モテる(より多くの人から告白される)ことが正義だとも、合コンや遊びの恋愛、"エモい"恋を経験することが羨ましいとも、色んな人を知って、その先に出会った"ベストな人"と結婚することが良いとも、考えたことがなかった。


現在も私は、モテないことや、彼氏・好きな人がいないことに悩んだことがない。

それは彼氏が途切れないとか、モテモテだからとか、という意味ではなく、「モテたい」とか「彼氏欲しい」と焦りだす前に、今の彼に出会えたからに他ならない。


今、恋愛面で困っていない私だから「アプリや結婚相談所に頼る恋愛はしたくない。」なんて悠長なことを言っていられるのかもしれない。本書の言葉を借りるなら、これは自分が実際に手に入れ、余裕がなければ至れない、見えない境地、なのかもしれない。

数年後、いわゆる結婚適齢期になってから彼と別れたりしたら、そんなこと言ってられなくなって、アプリや結婚相談所に頼るかもしれないというのに、傲慢だなぁと思う。


真実がお見合いでうまくいかない、と相談した時、元同僚・恵は「真実ちゃんの婚活が在庫処分のセールワゴンの中だから(うまくいかないんじゃない)」と言ったというシーンがあった。私がもし今の彼と数年後、順調に結婚したら恵のように「自然に出会って付き合い結婚した人」になるのだろう。そして、恵のような立場から恋愛を語るようになってしまうのかもしれない。真実のような経験をせず、感情を知らず、死んでゆくのかもしれない。



人生


【傲慢】:高ぶって人をあなどり見くだす態度であること。
【善良】:すなおで性質がいいこと。

辞書的な意味からもわかるように一般的には、傲慢=悪、善良=良、とされるのだと思う。加えてこの物語での善良は従順、に近い意味な気がしている。


はじめのうちは、架は「恋愛に不自由なくきたが、30歳ごろに当時の彼女と結婚に踏み切れず振られて、"たまたま"婚期を逃しただけ」と思っている傲慢の象徴として、真実は「箱入り娘として育ち、支配的な親の言うことを聞いて真面目に生きてきた”いい子”」という善良の象徴として描かれている。


しかし、読んでいくうちに、"傲慢さ" を持つことで、自分がそうであるからこそ「人の悪意や打算を見抜いて対処できる」とか「自分軸がハッキリしている」といった利点もあって、"善良さ" を守り抜くことで「人の悪意に鈍感」とか「自分がない」といった欠点につながることもあるのだろう、と思った。


「支配的な親から抜け出すために自分で自分の人生を切り拓いた」ように見える真実の姉はこう言った。

真面目でいい子の価値観は家で教えられても、生きていくために必要な悪意や打算の方は誰も教えてくれない。

だって、悪意とかそういうのは、人に教えられるものじゃない。巻き込まれて、どうしようもなく悟るものじゃない。教えてもらえなかったって思うこと自体がナンセンスだよ。


この言葉が痛いほど響いた。


なぜなら私自身が「悪意とかそういうものを、巻き込まれてどうしようもない中で知っていった」人間だったからだ。

だから真実が、架の女友達たちにいびられているときとか、その人たちを「苦手」ではなく「嫌い」と自覚したとき、すごくすごく共感した。あっぱれ、と思った。架の女友達たちは「自分が悪意や打算で生きてきている分、それらに敏感で、その対処法として人を傷つけることができる」いじめっ子側の人間なのだ。


一方で、私は架や真実の姉と同じように、自分のことは自分で決めたいし、自由でいたい。
だから「人の言うことに従い、誰かの基準に沿って生きることの方があっている__そういう生き方しか知らず、その方が得意な人たち」と表される真実にもどかしさも感じた。


私は、基本的に周りの人から「真面目」「まっすぐ」「やさしい」と善良側で評されることが多いけど、「自分の意思がハッキリしている」とか「考え抜く力」とかの要素も持っている私はきっと、架と真実のあいだの人間。


きっとそれは私だけではなくて、ほとんどの人が架と真実の両方を飼っているのだろう。



幼い頃から、女子特有の悪意に晒され続けた私は、きっと悪意や打算を発揮する側にまわろうと思えばまわれたのだろうし、それをうまくやれる能力はあるのだと思う。


以前、人間関係について友人に相談したとき、「そこまで搾取され続けてきて、搾取する側にまわろうとしないところが好きよ」と言ってもらえたことがある。

私は人の悪意に鈍感なわけでも、鈍感なふりをしているわけでもなく、敏感な方なのだと思う。だけど、能力的に悪意を発揮したり打算的に生きたりすることができないのではなくて、性質的にできない・したくないだけなのだ。


悪意に晒されたら、悪意をお返しすること。
打算によって損したら、打算によって得するように動くこと。
やられたら、やり返すこと。

その生き方はきっと、賢くて、器用で、要領がよくて、かっこいいものなのだと思うけど、やろうと思えば誰にでもできる簡単なことなのだとも思う。


Living well is the best revenge.

私は負の出来事は飛躍のためのエネルギーに変えて、生きていきたい。

たとえ、かっこわるくて不器用で、容量の悪い損をする生き方なのだとしても、人を傷つける側にまわる人よりも、最終的に幸せな人生を掴めるのだと、信じていたい。


同時に、そう言い切れることも、傲慢さを持つ人間が、善良さを持つ人をバカにするのと同じように、善良さを持つ人は、善良さを貫くために傲慢さを丸出しにすることを見下す面も持っているからだと言うことも、忘れずにいたい。




この物語の架が、真実が、どう生きることにしたのかは、どうか皆さん自身で見届けてほしい。












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