見出し画像

近藤譲とそれを取り巻く空間の語彙

ALMレコード (コジマレコード)が創立50周年を迎える。それにあたってかつて70年代に出ていた近藤譲のLPのCDフォーマット化が進んでいる。
近藤譲という作曲家は、これは僕個人が認識しうる限りでしかなかったけれども、コロナ禍に世界が突入する2020年代から急に知られるようになった作家の一人であったと思う。それまでは日本の戦後の現代音楽を好むものであれば、ポストモダンに台頭する野平一郎とか西村朗などと共に70年代に登場するユニークな新世代といった文脈でのみ知りうるような人であった。まして今日、日本の現代音楽を聴く人にとって登竜門とも言える、片山杜秀がプロデュースするNAXOSの日本人作曲家選でも取り上げられてはいないし、レコーディングに目を見てさえ、まあFONTECがギリギリ手を出していて、あとはWERGOは流石ですね、現代音楽専門レーベルを名乗るだけの意地を感じる一枚を出しています。そんなこんなで近藤譲の録音の多くはもっぱらこのコジマレコードに依存していたわけでもありますから、まして多くがLP時代に出てCD化を待っていた経緯でもありますから、実に大変くたびれるスパンの回帰とも言えます。

そんなこんなで、いろいろな経緯から最近、近藤譲のコジマレコードでの録音集、具体的には「線の音楽」、「ブルームフィールド氏の間化」、「夏へ」の3枚を聴きました。
近藤譲作品と言いますのは、まあいくらか調べていただければすぐにわかることではございますけれども、いずれも室内楽や器楽作品で評価される作家ですね。管弦楽の作品は、一応ありますし、尾高賞だって取ってはいますけれど、お世辞にも良い作品かと言われると、僕には何とも言い難いものがございます。彼の作法を見ておりますと、徹底的に音数を削って、音とその次の音との関係ですとか、響きとその次の響きの関係ですとか、そういった部分にどうも彼なりのアプローチがかかっているらしく、結果としてピアノ一台ですとか、5つの楽器のみですとか、弦楽四重奏ですとか、そういった程度の規模感に結果として収まっていっている傾向を感じます。そもそもが管弦楽向きの書き方をしているとは思えないですから、まあ得手不得手の妙といったところでしょう。

ところで上に挙げたアルバムにしたって、コジマレコードが今、社運を賭けて推し進めているこの近藤譲のプロジェクトだって、それを聴くにあたっては、やはり彼が活躍し出した70年代という空気感を知っていないとどうにも厳しいものを感じます。70年代。もう50年前だそうですね。おっかない話です。EXPO70に生まれた人がもう50を半ばに迎えようとしているわけで、ましてそれに直撃した若い世代、当時10代、ないし20代であれば50年代、60年代の人々ですから、彼らも還暦を迎えていよいよ社会的には重役になったり、あるいはリタイアして老後の準備を進めている頃合いなのだろうかとも想像したりします。あるいはその時期を壮年で迎えた当時30代、ないし40代は今はもう80代になっているか、鬼籍に入られた方々だって少なくないでしょう。来年には戦後から80年ですか。いずれこの大戦という概念も、当時を知る人たちもいなくなって、当時を知る人たちの息子たちを知る人でさえも少なくなろうとしている昨今でございますから、いずれは日露戦争や関ヶ原合戦のような歴史的イベントとしてモニュメンタルなものとなっていくのでしょう。2019年でしたか、EU及び東欧諸国の首脳陣らがフランスで第一次世界大戦終結100周年のイベントのために集まっていたことを思い出します。ああいった形でのイベントとして、2045年辺りにもやるのでしょうね、そういうことなのだと思います。

そう考えると、この70年代を知る人というのも、まだまだいるとはいえ、確実に、着実に少なくなっているのだなぁと痛感いたします。僕にとってそれは文壇を通じてその文脈を知ったわけでございますから、そういうニュアンスでしか語り得ませんけれども、EXPO70の年、市ヶ谷駐屯地で…とか、ジャズ喫茶では…とか、脳みそが飛び出した赤ん坊を…とかそういった、あえて作家の名前こそ出しませんけれども、お分かりいただけるでしょう。簡単な伏せ字当てでございます。あるいはその当時の若者にコミットした話であれば、湘南の太陽族から銀座・青山のクリスタル族への推移なんかも象徴的でございますね。あるいはこれは個人的な地域史の話となってしまいますが、東京における文化の中心が新宿から渋谷へと推移していったのもその時期だったとかすかに記憶しております。渋谷パルコが1972年、渋谷109が1979年開業でございますからね。

音楽の話でもしましょう。1970年代の音楽事情、主にクラシック音楽の分野で、ですけれども。現代音楽の世界では最も事件として目立ったのは、1960年代の末に武満徹が『ノヴェンバー・ステップス』で、ルチアーノ・ベリオが『シンフォニア』で大成功を収め、前者にとっては国際的に知られる一助となって、後者にとってはコラージュ技法という新しい方法の開拓を促進したりもしました。あるいはミニマル楽派の世界で言えば、スティーブ・ライヒが1978年に大作「18人の音楽家のための音楽」を発表し、その2年ほど前にフィリップ・グラスがミニマル・オペラ「浜辺のアインシュタイン」を上演したりもしました。

肝心のシュトックハウゼンはといえば、ちょうど中期から後期へと推移する直前の位置にいます。シュトックハウゼンにおける中期とは言うなればそれまでの電子音楽やミュジーク・コンクレート、総音列技法による作曲から、そこに身振り手振りなどの列を拡大したり、より様々な事細かな部分にまで列を導入したりした時期で、「INORI」や「来るべき時代のために」なんかを書いた時期でもあります。フォルメル形式ですとかモメント技法ですとか直観主義音楽ですとかを提唱したのもこの時期ですね。EXPO70にも西ドイツ館のための音楽を書いたりもしていました。3台のラジオ受信機のための「エキスポ」というそのまんまの作品ですけれども、この送受信をテーマにした作品は、これはこれで実に面白いですよ?暇な時にでも聴いてみてください。そこから折り返して今度はオペラの制作を開始した時期でもあります。7作からなる巨大なオペラ「光」でございます。オペラ制作という観点で言えば、リゲティが「ル・グラン・マカーブル」を書いたのもこの時期でございます。

経済の観点で言えばやはり何よりオイルショックでしょう。具体的には1973年の第4次中東戦争と1978年のイラン革命です。20世紀前半における西欧諸国による負債のツケが回ったと言ってしまえばそれまでなのですが、結果としていわゆる世界経済はこれを由来として一気に揺れ動いて、脱石油化の旗印として原子力発電や太陽光発電が推進されたりしたのもこの時期であったかと記憶しています。
当時のアメリカ大統領はニクソンからフォード、フォードからカーターへと移った頃で、間に米国政治史最大の恥部となったウォーターゲート事件と、悪夢となったベトナム戦争への最終解決たるパリ和平協定による米軍のベトナム撤兵が決定した。

「私たちの長い悪夢は終わった。」

しかしそこから悪夢が始まったのはソビエト連邦だ。ソビエトが1978年にアフガニスタンに侵攻した折、傀儡であったアフガン民主共和国が再び回帰することだろうと誰しもが思っていたものだったが、結果は反面、現地部族のゲリラ戦に難儀して結局この悪夢が過ぎ去るには10年近いの歳月を要した。やがて悪夢ののちにソビエトは、東欧革命とペレストロイカ、ベルリンの壁の崩壊の後に物故することとなる。

かくいう日本はと言えば、高度経済成長の真っ盛りである。その年の最初に万国博覧会を成功させ、1964年の東京オリンピック以来、イザナギ景気の機運に乗って経済成長の一歩を続けていた。少し先の話にもなるけれど1980年代には凋落するアメリカをよそに日本と西ドイツが今後の世界経済を牽引するという日独機関車論なんてものが叫ばれたりした。(余談ではあるけれど、自分が最初にこの日独機関車論を見た時、ああなるほど、日本と西ドイツを機関車の車輪に見立てているのだから「機関車"輪"」なんだろうと誤読したものである。全く情けない限り!)
当時の日本の首相は佐藤栄作から田中角栄へ、角栄が田中金脈事件 (1974)で失脚すると、次いで三木武夫、その三木もまた遂に噴き出したロッキード事件 (1976)の煽りの中で退陣を余儀なくされ、大平正芳との大福密約に基づいて福田赳夫が首相となる。その間、三木政権の時より頻発していた日本赤軍による日航機ハイジャック事件が幾度と起きた。政治家としては情けない限りではあるけれど、しかしダッカ事件 (1977)で「人命は地球より重い」と表明した姿勢は象徴的だ。そんな末、大福密約を反故にせんとしゃしゃり出た福田を降して、結果的に密約通りに首相となった大平正芳であったが、在任中に奇しくも死去、後に2000年に小渕恵三もその道を辿ることになるけれど、ともかくとしてその後、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登による80年代、昭和最後の政治が始まっていく。

さてここまでつらつらと70年代という切り口で色々と申し立ててきたかれこれというのは、一つの結論として、ある芸術家が生きたある時代の作品を鑑賞するにあたって、(それがどれほど影響を与えたかはさておいて)その"場"に注がれた一つのその時代の空気感を背景として知っているというだけでも、その作品に映る情景や印象というものが随分と違うもので、特に近藤譲に限らずこの70年代という時代が以前の記事でも少し触れたように、一つの大きな時代の区切りともなった特殊な年代でもあるわけで、この70年代に関する考察というか、様々な切り口を用意してから作品やその外延の事物に臨むというのも決して悪いものでもないということです。

ところで同時に僕は70年代と同じくらい、この2020年代というのもまた70年代と同じくらい、特殊な年代になっているとつくづく感じます。それと言いますのも、その頭に発生したコロナ禍を切り口にロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるパレスチナ侵攻など、それこそ70年代から2010年代までに溜まった色々な鬱憤が一気に世界という場で噴出しているようにも思えるからで、これからしばらく、それが2030年代、2040年代となった頃にやっぱり2020年代というのが実に特殊な年代だったなあと感じ入れるような具合になっているんだろうなとも想像したりしています。

下記、余録ではございますが、松岡正剛が逝去なされたと聞きました。
私にとって松岡正剛は読書における一つの大きな軸でもありました。正直、彼の読書の仕方には都度、共感しかねる節こそあったものでしたけれども、それでさえインターネットの黎明期から今日までの20年に渡る歳月の中であの「書評とエッセイと評論とブログとがミクスチャーした何か」を続けてきたことには到底、ライフワークなんていう言葉では締まらない執念深いものを感じたりもします。何より立派だなあと思ったのは、その最期に至るまで常に本と共にあり、ペンと共に眠ったことだと強く感じ入るわけでございます。千夜千冊シリーズを通じて今の僕があったと言っても過言ではないですから、彼が薦めてきた書籍が今の僕にとって重要な血となり肉となって、今日の僕を作ってくれたものですから、なかなか、言葉に詰まる限りでもありますが、ただ言えることは「寂しい」。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?