想像上のイベリアからの夏の話、あるいは近代スペインのピアノ作品抄

6月も暮れであるけれど、結局のところ梅雨らしい梅雨は東京では片手で数えられる程度しかなかった。しかしそのくせもう7月どころか8月張りの酷暑が続く。特に湿気の溜め込みがとにかく酷い。例年であればそうした溜め込みが酷くなった折に台風が列島をびゃうとかすめて、その土地に溜まったあらゆる気の全てを太平洋へと投げっぱなしジャーマンしてくれるのに、今年に入ってからその台風でさえ記憶が正しければ2回しかまだ観測されていない。しかもその2回だって1号はどちらかと言うと小笠原諸島なんかの南洋側を主としたコースであったし、2号は台湾近辺でたむろって去ってしまった。こんなにも暑い暑いと言うけれど、日本列島全体の気温の分布に目を見ると、北海道なんかの北部地域はさておいて意外なことに沖縄もまた涼しい部類に数えられていると言うのが何とも皮肉である。曰く南シナ海や太平洋からの海風で狭い陸地であるからそれだけでも十分に冷やされているのだとか何とか。まあ半分正しくて半分誤っているのだろう。
考えてみれば、年々、日本で考えられているような「四季」と、それに対応した時節というものにズレ込みが生じているようにも思える。あるいは夏冬が長くなり、春秋が短くなっているとも言うべきか。またこれは東京や大阪なんかの都市部に限った現象なのかもしれないけれど。

さて、こうも暑いと自分は南国の作曲家の作品が聴きたくなって仕方がない。特にクラシック音楽においての南国といえば南欧地域がまずそれに当たる。イタリア、それもシチリアの辺りの作曲家だとなお良いし、あとはやはり南フランス、プロヴァンスやコートダジュールの響きを勝手に想像すれば体感温度が数度下がる気もする。あとはやはりスペインとポルトガルだろう。何だかんだ言ってイベリア半島の作曲家はいまだどうして彼らがメインストリームを張れていないのかが不思議なくらい、卓越した人間の情念を貫き通すようなメロディアスでノスタルジックで、その上、リリカルな表現技法を受肉させた作曲家が多くいる。あとはギリシャ。とはいえギリシャにおけるクラシック音楽の受容史はこれもまた込み入った事情もあって、若干や複雑だ。いずれかの機会にじっくり腰を据えて言葉でもってこれを語らいたいところ。
南欧だけではない。南米だって魅力的だ。特にブラジル、ヴィラ=ロボスやミニョーネなんかのピアノ作品やギター作品はまさしく夏の夜を彩ってくれる最高のアクセントだ。やはりブラジルと次いでアルゼンチンは音楽大国だ。やはりピアソラとヒナステラだろう。いずれヒナステラは彼の弦楽四重奏の魅力について語りたいところ。あとはやはり旧大コロンビア、いわゆるベネズエラ、コロンビア、エクアドルの作曲家たちも無視するわけにもいかない。特にこれらの地域の作曲家らはベネズエラの音楽教育プログラム、システマが生み出した最高傑作で指揮者のグスターヴォ・ドゥダメルが精力的に取り上げているから、彼のアルバム、『FIESTA!』を聴けばおおむねの雰囲気は了解できるところだろう。
以上が一般に言われる南国の音楽であるけれど、自分はそこにもう一地域の追加オーダーをしたいところだ。詰まるところそれはインド、そうインドの作曲家。特にラヴィ・シャンカールだ。彼のシタールの旋律とタブラのリズムが織りなす響きはまさしく暑さのための音楽そのものでしょう。

はて何故こうまでも季節、特に体温に対する音楽を列挙するのかといえば、それが音楽における地域性を如実に表しているからに他ならない。いわゆる民俗音楽、クラシックでいうところの国民楽派と呼ばれる人たちがいるけれど、こうした音楽というのは人の言葉と同じかそれ以上に恣意的で、確かに対位法やコード進行なんていう「理論」が発展してきた経緯こそあれど、そうした理屈は掘り下げていけば、その地域に住む人間たちが最も許容し、受け入れた音楽、地域的な取捨選択や自然淘汰を経て発展した音楽の傾向を理論的に体系化したものといえばいくらか聞こえはいいだろうか。
詰まるところ、暑い地域の音楽は、その暑さに対して音楽を通じてどう向き合うかが、一つの「何故、音楽を書くのか」という哲学的な根源的な問いかけとして作用し、結果として暑い地域には暑い地域特有の響きや音の言い回し、表現のニュアンスに変化が生じたのだろうと思われる。それは寒い地域にも同様なことが言える。そこにその地域に分布する各民族ごとの特色が主体的ないわば「顔」として作用し、今日の民俗音楽と呼ばれる伝統音楽の基本を作り出したのではないかとも感じ入るわけである。

スペインの音楽史というのは実にイギリスと似ている。詰まるところ、バロックやそれ以前の頃に一つの黄金期があり、そこから19世紀にかけて長い沈黙があった後、20世紀に入って再び隆盛を見せている点であるのだけれども、実情はおそらく異なるのでしょう。
スペインの、それも鍵盤楽器による音楽は実に避暑として優れている。とにかくこのことを力説したいがために書いているに等しい。

スカルラッティの600を超えるソナタは今更取り分けて何かをいうまでもない。また彼の系譜に連なるアントニオ・ソレールの鍵盤ソナタ集も同様だ。ただやはりソレールのソナタはスカルラッティのそれと比較すると随分と知名度が落ちてしまうのが悲しいところだ。

そこから大きく飛んで次はやはりアルベニスだろう。イベリアだ。この暑い時期に聴くイベリアは特に良い。例えるのであれば夏の日に食うよく引き締まった蕎麦のようなもので、わさびとみょうがが乗っていればなお良い。アルベニスのピアノ作品の持つからっきし明るいのにも関わらずどこかダウナーで陰鬱とした陰がスッと差し込まれるような音楽表現の妙はまさしくイベリアに注ぐ地中海の太陽とそれを覆う雲からの陰り以外の何者でもない。聴いていて非常にああ夏!という気分にさせてくれる。


あとはやはりグラナドスだって外せない。ゴイェスカスだ。この作品もまた陰影に富んだエモーショナルでメロディアスな旋律が良い。録音ではクン=ウー・パイクが録音したものが特に良い。
またゴイェスカスに関してもう少し言うのであればナクサスから出ているギター三重奏版も実に素敵だ。こういった異種編成による録音と言うものはナクサスでないと出来ないことだろうし、そうでないと意味をなさない。


それとやはり並べるべきはフェデリコ・モンポウだろう。モンポウの場合、いくつか作品があるけれどやはり「前奏曲集」と「歌と踊り」の2つは傑出して良い。特に彼の場合、自作自演の録音も残っており、それがまた実に素晴らしい演奏であるのだから全く自己完結した名盤とも言える。またショパンの主題による変奏曲も大変、著名でもある。

あとはわざわざ上げようとは思わなかったが一応、マニュエル・デ・ファリャとホアキン・ロドリーゴもそうだろう。近代スペインの音楽を語る上で彼らを無視するわけにはいかない。ただとはいえ正直言って自分はファリャとロドリーゴの鍵盤作品はそれほど評価をしていない。彼らの本領はもっぱら管弦楽における色彩感に富んだオーケストレーションの妙が魅力なわけで、それがまた鍵盤という楽器の上で書かれるタッチは確かに彼ら独自の色合いを帯びているとはいえ、どこかモノトーンな感触を感じずにはいられない。むしろ多くの楽器を動員したような表現でこそ真価が出る稀有な例とも言える。

お気付きになられたかとも思うが、これらはいずれもアリシア・デ・ラローチャの中核的なレパートリーで、ほとんど全ての出会いを鑑みてもラローチャのEMIレコーディング全集で知ったものだ。一つ例外を上げるのであればやはりモンポウだろうか。これはBrilliantレーベルのもので本格的にその魅力を知ったわけだけれども。

そういう意味で言うとEMIやWarnerから出ている一連のBOXセットも、もちろん演奏者の遍歴が如実に内容として立ち現れるとはいえ、ある意味でそれのおかげでラローチャの視点を通して描かれた近代スペインの音楽を鳥瞰できたとも言えるわけで、ああいったBOXセットもこれはこれで実に魅力的な商品なんだなあなどとも感じ入ったりする。

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