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シュトックハウゼンの『腹の音楽』抄

自分がシュトックハウゼンの作品の多くをより具体化した形で知ったのは、中公新書から公刊されていた某書に由来する。それはもちろん、総音列技法からさらに拡張された表現の妙への虜になったばかりでなく、その神秘的で哲学的な、彼にとって「音楽を書くとは何か」という、作曲家であれば誰しも考えるであろう永遠の命題に対する結果としての作品の多くとその生き様にどこまでも揺さぶられたからに他ならない。
シュトックハウゼンが提唱した技法や語法はいくつもある。その中でも直観主義音楽とフォルメル技法、モメント技法と呼ばれる作曲上のテクニカルな部分での開拓は、上でもやや触れた通り、12音技法から総音列技法、そこからさらにその先に続く、拡張されたセリーとして見るべきでしょう。それは同時代に特にブライアン・ファーニホウが開拓していったようないわゆる「新しい複雑性」とはまた住むところを分つものとなった。ファーニホウの場合、頭打ちに見えた総音列技法をより突き詰めて、圧縮に圧縮を重ねた黒いノーテーションとでも言うべきその筆致に評価の点が置かれている。特に独奏フルートのための「ユニティ・カプセル」という作品はその点において、まさしくファーニホウが目指した音列技法の究極の形として作品に昇華されている。

 ところで自分は一瞬、シュトックハウゼンのこうした技法的開拓に対して「拡張された音列」と書こうと考えたのだけれど、やはりここはセリー (列)と表現した方が妥当に感じ入った。それと言うのも、シュトックハウゼンの何より画期的だった点は、シェーンベルク、ウェーベルン、ブーレーズと続く12音技法、総音列技法の系譜から発展して、音とは隔たれた現実の、身振り手振りやパフォーマンス1つ1つに対して列の概念を導入させた点にあるわけで、それはもはや「音」列ではないわけであるから、そうと言うよりかは単にセリーと言ってしまった方が妥当に思えた次第なのだけれども。これに関して言えば完全に日本語上の、翻訳上の想定外がもたらした困難にほかならない。そもそもで言えば12音技法だって向こうで言えばそれを「セリエリズム」(Serialism)というわけで、そのイズムにかかる「セリー」こそ「列」を意味するわけであるから、直訳すればセリエリズムは列主義となっても良いわけで、ただ一方でそもそもそれは音の列に由来するわけであるから、音列と訳するのも概ね妥当な解釈だとも導けるわけで、それがどうして音以外の列が登場できやうかと言ったところだったのでしょう。なかなか困難な話です。
拡張されたセリーによって制作された作品の中で最も象徴的なのは「INORI」でしょう。

「INORI」は1974年に書かれた作品で、ご推察の通り、日本語に由来したものとなっている。シュトックハウゼンは何かと日本との繋がりがある。1960年代の後半だったかに訪日し、日本の寺社仏閣の響きを取り入れた電子音楽
「テレムジーク」やExpo70、いわゆる1970年の1回目の大阪万博での西ドイツ館で上演された3つの短波受信機のための「エキスポ」、7部からなるオペラ「光」の「火曜日」に登場する雅楽のための「暦年」など、日本を想起させるような作品を書いてくださったりしているわけだ。
「INORI」の映像をみればわかるようにこの作品では演奏者の音列とはまた別で、パフォーマーによるパフォーマンスの列があり、それがまた音列と対応し、(あるいはパフォーマンス列が音列を対応させて)一種、象徴的な作法として機能している。

この頃だったろうか、シュトックハウゼンの作品がある時期を境に非常に内面的な、祈りや償いや罪なんかを題材とした作品を多く書くようになった。この「INORI」もそうだけれども、直観主義の作法で書かれた「来るべき時代のために」と「7つの日から」もまたそのようなニュアンスが含まれているし、「光」以外の舞台作品「秋の音楽」や「呼吸は生命を与える」などの作品、そして「腹の音楽」に関して言えば最も象徴的な作品として塔のようにそそり立っている。

シュトックハウゼンの「腹の音楽」は中々重たい。30分ほどとシュトックハウゼンの作品の中では短い部類に入る作品ではあるけれど、そこにかかる密度は半端なものではない。INORIを上梓した翌1975年に発表されたこの作品は、6人ほどのパーカッション奏者のための作品で、登場する楽器もマリンバやシロフォン、ヴィブラフォン、グロッケンシュピールといった、いわゆる鍵盤打楽器が主体的だ。何より異質なのは舞台上にいる奴。立派な衣装をまとった鳥の頭をした人型の何か。まるでラヴクラフトの小説にでも登場しそうな異形が吊るされて鎮座している。その服にはリールにつながれたたくさんの鈴があしらわれており、人形が何かの影響で動くと、鈴が風のざわめきのように鳴り出して、不気味な神秘性を引き出している。グロッケンシュピールがアラートのようにキラキラと音を放ちながら、仏教の儀式のように銅羅が淡々とそのビートを刻んでいる。それを管理するかのようにシロフォンは象徴的なセリーを一音一音を入念に間合いを取って奏なで、その幕間で奏者たちがポーズの列を対応付ける。やがてこの鳥人間にも鈴以外のギミックが仕込まれていき、象徴的なエンディングを迎える。実に拡張されたセリーの傑作だ。
当初、この最後の場面について克明にその場面に感じた描写を書き留めておこうかと思ったけれど、そんなことは野暮ったさの極みだから辞めた。これは自らの目で見て解釈するべき内容であろう。それが音楽的な美しさだとか、舞台表現的な神秘さだとか以上に、この作品に内在する贖罪的な、こう腹の奥底にズンと落ち込む何か罪深さを咀嚼反芻して加味するべき内容なのだから。

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