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世界の作曲家が描いた日本 (1) メシアン 「7つの俳諧」(1962)

今日から何度かに分けて、世界の作曲家が日本を題材に描いた作品について書こうと思う。とはいえ見切り発車に書き始めて、いつまで続くかもさえ知れず途絶してしまうというのも情けない話であるから、ある程度、書く作曲家の作品はある程度、目星をつけている。
やはりまずはドビュッシーの交響詩「海」でしょう。そしてメシアンの「7つの俳諧」、シュトックハウゼンの「テレムジーク」と「Expo」などと続き、マルティヌーの「ニッポナリ」と書こうと考えている。それ以外にも日本を題材にした作品は数多いけれど、とりあえず上にあげたものをまずは大前提として書いていきたい。順不同だ。
ところで恐れ多くも自分はオペラというものが実に苦手で、それはもちろん映像で見ればある程度、楽しめはするのだけれども、やはり個人的になんだかんだで長くて大きな作品と向き合うための体力というものが根本的に少ない方なんだろうと実感する。そのためプッチーニの「蝶々夫人」やアーサー・サリヴァンの「ミカド」については、前者はまあ今更言うことなどないのかも知れないけれど、後者について語れるほどのスタミナがないことに関して、非常に遺憾ながら一旦パスして取り掛かりたいと考えている。

そもそも考えてみると、例えば我々日本人がフランスのことを考える、あるいは実際にフランスに赴きながら、その旅路や過程を音楽に昇華させてみたりする。「フランスの風景」と題してみるとなお良いかもしれない。この日本人の目線で描かれた「フランス像」というものがいかに偏見に基づいたものであるか。いや、それは決して悪い意味で用いたいのではなくて、この他人が自分を眼差すとき、あるいは自分が他人に対してその眼差しを手向けるときに生じる、人と人との見え方の差異、あるいは見るところの違いと形容したほうが分かり良いかもしれないけれど、この何から手をつけるのか、あるいはどこをその終端とするのか、ないしその過程をどういった順路で辿っていくのかの違いを人と人とで比べていると実に面白い。あまりにも違い、そしてあまりにも同じように思えたりする。またどんなにそれが似通って見えていても、その経路にかかる思考が自分の考えているそれとむしろ真反対であったりするのだから、なお面白い。
そのような経緯を慮りながら、それがこと音楽の分野の中で表現される、日本から遠く離れた作曲家たちが辿った日本に対するイメージの音楽というものを取りまとめて、一つのセットリストのように思考のうちのメモリーカードに記録してみるというのもまた有意義なことなのかもしれない。そう思いながらこの文章をしたためている限りだ。

メシアンの「7つの俳諧」(1962)は、一種のピアノ協奏曲だ。ただ一方で全体を通してほとんどピアノの独奏が支配的であるし、その内容というのも大部分を通して彼の代表作「鳥のカタログ」(1958)の延長線上にあるようにも感じさせられる。
本作はドビュッシーの生誕100周年のための委嘱作品で、その前年に来日した折に訪れた富士山麓、軽井沢、奈良公園、宮島での印象が作品に投影されている。聞くに1961年にメシアンと結婚したピアニストのイヴォンヌ・ロリオとのハネムーンとしての訪日であったらしい。この来日に際してメシアンとロリオは東京で自作の演奏会を開催している。若き日の小澤征爾を招いてのトゥーランガリラ交響曲の日本初演もまたこの時、行われていたと記憶している。ところで1960年代は時は池田内閣、1956年の経済白書で「もはや戦後ではなく、戦後復興を背景にした経済成長は見込めずお先真っ暗」などと評された地点から4年経ち、推進される所得倍増計画の下で高度経済成長を突き進んでいた。前年には西ドイツで開催されたIOC総会で第18回オリンピック大会が東京に決まり、日本中が沸き立っていた時代だ。新幹線はまだできていなかったけれど、高速鉄道に運ばれて東京、山中湖、軽井沢、奈良、宮島とメシアンが巡っていたことを思うと、実に良い時期に来たものだと想像を巡らせる。

一方で、鳥好きのメシアンのことであるから、作品全体を支配するのは街や人々の声ではなく鳥のさえずり。自動車や高速鉄道、ビル建設の音の代わりにウグイス、ホトトギス、ひばり、クロツグミの嬌声がけたたましく鳴り響く。またこの中で鳥の声、あるいはその音化、ないしノート化された声が時折、さながら植物の蔓のような生き活きとした躍動感を持って、凄まじい量の呼吸を見せつけるような、生々しさが浮き出てくるように感じる時がある。あるいは山林を歩いた折に見かけるような、落葉の下に眠る新芽やその土の中から這い上がる昆虫たち、ないしそれを遠くから覗く鳥たちといった一種のバイオトープがその音楽の中で展開されていると考えると、実に神秘的だ。
特に象徴的なのは、全7部からなる楽曲の折り返し3曲目の「山中湖」、4曲目の「雅楽」と終盤の6曲目の「軽井沢の鳥たち」。この3曲は、特に軽井沢がそうであるのだけれど、この作品の1つの大きなピークポイントを形成している。軽井沢が序奏をほどほどに大部分が独奏ピアノのためのカデンツァであるからかもしれない。

ところで「7つの俳諧」は意外と録音は少ない。私の知る限りで、まず一番有名なピエール・ブーレーズの指揮でピエール・ローラン・エマールが奏でているもの、オーケストラはクリーヴランドのものが1つ。これはドイツ・グラモフォンから出ていて、中古も含めれば最も入手が容易いものでしょう。収録曲は他に「ミの詩」と「鳥たちの目覚め」。同じくクリーヴランド管弦楽団とやったメシアンの「クロノクロミー」「天空の都市」「我、死者の復活を待ち望む」と併せて聴くと、ブーレーズのメシアン演奏の成り立ちの理解を助けてくれるだろう。ブーレーズのメシアンというのは実に模範的で、忠実な演奏というよりも、なるべく味付けを薄くしつつもフランス的な柔和な勝手さを備えた演奏と言うといくらか分かり良いだろうか。
続いて同じくブーレーズの指揮で、ピアノがイヴォンヌ・ロリオ、演奏がアンサンブル・アンテルコンタンポラン。これは確かメシアンの生誕80周年演奏会の内容をレコーディングしたものであったかと記憶している。7つの俳諧のほか、「ステンドグラスと鳥たち」、「異国の鳥」が収録されている。入手は容易でamazonで簡単にワンクリックだ。ただし私はあんまりこの演奏はいかがなものであるかと思う。そもそも手前勝手なことを言うようであるけれど、イヴォンヌ・ロリオのメシアンがまず気に入らない。鳥のさえずりをあんまりにもがなり立たせて弾くそのありようは、どうにもメシアンの鳥像、と言うよりかは、私が想像する「メシアンの鳥像」像とはまた異なって聴こえてならない。試しに彼女の弾く「鳥のカタログ」を聴いてみてから、その後にアナトール・ウゴルスキが歌い上げた「鳥のカタログ」を聴いてみるといい。実にウゴルスキが逆説的にその鳥の声をピアノの上で描き上げたかが窺い知れる。
イヴォンヌ・ロリオは他にもマリユス・コンスタンともこの作品をレコーディングしている。ERATOレーベルから出ているアナログで、CD化はおそらくされていないだろうけれど。宮島の海に浮かぶ赤い鳥居が象徴的な一枚だ。ジャケットの構成が実に素晴らしいし、コンスタンのオーケストラ操作も実に巧みだ。イヴォンヌ・ロリオの演奏のやかましさを除けばの話ではあるのだけれど…。
続いてキングレコードから出ているもので、指揮を岩城宏之、ピアノを木村かをり、演奏を東京コンソーツが行ったもの。これはなかなか入手が面倒だ。メシアンのピアノと管弦楽のための作品が一応全曲収録されていることが謳い文句だ。これは中古でも目にかかる機会は珍しい上、国内盤しか出ていないものであるから、帯付きで求めようと思うと中々なものだ。その上言ってよければ、演奏の質もあまり良いとは思えない。それはもちろんブーレーズとエマールに比べればというのもあるけれど、やはり正直なところ、そもそもがあんまり上手くない。そういう意味ではある意味でコレクターズアイテムの1つであるのだけれど、私はあんまりとはいえこれをわざわざ求めてしまうものではないと強く感じる。
他にもCHANDOSレーベルから、ピーター・ドノオーが独奏しているものもある。これは当初、胡乱な性格を警戒したものであったけれど、指揮がラインベルト・デ・レーウであると聞いてすっかり安心して聴いたものだ。演奏は普通であるけれど、やはりロリオ以降の息の詰まるような演奏からはすっかり解放された充実した内容でもある。デ・レーウは実に良い。私はこれをジョン・アダムズの諸作品で実に世話になった手前、大変信頼のおける指揮者の一人だ。

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