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近藤譲と言語にまつわる興味

前回、近藤譲に関する抄説を載せた折、思ったよりも反響があり、やはり彼がここ数年で飛躍的に評価されているのだなと改めて実感した。今日は前回書き損ねていた、近藤譲の作品と言語にまつわる話を少しだけしたい。
それというのも、近藤譲作品に対する近藤譲自身の態度というのは時折、どうしてそこまでとも思えるほど冷淡な対応をしているわけで、その内心を探るではないが、これはあくまで個人的な印象として、近藤譲というのは一種の「信用ならない語り手」(または「信頼できない語り手」)でもあろうかとさえ思う。もちろんそれは彼に対して失礼なのではないかとさえ思うけれど、実際、彼の作品と彼のその作品に対するノートを読んでいると、その内容の差に驚天する時がある。兎角として淡白なのだ。

近藤譲は自らの作品に際して、その作品が何故、そういうタイトルでどういうニュアンスが含まれるのかという部分について、頑なに閉口をすることによって、あるいはニュアンスなんてないんだと主張することによって、作品がその名称からもたらされる印象の揺れ動きに対して、近藤なりの解決を試みようとした。例えば弦楽四重奏のための『ブルームフィールド氏のための間化』(1973)におけるブルームフィールド氏が一体誰であるのか、彼は明確なことは言わなかったし、また例えば管弦楽のための『林にて』(1989)や『夏に』(2004)に関して言えば彼はこれを「林にて書いたから」「夏に書いたから」そう名称したのであって、「林を描いた音楽でも、まして夏を描いた音楽でもない」とさえ主張した。果たしてどうだろう。手前勝手ながら、こうした態度の表明を額面通り受け取ることこそ最も危険な行為だ。それというのも、もし本当に近藤自身が作品にかかる名称から惹起される印象にある程度の懸念を抱いているのであれば (あるいは無関心であるのなら)、ジョン・ケージの『4分33秒』(1952)やクシシュトフ・ペンデレツキの『広島の犠牲者に捧げる哀歌』(1960)の原案でもある『8分37秒』のようなタイトルにすれば良かったわけだし、またあるいはそこにかかるイメージを排したいのであれば、芥川也寸志の『交響管弦楽のための音楽』(1950)であったりモートン・フェルドマンの『ピアノと弦楽四重奏』(1985)のようにその編成を題名に冠そうとするだけでも随分と違ったはずではないか。しかし近藤はそれをどこまで意図してかはともかく、これまでそのような作品をほぼ発表していない。(唯一例外的なのは「無題」と題された独奏ヴァイオリンと10の金管楽器のための作品でしょう)
このことから分かるように、少なくとも近藤が題名がもたらすものに対して全くの無関心でないことと、また全くの排他をする気もないことがおおよそ窺える。

この腹積りは一体何なのだろう。近藤譲の初期の作品に『オリエント・オリエンテーション』(1973)という作品がある。これは2つの任意の楽器のための作品で、彼が提唱する「線の音楽」なる技法的思想的アプローチの最初の試みとなった。この作品のプログラムノートの中で近藤はこのタイトルをフランスの哲学者ジャック・デリダの著書『グラマトロジーについて』(1967)からの引用だったような気がすると明確な断定を濁しながらも例示している。

題名の「オリエント・オリエンテーション」という言葉は、この曲を作曲していたとき に読んでいたジャック・デリダの『グラマトロジーについて』の中の文章から取ったのだ と思う(多分この本だったと思うのだが、最早、記憶が定かではない)。しかしこの曲は、 デリダの本の内容とは何の関わりもない。私は、この言葉の意味ではなく、響きに魅せら れて、ちょうどよい題だと思って借用しただけである。 多分、この題名(直訳すれば、 「東洋案内 」とでもなるのだろうか)と、そして、曲のヘ テロフォニ-的なテクスチャーの所為なのだろう。私は、評論家から、この作品に東洋音 楽からの影響が──もっと具体的には、ヘテロフォニ -的な性質を持つ日本の伝統音楽か らの影響が──あるのではないか、と尋ねられることがある。

近藤譲『オリエント・オリエンテーション』プログラム・ノートより抜粋

本当に忘れてしまったのか、意図してなのかはさておいて、手前勝手ながらこのデリダの『グラマトロジーについて』は幸いなことに蔵書としてこれを僕は持っていた。この哲学書は言語にまつわる哲学で大前提、フェルディナン・ド・ソシュールによる言語理論と、おおよそ古代ギリシャからハイデッガーまでの (欲を言えばサルトルまでの)形而上学の歴史を知っていないと中々厳しい内容をしている。その上でデリダは本書の中でジャン=ジャック・ルソーの『言語起源論』(1781)に関する言及が多くを占めるので、やはり多少なりルソーに関する理解も求められるでしょう。
さておいて、『グラマトロジーについて』において次のような一節がある。

言語は一つの構造 ──場所と価値の対立の関係──であり、一つの方位付けられた構造である。あるいはむしろ、言葉の遊びをしているわけではほとんどないが、その方位付け〔東方化〕(orientation)は一つの脱方位付け〔脱東方化〕(désorientation)であると言おう。

ジャック・デリダ『グラマトロジーについて 下巻』(現代思潮新社, 足立和浩訳)より

この東方化が近藤譲の『オリエント・オリエンテーション』の名の出所だと推定して概ね問題ないでしょう。なお本人はデリダのこれとは全く関係がないと言ってはいるが、そう言う割には、その次作か前作かで並ぶ姉妹作とも言える『ブルームフィールド氏の間化』におけるブルームフィールド氏だって、この文脈からして明らかに構造言語学のレナード・ブルームフィールドであるわけで、間化という概念もソシュールを通じてデリダの『グラマトロジーについて』から次のように説明さえされている。

ソシュールによれば個的発話 (パロール)の受動性はまずその言語体系 (ラング)への関係でもある。受動性と差異との関係は、言語活動の根本的無意識 (言語体系 (ラング)における根基としての)と意味作用の根源を構成する間=化 (espacement)*との関係から区別されない。
*休止、余白、句読法、間一般、等々。

ジャック・デリダ『グラマトロジーについて 下巻』(現代思潮新社, 足立和浩訳)より

少なくとも1973年に書かれた『オリエント・オリエンテーション』および『ブルームフィールド氏の間化』の2つの作品は、デリダの『グラマトロジーについて』から導き出される構造言語学および脱構築という関係の土台から生まれた作品と見ても概ね誤りではないでしょう。またこの作品を通じて導き出される近藤の「線の音楽」というのも、こうした構造言語学的な手法の延長から来ていると考えた方がいい。

ともすると、近藤作品の多くを占めるあの音とその次の音との関係、響きとその次の響きの関係の美学、ないし、一本の音のラインが派生したり収束したりする運動的な音楽の構造というのも、考えてみれば非常に原初の発話行為を滲ませたような印象さえ受ける。「線の音楽」というのはもっと記号論的なアプローチなのだとさえ感じ入るばかりだ。
近藤譲という作曲家は、想像している以上に言語にまつわる観念、エクリチュールやパロール、ラング、シーニュ、シニフィエ、シニフィアンといった記号論的な観点との結び付きが深い作曲家なのでしょう。

オリエント・オリエンテーション (ハープの多重録音版)

オリエント・オリエンテーション (ギターと箏版)

ブルームフィールド氏への間化

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