Marcel Swann

クラシック音楽を聴いて、感じ入った端々の妙を言葉でもっていかように表現できないか模索し…

Marcel Swann

クラシック音楽を聴いて、感じ入った端々の妙を言葉でもっていかように表現できないか模索しています。 ブッカーです。本も読みます。 本とCDと言いますものは不思議なもので自己増殖するのですね。

最近の記事

近藤譲と言語にまつわる興味

前回、近藤譲に関する抄説を載せた折、思ったよりも反響があり、やはり彼がここ数年で飛躍的に評価されているのだなと改めて実感した。今日は前回書き損ねていた、近藤譲の作品と言語にまつわる話を少しだけしたい。 それというのも、近藤譲作品に対する近藤譲自身の態度というのは時折、どうしてそこまでとも思えるほど冷淡な対応をしているわけで、その内心を探るではないが、これはあくまで個人的な印象として、近藤譲というのは一種の「信用ならない語り手」(または「信頼できない語り手」)でもあろうかとさえ

    • 近藤譲とそれを取り巻く空間の語彙

      ALMレコード (コジマレコード)が創立50周年を迎える。それにあたってかつて70年代に出ていた近藤譲のLPのCDフォーマット化が進んでいる。 近藤譲という作曲家は、これは僕個人が認識しうる限りでしかなかったけれども、コロナ禍に世界が突入する2020年代から急に知られるようになった作家の一人であったと思う。それまでは日本の戦後の現代音楽を好むものであれば、ポストモダンに台頭する野平一郎とか西村朗などと共に70年代に登場するユニークな新世代といった文脈でのみ知りうるような人であ

      • 世界の作曲家が描いた日本 (2) ドビュッシー 交響詩「海」

        ドビュッシーの作品の中でもとりわけ著名なこの作品の制作経緯は実に曖昧。当初、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」がそのスコアの表紙にあしらわれたことから、日本をイメージした作品であると長らく考えられてきたわけだけれども、もちろん、ドビュッシーは日本への訪日経験はない。これらはいずれも、この作品が作られる半世紀前から「発見」された日本から輸出される多くの「商品」が、300年前にやはりフランスがオランダやイギリスと共に「発見」した中国がシノワズリとして一つの文化咀嚼 (租借)が行われたよう

        • 世界の作曲家が描いた日本 (1) メシアン 「7つの俳諧」(1962)

          今日から何度かに分けて、世界の作曲家が日本を題材に描いた作品について書こうと思う。とはいえ見切り発車に書き始めて、いつまで続くかもさえ知れず途絶してしまうというのも情けない話であるから、ある程度、書く作曲家の作品はある程度、目星をつけている。 やはりまずはドビュッシーの交響詩「海」でしょう。そしてメシアンの「7つの俳諧」、シュトックハウゼンの「テレムジーク」と「Expo」などと続き、マルティヌーの「ニッポナリ」と書こうと考えている。それ以外にも日本を題材にした作品は数多いけれ

        近藤譲と言語にまつわる興味

          シェーンベルクと無調と12音技法

          現代音楽の歴史を語る上で、その黎明と草創としてアーノルド・シェーンベルクおよび彼を中心とした新ウィーン楽派の人々が避けて通れないことはいうまでもない。また現代音楽を支配した大きなテーマでもあった「無調」の創始者としてシェーンベルクをその一人と捉える行為も特に何も誤りはない。しかし一方で無調、12音技法、シェーンベルク、現代音楽という文脈で特に前者2つの違いについて、時折非常に曖昧な答えをする人がしばし見受けられることから、その違いについて改めて記述し、一つの記録としてしたため

          シェーンベルクと無調と12音技法

          ヴィラ=ロボスの『九重奏曲』と今日までの読書の遍歴

          ヴィラ・ロボスの九重奏曲 昨晩、再び東京は大雨に見舞われた。以前にも呟いたように、打ち水というものは地表の熱を冷ましてその気加熱を利用して涼をとることを意味するわけであるけれど、それが日常的であった戦前に比して21世紀の今日ではもはやそれを撒くための土すらもアスファルトの下に埋もれて久しいばかりで、当然、土とアスファルトでは熱の吸収率が根本的に違うわけだから、相応してそれに見合う打ち水の水量というのも異なってくるわけである。特にそれは高々、杓子に一杯掬ってひょいと投げる程

          ヴィラ=ロボスの『九重奏曲』と今日までの読書の遍歴

          シュトックハウゼンの『腹の音楽』抄

          自分がシュトックハウゼンの作品の多くをより具体化した形で知ったのは、中公新書から公刊されていた某書に由来する。それはもちろん、総音列技法からさらに拡張された表現の妙への虜になったばかりでなく、その神秘的で哲学的な、彼にとって「音楽を書くとは何か」という、作曲家であれば誰しも考えるであろう永遠の命題に対する結果としての作品の多くとその生き様にどこまでも揺さぶられたからに他ならない。 シュトックハウゼンが提唱した技法や語法はいくつもある。その中でも直観主義音楽とフォルメル技法、モ

          シュトックハウゼンの『腹の音楽』抄

          グレン・グールドのディスコグラフィから。

          何か誰かのディスコグラフィにフューチャーしたコレクションを作るというものは、もちろんその対象を誰にするかで難易度に天地の差が出るとはいえ、その蒐集に勤しむ日々は何にも増して充実感で満たされてならない。今様な表現に徹するのであればそれが「推し活」と捉えれば概ねそうなのであろう。 例えばそれが帝王のそれであれば、初期はEMI、そこからDECCA、グラモフォン、晩年はSONYの映像と至るわけだけれど、こうした多岐に渡って異なるレーベル間を渡り歩いたような人たちは総じていわゆる「大全

          グレン・グールドのディスコグラフィから。

          想像上のイベリアからの夏の話、あるいは近代スペインのピアノ作品抄

          6月も暮れであるけれど、結局のところ梅雨らしい梅雨は東京では片手で数えられる程度しかなかった。しかしそのくせもう7月どころか8月張りの酷暑が続く。特に湿気の溜め込みがとにかく酷い。例年であればそうした溜め込みが酷くなった折に台風が列島をびゃうとかすめて、その土地に溜まったあらゆる気の全てを太平洋へと投げっぱなしジャーマンしてくれるのに、今年に入ってからその台風でさえ記憶が正しければ2回しかまだ観測されていない。しかもその2回だって1号はどちらかと言うと小笠原諸島なんかの南洋側

          想像上のイベリアからの夏の話、あるいは近代スペインのピアノ作品抄

          決して新しくないこれからの現代音楽とグバイドゥーリナ

          昨晩、書類の整理をしていると、一枚の演奏会用のチラシが落ちてきた。それは2020年の頭に上演されたソフィア・グバイドゥーリナの『ペスト流行時の酒宴』の日本初演のチラシだった。 今にして思えばであるけれど、この演奏会から数週間後に日本を含めて世界中がコロナ禍の時期に突入していくのであるから、何とも暗示的な演奏会であった。ちなみに指揮は下野竜也、演奏は読売日本交響楽団によるもの。 そのほか、フェルドマンの作品の日本初演とジョン・アダムズのサキソフォン協奏曲、これは独奏は上野耕平(

          決して新しくないこれからの現代音楽とグバイドゥーリナ

          シベリウスのヴァイオリン協奏曲から始まる。|HIP運動について

          シベリウスのヴァイオリン協奏曲から始まる。 クラシック音楽の文章を少しでも読もうとした人であれば誰であれ吉田秀和という人がいて、その文章がまた一定の権勢の評価の元、いわば文芸評論の神様としての小林秀雄に対峙する音楽評論の神様としての吉田秀和という構図のようなものがある程度、確立されていることはご承知の通りでしょう。 小林秀雄は『本居宣長』や『ドストエフスキーの生活』と並んで『モォツァルト』がその代表的な評論として数えられている。小林秀雄の文章はしばしその断定的な言い回しや結

          シベリウスのヴァイオリン協奏曲から始まる。|HIP運動について